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畏友・青江隆一郎さんからの季節の便り [2012年04月02日(Mon)]




shimizuyama-2.jpg

清水山で。





niiza-katakuri.jpg

   新座で



shimizuyama-3.jpg

   清水山にはワサビもありました。






青江隆一郎さんとは、なぜか気が合うんです。
もともとはフリーの編集者として10年近く前、
学研の国旗の大判の本を作成する仕事の関係で
お会いしたのですが、仕事以外でも時々、
お付き合いをしたくなる「いい人」です。

久しぶりにこんなメールが来ました。

  ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

ときどきブログを拝見させて頂いております。
お元気でご活躍のご様子、嬉しく思います。

ソメイヨシノの開花もそろそろかと思い、
近所のカタクリ巡りをしてきました。

一番近い牧野博士の記念庭園のカタクリは、
ここら辺で一番早く咲きます。

でも、年々株数が減っている気がします。
3月26日に訪れたらすでに咲いていました。

同じ杉並区内では
清水山憩いの森とその隣の稲荷山憩いの森に
カタクリがあり、特に
清水山では数万株はあります。

知り合いが見張り番を兼ねて、咲く時期には
毎日出かけては案内をしています。

そこも咲き始めていました。
来週末くらいが見頃になるのではと
思います。昨年と違い、
今年は一斉に花を開かせると思います。

昨年は天候が不順で
早く咲き始めたものから遅く咲いたものもあって
カタクリの花の群落という程では
ありませんでしたから。

お隣の新座市でも栄という町に
妙音沢という湧水地があって、
その周りの林にカタクリが咲いています。

ここも昨日下見に行ってきました。
ここにはニリンソウも自生しています。
ニリンソウもツクシもまだ花や胞子は出ていません。

ここも来週末辺りが
良いのではとにらんでいます。

咲き始めの春の便りのお裾分けです。

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

こういうお裾分けはいいですね。以前、私も
秋田県の奥羽山脈内で、群生している
すばらしいところをみましたが、東京とは
1ヶ月違いますね。
献血運動の仲間たち・青木繁之理事長のことなど [2012年03月24日(Sat)]


P3230241.JPG

   青木繁之献血供給事業団理事長(左)と筆者。3月23日、明治記念館での理事会の後で。



畏友・青木繁之くんが
公益財団法人献血供給事業団の理事長を
退任することになった。

私とは学生時代以来の献血運動の同志。
思えば、ちょうど50年前、
私は早稲田大学第一政経学部の学生、
青木くんは桃山学院大学に在籍していた。

私は秋田で、青木くんは島根で
高校時代に青少年赤十字の活動をしていたが、
当時は互いに知らなかったはず。

それが、私が早稲田の
語学のクラス仲間を誘って、
日赤本社や日赤中央病院(現・日赤医療センター)で
ボランティア活動をしている中から、
早稲田大学学生奉仕団が出来、
日本赤十字献血学生連盟が生まれ、
私はその初代会長となった。
その時の関西支部長が青木くんだった。

出来たばかりの移動採血車を
各大学に廻し、
青年将校といわれてほどない
中曽根康弘衆院議員には
早稲田の正門前までお越しいただき、
献血していただいたが、
これで中曽根議員は国会議員で
最初に献血した人となった。

その後は、西村英一厚生大臣に直談判して
大臣室からそのまま青山学院に
お連れして献血してもらったり、
私たちと青木くんらとは
お互いに東西で活発に運動を展開した。

