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三笠宮さま、97歳をお迎えを寿ぐ [2012年12月02日(Sun)]


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三笠宮崇仁さまは12月2日、97歳の誕生日を迎えられました。今年は、6月にご長男・寛仁親王殿下を亡くされ、7月には自ら心臓の弁の手術をお受けになられました。幸い、8月末に退院され、順調な回復で、杖をついてゆっくり歩くなどリハビリを続けておられるということです。

今、私が理事長を拝命している東京コミュニティカレッジの名誉会長として近年までの40年近くご指導いただいてきました。毎年旧正月に行う「新春のつどい」ではユーモアたっぷりのお話をされたり、南京事件についてのご自身の体験を話されたりもしました。

また、この「つどい」です私との対談というコーナーでは「戦前のことだが、皇族と宮内庁職員との野球の試合があってね、昭和天皇はいつもピッチャーで4番なんだよ」というエピソードを聞かせてくださったり、ご幼少のころ作られた童謡8曲(本居長世作曲)の楽譜を頂戴し、御前で私が歌い、「超」過分な「アンコール!」を賜ったこともあります。

親しくしておられた歌手の松田トシ先生(私の声楽の師匠)のお宅には何度もみえられたと、お二人からそれぞれに伺いました。確か同じお年のはずですが、先生は昨年12月に逝去されました。

97歳の宮様のご健勝をお祈りします。また、カレッジの現況などご報告に上がりたいと思っています。
郷 隼人さんと朝日新聞の読者たち [2012年11月21日(Wed)]




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先日、小欄ではカリフォルニアで服役している歌人・郷 隼人さんが1年半ぶりに「朝日歌壇」に復帰したことを嬉しさいっぱいに書きましたが、郷さんのことはもちろん、多くの読者が注目していたのです。

朝日新聞は11月19日付で<「甲乙閑話」短歌が結ぶ人と人>として、こう書いています。

郷さんからはこちらから何もしていないのに、先年、直接、お便りをいただき、驚き、かつ恐縮してしまったことがあります。感性も表現も豊かで、私が朝日新聞を購読している何割かの理由は、この人の投稿歌に出会えるからです。

さまざまな事情があって、まだしばらくは「(アメリカ)郷 隼人」のままのようですが、ご壮健で、私たちを励まし続けてくださいと祈り、お願いするほかありません。

     ❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀❀

 わが詠みし短歌(うた)を待つ人居てくれる
 何て幸運(ラッキー)な奴なのだ俺 (アメリカ)郷 隼人

 この歌が10月29日の「朝日歌壇」に載った翌日から10日間で、手紙とはがき、100首もの短歌が全国から寄せられた。作者は米国で殺人罪で終身刑となり、獄中から16年に亘り投稿を続ける。郷隼人はペンネームだ。昨年4月4日の入選を最後に投稿が途絶え、1年半ぶりの登場だった。

 「郷さん、お元気でしたか」「ほっとしました」。涙を流して読んだ人、思わずひとりで手をたたいたという老婦人。「なんとはなしに生きてる実感」と詠んだ歌も。私は朝日歌壇を担当して1年。熱心な愛読者がいるとは知っていたが、正直驚いた。

 郷さん自身、かつて自著の後書きに「どうして、まったく面識のない人々が、これほどまでに親身になって僕のことを心配してくださるのか」と書いている。その温かいまなざしは、当時ブームだった全戦全敗の競走馬ハルウララへの応援と同じものではないか、とも。そして被害者家族を気遣い、美化されないよう自戒する。

 いや、少し違うと反響を読んで思う。望郷と母への思い、そして痛切な悔悟の念をまっすぐに歌う「郷隼人」は、読者にとって、会えない息子であり、懐かしい友であり、ままならない日々を送る自分自身なのではないか。ネット全盛の時代に、短歌が結ぶこんな交流がある。(伊佐恭子)
鯖、秋刀魚に祖国思う受刑歌人 [2012年11月12日(Mon)]


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夕されば刑庭(にわ)の秋風身に染みて
  祖国(ふるさと)恋し日本語恋し

アメリカ・カリフォルニア州で服役している郷 隼人さんの短歌が今週も「朝日歌壇」に入選している。この人はおそらく「朝日歌壇」で最も多く入選した詠み手ではないだろうか。

それでも、この1年半余り、おそらく投稿を控えていたのではないだろうか。

この歌の選者・高野公彦氏は、「第一首、有名な俊成の歌<夕されば野辺の秋風身にしみて 鶉(うずら)鳴くなり深草の里>を踏まえながら、自分の境涯を嘆く。<祖国恋し日本語恋し>の心が作歌の原動力かも>と「評」で述べておられる。

郷さんの故郷は鹿児島、つまりお名前は「薩摩隼人」ということだ。

獄中生活が長くなり、関係者が受刑者移送条約により、祖国日本での服役の可能性を調べているが、果たして、日本で刑に服すことができるのか慎重に検討を重ねているようだ。

今週の「朝日歌壇」にはもう一首が二人の選者によって選ばれている。

何故秋になれば故郷が恋しいか
  鯖・鰯・河豚・秋刀魚・キビナゴ

永田和宏、馬場あき子のお二人の選者はこれを挙げておられる。郷さんは、アメリカには板前として渡った人。「鯖・鰯・河豚・秋刀魚・キビナゴ」に、ただ「食べるだけ」の私とはまた違った思いがあるのかもしれない。

アメリカの監獄では焼き魚、煮魚などというのは、でないんだろうなぁ。差し入れに行ってあげたい。この大歌人に。 
猪木正道先生逝く [2012年11月07日(Wed)]


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   猪木正道先生



猪木正道先生が逝去された。享年96。安保問題の論客として知られた。京大名誉教授として、高坂正尭、木村 汎、矢野 暢、西原 正、五百旗頭 真といった逸材を指導し、そのまた弟子に、中西輝政、前原誠司などを輩出している。防衛大学校校長としても大きな足跡を遺し、1986年には勲一等瑞宝章を受章、2001年に文化功労者に選ばれた。

戦後すぐから一貫して民主的社会主義の大切さを唱えた。政治権力の正統性や独裁権力を分析する一方、新聞、雑誌に精力的に論評を発表。日独の独裁政治研究は全3巻の「評伝吉田茂」(78〜81年)にまとめられたが、これは戦中戦後の日本を知る上で、必読の書となっている。

防衛大校長を辞任後は平和・安全保障研究所を創立その理事長(引退後は高坂、西原などがその任を継ぐ)でいらした。

私は猪木先生がわが師・末次一郎の主宰する安全保障問題研究会(安保研)の共同座長(今一人は佐伯喜一野村総合研究所社長)でいらした頃から京都に転居されるまで、特に防大校長時代以降、大いに「可愛がられた」。なんども横浜のお宅に伺い、教えを請い、時には微力ではあったがご協力申し上げたこともある。

そんなときには帝国ホテルやホテル・オークラにお誘いくださり、特大のステーキをご馳走してくれた。「日本人はもっと肉をくわなきゃいかん」。最晩年まで大好物のステーキを食べ続けたとのことだ。

熱烈な読売ジャイアンツのファンで、何度かいっしょにロシア各地を回ったときでも、毎日、その日の試合結果を電話で取り寄せてはご報告させていただくのが私の日課だった。その勝ち負けで、少なくとも表面的にはご機嫌が変わったのが、この大学者先生の人間味だった。

70年代の中頃、クレムリンにコスギン首相を訪ねたときのことも忘れられない。緊張している日本側に、同首相がいきなり「よくいらした。私は1時間ほど時間がある。何を話そうかね。それにしても諸君は若い。猪木さんというのかね、いくつかい? ほう60、若いね。まだコムソモールだ」。

これで双方すっかり打ち解け、率直に、北方領土問題と日ロ平和条約について話し合った。

また、安保研として80年代にグルジアで会議をしたとき、そのリーダーぶりから、日ソ双方からグルジア語の「タマーダ」(愛すべきボス)と呼ばれて親しまれた。ただし、ソ連との厳しい議論では一歩も譲らず、鋭い舌鋒と温かい包容力には多くを学ばせていただいた。

日本の安全保障政策については「平和憲法の理念を守りつつ、自国の防衛軍を明確に保持できるようにするべきだ」と改憲論を打ち出す一方、リベラリズムの立場から、教育勅語や戦前の軍国主義を批判した。旧民社党の理論的支柱となり、佐藤、大平、中曽根各首相についてはブレーン役を務められた。中曽根首相の強い「引き」で、定年前の京大法学部から防大に籍を移された。中曽根も叙勲その他でその功を讃えた。