私はその後、
東京オリンピック大会組織委の
国旗担当専門職員となり、
献血運動はもっぱら同級生の
木村雅是(まさのぶ)くんらに
委ねるほかなかった。

木村くんらはそれを見事に花咲かせ、
卒業後は日赤と話を進め、
献血供給事業団を発足させた。

笹川堯衆院議員(陽平日本財団会長の実兄)が
発足以来、会長の任意あって指導してこられた。

木村くんは専務理事として
この事業団を発展させ、
青木くんはその同僚として総務部長、
木村くんの退任後は昇進を重ね、
今日まで理事長として奮闘した。

このたび、定年を迎え理事長を退くが、
藍綬褒章も決まったようだし、
引き続き評議員として大いに
関わることにはなっている。

そうそう、かくなる私は以上のような
長年の献血運動のご縁から、
8年くらい前からだったろうか、
同事業団の監事を拝命している。

事業団の本部は今月、
江東区辰巳から武蔵境の日赤武蔵野病院の構内に
移転したが、東日本大震災の当日も、
必要な血液を必要な病院に、
最後は自動車を捨てて走って持参してでも
きちんと届けるということをやってのけた。

今更ながら役職員の
日夜にわたる奮闘には頭が下がるし、
この50年、献血が
日本社会に定着したことは何よりもうれしい。

私が献血運動をしていたころは、
売血が90数%だったのだから。

みなさまの御尽力、ご協力に感謝し、
青木くんの労を讃え、
一層の貢献を期待する。
主役ってすごいなぁ! 拍手!! [2012年01月06日(Fri)]














年末に、北トピア大ホールで行われた
ミュージカルの話を紹介しましたが、
主役の、われらが
佐々木菜穂子(秋田高校首都圏支部副会長)さんから
早速、メールと「美しいお姿」の写真が
おくられてきました。

あの日の発声はいつもと違うとは
思っていましたが、
なるほど、わざとそうして役づくりをしたのかと、
納得が行きました。

今年度いっぱいで秋田に戻るとか、
吾らがふるさとで一層のご活躍をと
期待しています。

  ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀

先日は3世代ミュージカル
ご鑑賞、ありがとうございました。

演じた私達も驚いたのは、
初回、2回目に出演した方々が
観客となり、オープニングの曲から
一緒に歌って盛り上げてくれた事です。

地域に根付く村芝居の可能性を実感しました。

演出から「天から響くような声で」と
言われていましたが、
客席の友人から「いつもと違う声だった」
との感想を頂きました。

音あそび教室が目指した3〜80才の学び合い、
分かち合いの理想が、
あの瞬間さくらホールそのものが
理想郷(狐村)になっていたのでしょうね。

指導にあたった若い先生方にとって、
今後の活躍の原動力になったようです。

バトンを渡す大人達の判断、勇気と
忍耐、器も大事ですね。

2012年の皆様の幸せを
お祈りします。

  − 白狐のなおコンより
袴田茂樹教授の最終講義 [2012年01月06日(Fri)]





青山学院大学国際政経学部の
袴田茂樹教授がまもなく定年となり、
下記により、
最終講義が行われますので、お知らせします。

一般公開講義ですので、
申し込み不要であり、かつ、
どなたでも聴講できます。

演題:「ソ連崩壊後20年―回顧と展望」
日 時:1月11日(水)11時00分〜12時30分
場 所:青山キャンパス 135号室(1号館3階)

袴田教授は、1944年3月17日生まれですから、
まもなく67歳(私とは同じ誕生日)。
大型オートバイを乗り回す元気さは
相変わらずです。

もう何十回も一緒にロシアを訪問した仲です。

ユーラシア21研究所の吉岡明子常務理事、
柴田良彦事務局長はともに、袴田ゼミ出身の
モスクワ留学組みです。

袴田先生の今後のさらなる活躍を
期待し、祈念します。


2012年、年賀状から@ [2012年01月06日(Fri)]





  がんばれ! 千葉く〜ん!!







今年も1千枚を越える
年賀状をいただきました。
ありがとうございます。

国難を超克し、平和と繁栄を願い、
家族の安寧を祈っているというものが
圧倒的に多く、私もそれには
もちろん賛成ですが、
中にはいろいろご教示いただいたり、
感動したりと言うのもあり、
すこしずつ、ご紹介して
参りたいと存じます。

先ずは、被災地石巻の
若き友人・稲井地区オヤジの会
会長・千葉政徳さんから。

「力強い新年のメールを
ありがとうございます。

いつの日かの栄光のゴール、
必ず来ますよ。

当方、ユーラシア21研究所の
引越しでまだもたもたしたスタートです」
とお返事するしかなかったです。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