先月は岸田純之助元朝日新聞論説主幹が亡くなられ、これでわが安保研の創立以来のメンバーは全て他界された。

今、この研究会は袴田茂樹新潟県立大学教授を会長に宿願の、北方4島の返還と対露関係の抜本的改善をめざして、灯火を継いでいる。同志とともに深甚なる謝意を表し、ご冥福をお祈りする。
                           (敬称略)
安井算哲とJ.S.バッハ [2012年10月16日(Tue)]





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"映画『天地明察』パンフより
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ジャン・セバスチャン・バッハ(1685〜1750)の「インヴェンション − 演奏例実記版」をピアニストの山季布枝(やまき・のぶえ)さんが出版しました。そして、それがドイツ・ライプツィッヒ・バッハ協会図書館に収蔵されたことを記念して、山季さんによる「バッハからの伝言」トーク・コンサートが日比谷の松尾ホールで行われました。

この人姉妹とはとても仲良しで、家族ぐるみのおつきあいをし、何度も演奏会に行きましたが、今回が私には一番印象深いコンサートでした。今までは、得意とされ、好評なトークに私はどうにもついてゆけなかったというのが実感でした。それが今回は音楽の授業を受けるようなコンサートだと始めから納得して出かけたこともあり、得るところ極めて大でした。

バッハとヘンデルが同年生まれというのは知っていました。しかし、ジュスティーニもスカルラッティも、つまり著名な作曲家4人が同じ年に生まれたというのは、初めて知りました。これは専門家には常識なんでしょうが、記憶に残る印象的なお話でした。

山季さんは第二部でその4人を弾き分けてくれ、時代と各作曲家の音楽的個性を教えてくれました。

実はそのあと、ふと思いつき、映画「天地明察」を上映している丸の内ピカデリーにjust in timeで飛び込みました。思いついたのは、あれっ、もしかしてバッハと「天地明察」の主人公である囲碁師であり、大和暦を考案した安井算哲(=渋川春海。岡田准一)は同じ時代の人かも、と思ったからなのです。バッハの生まれたのは1685年で、1750年に没しているのですから、タイトルを見ながら、その間の将軍はとなると(元受験生は名前が出てくるのです)五代将軍綱吉から始まって、家宣、家継、吉宗、家重なのを思い出しました。八代将軍吉宗はバッハの1年前に紀州で生まれています。

ところが違っていました。安井算哲、浅学菲才の私はこの人が1639年生まれで1715年に亡くなられたことを知りませんでした。つまり、バッハより46年早くこの世に生を受けた人なのです。算哲の時代は映画にも登場する、保科正之(松本幸四郎)、水戸光圀(中井貴一)のころであり、「鎖国」になってからの人なのです。算哲はまた関孝和(1642~1708)とも同時代の人です。

そして、そんな時に、日食や月食を予言する和算が(噂にも聞き、授業でも習いましたが)実際にこんなにも発達していたことに驚かされました。400年以上を経た21世紀の冒頭、それなりの高等教育を受けた「はず」の私には、そんな軌道計算なんて、文字通り、夢にも見ることのない超高等数学、魔術に近いものなのですから。

バッハもすごいですが、われらが先祖、日本の数学というのはずいぶん前から途方もなく発達していたのだなと、ただただ、驚嘆して、昨夜はしばし、眠れませんでした。
ェ仁親王殿下、ありがとうございました [2012年06月08日(Fri)]



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 ェ仁親王殿下が6日午後、逝去されました。
 謹んで哀悼の意を表し、
ご冥福をお祈り申し上げます。

殿下とは若い時からたくさんのご縁をいただき、
今となっては思い出に浸るほかありません。

姉上の近衞ィ子さん
(畏友・近衞忠W日赤社長令夫人)
とは前夜、日本太鼓連盟の会合でご一緒し、
親しくお話をしたばかりであり、
そのィ子さんに看取られて天界に召されたとの
記事を読むと、胸に迫るものがあります。

私の思い出の最大のものは失敗談です。
10年余り前でしたでしょうか。
難民を助ける会のチャリティコンサートを
昭和記念人見講堂で
開催した時の休憩時間、殿下と、
明日、英国留学に立つ長女の彬子さま、
それに相馬雪香会長(当時)と4人で
貴賓室で話し込んでしまい、
第2部にすっかり遅れてしまったのです。
係のボランティアに催促され、
真っ暗な中を、殿下、彬子さま、
それに80歳を過ぎた相馬先生の手を引く
私とで忍び足で場内に潜り込んだのでした。