あけましておめでとうございます。
昨年中は被災地に多大なるご支援を賜り
感謝申し上げます。

東日本大震災で被災された皆さんも
大勢いらっしゃると思いますが、
どんな悲惨なことがあっても
新しい年を迎える事が出来ました。

あえて自粛せずおめでとうと
言わせていただきます。

我々のスタートラインは遥か後ろに
引かれてしまいました。

走るコースも障害物だらけですが、
ゴールまで失ったわけではありません。

前を向いて走り続ける意志さえあれば
大丈夫。

被災者も支援者も決して諦めるな、
という気持ちです。

私にも出来ることがあれば、
ご一報ください。

できるかぎりお手伝いさせていただきます。

近況です。
2日に青年会で「獅子舞」をして
町内を練り歩きました。

震災の影響もあり各家を廻る軒数も
少ないようでした。

震災前ですと朝8時から夜9時頃にまで
舞うのですが、今回は6時前に終了。

青年会在籍の子供たちも
笛や太鼓で頑張りました。

我が息子(小4)は
3年目にして太鼓デビューをしたのでした。
(画像添付しました)

町内には4つの仮設団地がありますが、
その4団地共に静まりかえっておりました。

獅子舞を見に出てきたのは
各団地1〜3名程度で、
その敷地内から出て舞いを見に
来た人は一人もいませんでした。

縁起物ですから仮設の方にも
お声がけしたのですが反応は「NO」です。

新聞やテレビで仮設団地に
「獅子舞賑わう」と連日記事になりましたが、
記事をみれば被災された地区住民が
仮設団地でも同地区まとまっている団地だけが
盛り上がっているようです。

逆に色々な地区から単体で
団地に集まってきた方々が居る仮設は
隣人の名前や顔さえ
知らないという方も、今もおります。

昨年は「プレハブメーカー」の寒さ対策で
畳の敷き込みが約90%が完了、
残り10%は仮設住宅を倉庫か
別荘替わりにしている方がいるようで
連絡が取れない状況。

行政も連絡が取れない状態で
連絡先の住所や電話も不明。

今年になって「ハウスメーカー」の
仮設住宅の中を見学(仕事で)することが
出来ましたが
寒さ対策は万全のようで、
プレハブ住宅とは雲泥の差です。

床からも壁からも天井からさえも
冷気はきてませんでしたし、
何より暖房を入れてない部屋
でも温かいのです。

それと結露がでないということが
非常に良いと感じました。
お正月の準備進む [2011年12月31日(Sat)]



   石井満弓さん、ありがとうございます。










    巨岩へのしめ縄を見ると、自然への畏敬の念がおのずと
湧き上がってきます。










 今年もあと半日になりました。

 拙宅では毎年、
舞鶴在住のカラーコーディネータ・
石井満弓さんからの、素敵な
クリスマス・デコレーションと
新年のお飾りを掲げ、来訪する客人、
借金取り?から宅配、集金・・・
のみなさんに、お褒めの言葉を
いただいております。

他方、山梨県北杜市長坂町の
スーパーひまわりで、おそらくは、
いにしえの八ヶ岳の噴火で
吹き飛んでいたと思われる
大きな岩に、
しめ縄がはられていました。

ことしはお互いに大変な年でしたが、
来年は、日本にとっても、世界にとっても、
そして私たち個人個人にとっても
幸せな年になりますようにと
祈らざるを得ません。


  ★    ☆    ★




王子の狐 [2011年12月30日(Fri)]








   主演の白ぎつねとのキツネポーズのツーショット。佐々木菜穂子さん。キツネらしく、ここまで化けると年齢、失礼、卒業年次不詳の名女優!!





 佐々木菜穂子さんに誘われて、
ミュージカル「往時の狐 ねがいの石」を
王子駅前の北トピアで鑑賞しました。

 佐々木さんはわが母校・秋田高校の
は〜るかに後輩ですが、
同窓会首都圏支部副会長(ちなみに、会長は
橋本五郎読売新聞特別記者)として、
われら同窓生には大きく睨みを利かせている人。

 このミュージカルでも主役の一人・白狐を
演じているほどですから、タタリが怖い?私どもは
こぞって参上と相成りました。

 いや、しかし、歳末の忙しい中を
無理してでかけて良かったというのが結論です。

 キャストが28人、ほかに合唱が14人、
ミニ合奏団付きで、スタッフも大勢。

 出演者はいずれも素人のはずですが、
老若男女、なんとなんと・・・実力者ぞろい。

 それだqけに、 これまでに至る苦労が
しのばれます。それでも、2008年以来、
もう3回目の公演とか。

 王子の町づくりのキーワードが「きつね」、
名物もきつねうどん(とは聞かなかったです)。

 王子では明日、大みそかの夜、
「きつねの行列」が
行われます(詳細はHP参照)。

 これは、都内では今や珍しい
江戸時代に起源を発する地域伝統行事とか。

 今回のミュージカルも、北区や
その「王子狐の行列の会」などの積極的な
協力があった様子。

 もちろん、
わが佐々木女子のコン夜の熱演は
ピカイチ(拍手!)。
もうコンなどとオヤジギャグをいう仲間は
いませんでした。

「佐々<キツネ>に立派」という
老生が一人いましたが。

 北区とはこれまで
あまりご縁のなかった私ですが、
これですっかり
北区が好きになったという思いで、
一杯やって帰宅しました。
竹田倫子先生を悼む [2011年12月27日(Tue)]




 以下は、去る12月22日、東京・千駄ヶ谷の津田ホールで
行われた、竹田倫子(ともこ)先生との
「お別れの会」で私が詠んだ弔辞です。



   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜


      弔      辞

竹田 倫子(ともこ) 先生

 40年ほど前のことでした。
河野愛子会長、小泉多希子理事長を
始めとする東京コミュニティカレッジのみなさんと、
ロシア、ヨーロッパ、最後は
イスラエルをも訪問するという
大旅行をしましたね。

バチカンではローマ教皇とも
お目にかかったりして・・・あのときが、
竹田先生と初めて
少しゆっくりお話が出来たときでした。

それがもう、この1ヶ月、
お目にかかることも、
直接、お声を聞くこともかなわなくなったとは
信じられない日々でした。

その寂しさは、長い間ご指導を
いただいた私のみならず、
ここに列席している一人ひとりにとって、
共通の悲しみと寂寥感(せきりょうかん)、
そしてある種の不安に通じるものかと思います。

 竹田先生がご他界される2日前、
私は先生へのお手紙を投函しました。

先生の多年のお仲間から、
「病の床に伺うより手紙を差し上げるように」
との助言をいただき、
そのようにさせていただきました。

しかし、まさにその手紙と行き違いに、
先生は天国へと旅立たれたのでした。
残念至極です。

 お読みいただけなかった手紙の一部を
、ここに読み上げさせていただき、私
の思いをお伝えしたいと存じます。

    ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜

 謹啓
 その後、おからだのほうは
いかがでございましょうか? 
案じつつ、衷心よりお見舞い申し上げます。

 ご病気と伺いながらも
参上しないでいる間に、
ことがどんどん進められ、
去る11月4日のカレッジの
臨時理事会にて、図らずも私が
理事長の重責を担うことになりました。

 もとより浅学非才、かつ微力ゆえ、
全力を捧げても担うあたわずかとは
存じますが、
諸先輩・同僚のお力をお借りして、
小泉、竹田両先生の実績を汚さないよう、
努めて参る所存でございます。

 残念ながら、
瀬尾秀(ひで)彰(あき)先生の健康は思わしくなく、
竹田先生ともどものご全快を
祈念する外ないのですが、
幸い、澤内 隆、瀬尾兼秀両君に加え、
お若い相良、間宮両さんが理事を引き受けられ、
理事会は大幅に若返りました。