それもこれも殿下と私が、もとい、
その日の昼、モスクワから戻った私の
疲れと不注意で、昔話に花を咲かせてしまい、
すっかり盛り上がってしまったせいでした。
今もって無責任を反省し、
恥じ入っています。

ところで、「ヒゲの殿下」の本名は、ェ仁
つまり、
寛永の寛の下の部分に点があるのです。
今朝の全国紙では1面トップで扱った
産経新聞のみが
正しく、朝、毎、読、日経はいずれも
「てんでかんにん(点で堪忍=ェ仁)」
殿下にならないのです。

この点、殿下はよく気にしておられました。
「自分の名前は点がつくんだがなぁ」
と慨嘆されたのを何度か耳にしました。

もっともその産経新聞、
中ほどの写真特集で、
衣冠束帯姿の殿下の写真を左右(裏表)
を間違えて掲載してしまいましたね。
笏は右手で持つことを、
配信した共同通信も、割付や校正した
産経新聞の整理部や
校閲部の人が気付かなかったか
知らなかったのでしょうね。

あらためて生前のご厚情に感謝し、
ご冥福をお祈りいたします.
中曽根元首相の右腕・小林克己さんを偲ぶ会 [2012年04月20日(Fri)]


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  祭壇はなく、小林さんがお気に入りだった写真がたくさんの花に
  囲まれていた。こういうのはいいですね。




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    中曽根元首相は1960年医以来の秘書だった小林さんを
    知識人であり、記者であり、読書家だったと懐かしむ。




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   読売新聞の「ナベツネ」会長らと。





 小林克己さんが亡くなったのは去る1月4日、享年82でした。
東大の国史を出て、すぐ中曽根康弘事務所に秘書として入り、
途中で防衛研修所の教官になったり、ロサンゼルスタイムズの記者されましたが、
生涯、「オヤジ(中曽根元首相)」の懐刀としてささえておられました。

 19日、東京・永田町のキャピトル東急ホテルで偲ぶ会が開催されました。
もちろん、中曽根元首相や令息の弘文元外相をはじめ、中曽根家の皆様も参加しました。

 中曽根元首相は自分の秘書を追悼するというより、仲間の逝去を悼む、
謝意をこめた素晴らしい追悼の辞を、もちろん原稿も何もなしに語り、
感動の波を起こしてくれました。
次にあいさつした、「ナベツネ」こと渡辺恒雄読売新聞会長が、
故人が学生時代に渡辺家に住んでいたという古い関係から
小林さんの若いころのことを中心に、思い出を諄々と語っていました。

私は、巨人軍はきらいですし、この人のワンマンぶりで冷や飯を食わされた
友人をたくさん知っていますし、「嫌な老人」の代表のように思ってきましたが、
政治記者としての抜群の発想力、頭の良さに加え、
意外に暖かい人柄にも触れる思いでした。

 小林さんのもとで同じく秘書をしていた与謝野馨元経産相談役、
島村宜伸元農水相、渡辺秀央元郵政相など、いうならば一族郎党100人ほどの
「同窓会」の雰囲気でした。

 ナベツネさん、小林さんをはじめ、60年安保の前後まで、結構、
「左」のリーダーとして学生運動をしていた人たちがその後、
方向を変えて中曽根氏の周辺にいたことも、あらためて知りました。

 元首相に挨拶すると「もう、キミとは半世紀だね」と感慨深く声をかけられました。
あまり役立ってこなかったと自省しているのですが、毎年1回ずつくらい、
大事なことでお世話になってきた50年です。

 小林さんは読書家で、人を差別せず、誰でも優しく迎えるいかにも紳士という人でした。
令夫人はアートフラワーの故・飯田深雪さん。その弟さんがまた姉の夫を悼む、
いい話をしていました。大きな家族のなかで小林さんが暮らし、
おくられた様子がよく解りました。

 酔うほどに、「それにしても、昔のほうが人材がいたなぁ」「ここ20年の政治はなんだ」
という声があちらこちらから聴こえるまま、
首相官邸の裏通りをゆっくり歩いて帰路についたのでした。
山本 正さん逝く [2012年04月19日(Thu)]