また、長年中心的な役割を果たしてこられた
恩田先生、石井信子さんには
顧問としてご指導いただきます。

加えて、宮沢英子さん、宮原信子さんなどのように
創立時からのメンバーもご健在です。

そして、先生の甥の比佐秀仁くんもいます。
皆様には顧問として、
今後とも従来どおり理事会には
ご出席いただくことにしましたし、
さまざまな機会にご指導をいただくように
してまいります。

 内部理事の方々、事務局スタッフのみなさんも
一致団結、大張り切りの様子でいらっしゃいます。

 カレッジは当面(少なくとも今年度中)は、
なんら活動を変更することなく、
事務局体制や金銭の出納を含め、
全てを従来どおりとし、その間に、
次年度以降の発展について
みなさまにお諮りして参りたいと考えております。

 本来なら、竹田先生には拝眉の上、
ご指導いただかねばなりませんが、
それも果たせないまま、
バトンを受け継ぐことになりました。

何卒、お元気になられて再び新宿の教室で、
目白の椿山荘で、
千駄ヶ谷の津田塾会館でお目にかかりたい
と思います。

 なお、私は近々、
小泉先生のお墓参りをし、
決意を示してまいります。

 みなさまがなしたことのみではなく、
為そうとなさったことが何であるかを見極め、
そこを目指して全力を尽くすことを
お約束申し上げます。

 向寒の砌、一層ご自愛ください。
                敬具

☆ .。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

 思えば、東京コミュニティカレッジは、
1963年、お姉さまの小泉多希子先生を中心に、
戦中戦後、実質的に教育の機会が
十分でなかった女性たちが相集い、
子育てのさなかであっても、
自主的な勉強の機会を求めての
スタートであると聞いております。

早くから三笠宮崇仁親王殿下には
名誉会長として、また、
多年講座もお引き受けいただきました。

竹田先生や今、申し上げた方々、
そして、きょうご出席くださっている諸先輩が
美濃部亮吉、中曽根康弘、
永井道雄、若泉敬といった諸先生など
著名な方々にも声をかけ、相集い、
自己改革と心の豊かさを求めつつ、
自他共生の社会づくりを目指したものでした。

当初、竹田先生は、
その実務面を取り仕切られ、
カレッジの健全な運営を図る中心になって、
小泉先生を支えてこられました。

そして小泉先生亡き後は、
瀬尾秀彰先生を理事長に副理事長として
実質的運営の中心にあり、
瀬尾先生が病を得てからは、
理事長代行として私たちを
ご指導くださいました。

 この間にあっては、
かつての財団法人を
特定非営利活動法人に切り替え、
資産の、より有効な活用をおはかりくださいました。

まもなく迎えるカレッジの創立50周年を
ともに迎えたかったというのは、
きょうお集まりくださっている関係者みんなの
思いでございます。

その優しい微笑みと確信に満ちたお声を
聞くことができなくなったことは、
繰り返しますが、本当に寂しい限りです。

しかし、上座仏教修道会を創設され、
上座仏教のわが国における普及という面でも
大きな功績を挙げられた竹田先生にしてみれば、
私など到底、思い知らぬ
高貴かつ清澄(せいちょう)な心境で、
永い別れの旅に発たれたのだと思います。

かくなる上は、のこされた私どもが
一層の絆を強め、力を合わせて
努力してまいりたいと存じます。
どうぞ、お見守りください。

先生のご冥福をお祈りし、
カレッジの発展に微力を尽くすことを
お約束し、簡単ですが、
お別れのご挨拶とさせていただきます。
ありがとうございました。

          2011年12月22日

特定非営利活動法人 東京コミュニティカレッジ
         理事長  吹 浦 忠 正
「社長」からのクリスマスカード [2011年12月26日(Mon)]






ボランティア活動仲間の和田ますみさんは
通称が「社長」。なにか私にはよく解らない分野の
起業家で、その社長をしているらしい。

東日本大震災の直後に、
そのまた友人の発想で、
毎日、鳴子温泉から20トンのお湯を
万葉亭の温泉専用タンクローリーで
被災地に配るというプロジェクトを発案した。

これが出来たのは、この人との人脈による。

私に出来たのは、せいぜい、これまた仲間の
伊藤康志大崎市長に電話して、
市内の鳴子温泉の市保有源泉を毎日、無料で、
好きなだけ使わせてもらえるようにしただけ。

 被害地の方々や救援にでかけたボランティア
にも喜んでいただいた。

ところで、この暮れにも
内外からたくさんのクリスマスカードを
いただいた。

もっとも、ご不孝のための年賀状を
欠礼すると言うカードが
その倍以上もきたのだが・・・。

それはともかく、
「社長」からのクリスマスカード・メールは
さすがに、一味違うのでご紹介したい。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

下記のカードは私が以前開発した
音楽コレクションサイトからの
クリスマスカードです。

あわただしい年の瀬ですが、
ひととき懐かしい音楽をお楽しみ
いただけたら幸いです。

http://www.kaerutube.com/songs/kaerutubecard.cfm?cid=yUSVvuq2t

これからもどうぞご指導のほど
よろしくお願いします。

Wishing you every happiness
this holiday season and
throughout the coming
year.

     和田 ますみ

      ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀

なんともスマート。そしてこのカードで流れる曲は
楽しくもちょっと懐かしい、名曲でした。
「社長! ありがとう。よいお年を!!」。




台湾独立・黄昭堂先生、逝く [2011年12月22日(Thu)]





    黄 昭堂先生






台湾独立運動の指導者・黄 昭堂先生が
11月17日、動脈剥離のため台北市内の病院で
急逝された。

先生は1929年、
台湾台南県(現在の台南市)に生まれ、
台湾大学法学部卒業後、
1958年に東京大学大学院へ留学し、
社会学博士を取得。

聖心女子大学、東京大学講師を経て、
1976年から昭和大学の
政治学(国際関係論)教授となり、
定年である1998年まで務めあげた。

この間、一貫して
台湾独立運動の最高指導者として
運動を率いられた。

このため、蒋介石、蒋経国父子による
戒厳令時代には
34年間も帰国できず、
1992年、ようやく台湾へ戻り、
大歓迎を向け、
1995年には台湾独立建国連盟主席に就任し、
民進党時代には総統府国策顧問の要職にあった。

ほかにも台湾安保協会理事長、
財団法人現代文化基金会会長でもあった。

金美齢さんとは日本語による共著
『大中華主義はアジアを幸福にしない』
(1997年、草思社)
などを出版したほか、
運動の同志として活動した。

20日、昭和大学上条講堂で開催された
「お別れの会」には台湾から
羅 福全元台北駐日経済文化代表所長、
政界からは安倍晋三元首相や
西村慎悟前衆議院議員、
言論界からは金美齢さん、岡崎久彦元大使、
昭和大学からは片桐 敬学長のほか
二人の名誉教授が、そして
宮崎繁樹元明治大学総長、
小田村四郎元拓殖大学総長らが
弔辞や思い出話を語った。

もちろん会場には
「中華民国」の国旗である
青天白日旗など全くなく、
台湾独立連盟の「白赤白」の
縦三色旗で、中央に台湾と付属の島々が
白く抜き出されている旗だけが並んだ。

この日の会場内での結論は、
「台湾の独立は将来必ずありうる」
「日台関係はきわめて重要である」
「台湾の中国による併呑は
日本の国益を著しく損なう」というものであり、
「お別れの会」というより、
「黄先生追悼大演説会」という様相を
呈していた。

台湾では2012年の年頭に総統選挙が行われ、
黄先生は蔡 英文さんを民進党の候補として
強く推しておられた。

それにつけても思い起こすのは、2004年、
黄先生の指導で約200万人もが
台北から高尾までだったか、
手をつないで
総統選挙での民進党の応援をした(人間の鎖)の
総指揮者を務められたことだ。

いただいた名刺には
「台湾共和国台北市・・・」とある。

その信念、情熱、理論構成、優しさ・・・
学ぶべきことがたくさんあった人だった。
                合掌