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 山本正(ただし、76歳)日本国際交流センター理事長が4月15日、
胆のうがんのため逝去され、昨18日午後、聖イグナチオ教会で葬儀・告別式が行われました。

お兄様が司祭でいらっしゃり、ご高齢にもかかわらず車椅子で出席され、
愛情、惜別、公平な評価を交えた実に見事な説教をなさいました。

「日米関係民間会議(下田会議)」を主宰して、日米交流の基盤作りに尽力され、
近年は鳩山由紀夫首相(当時)の諮問機関「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」
の委員を務めておられました。

私とは70年代から少しお付き合いはありましたが、NPO法推進のときに、
これに未だ理解の少なかった自民党の参議院議員たちをどう説得するか相談に来られ、
二人で“各個撃破”するとともに、7,8人の議員に集ってもらっては「NPO(非政府機関)
と反政府団体は違う」ということを説明したことが一番の思い出です。

その後は私が東京財団常務理事のときの評議員でいらっしゃいました。
山本さんは、民間人が、世界の人たちと深く対話し、共通の目的に向ってそれを達成する
匠のような人でした。

新聞報道によると、下田会議、日米議員交流、日米欧委員会(その後三極委員会)、
日韓知的交流会議、アセアン・日本ダイアローグ、日米中協力プロジェクト、
「グローバル・ヘルスと人間の安全保障」……民間の独立した立場と視点から、
海外要路との国際交流を実践した人です。

朝日新聞の船橋洋一前主幹は、「その足跡は、戦前の渋沢栄一、戦後の松本重治に次ぐ」
と評価していますし、「これからのアジアに必要なのは(欧州統合の生みの親として知られる)
ジャン・モネだ、と韓国の外交官が言ったことに同感する」とも書いています。

太郎、二郎、三郎、四郎と4人の息子さんが遺族として並ばれ、太郎さんが追悼しながら、
謝辞を述べられました。率直に「わが父」を高く評価した発言に、
列席したみんなが同感していました。

ロシアとの民間交流を多年続けてきた者として、時々、助言をいただいたりもしましたが、
日米関係が磐石であってこそ、ロシアとも深い付き合いが出来るし、
北方領土問題も話し合えるということを、確信できたご葬儀でした。
合掌
鳩山元首相への信頼度を世論調査で示すべし [2012年04月13日(Fri)]
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鳩山由紀夫元首相について国会議員としての信頼度を問う世論調査というのを
すべきであると小欄で書こうと思いつつ、
北朝鮮のミサイル発射を注視して遅れてしまった。

この人に政治家は無理だと私は思う。
一刻も早く衆議院議員も、民主党最高顧問(外交担当)を辞めるべきであるが、
本人はもとより「宇宙人」なので意に解さない様子。

だからといって、国会議員にはリコール制度がない。
ならば、メディアが世論調査でもやってほしい。
所属する党の意向を無視して北京に行ったり、テヘランを訪問しては
「元首相」としての前官優遇のプロトコールをもって「歓迎」されてしまう。

ここは民主主義の原則を活用して、国民の不信を数字で示すべきではないか。
清水美和氏、逝く [2012年04月11日(Wed)]



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 畏友・清水美和氏(よしかず)中日新聞東京本社論説主幹が、10日朝、
膵臓がんのため逝去しました。58歳。
中国問題で幅広い文筆活動を行い、2007年度の日本記者クラブ賞を受賞しました。
著書に「中国農民の反乱」など。

 10年近く前、日本財団の笹川陽平理事長(当時)から、
紹介したい人がいるからと引き合わされたとき、
正直言って、腰を抜かさんばかりに驚きました。私は東京新聞を多年、愛読していました。
それはひとえに清水記者の中国報道にほれ込み、あの新聞社には
おそろしく分析力と筆力のある女性記者がいるものと勝手に思い込んでいたのです。

 爾来、意気投合、モスクワに、サハリンに、ウラジオストクにと
たぶん5回くらい一緒に訪問しました。ロシア側は中国を巡る
「清水報告」に息を巻いていました。
私たちの「日露専門家対話」のレベルアップに寄与してくださり、「日本人はすごいぞ」と
思わせる最も大きな役割を果たしてくれた一人でした。

 東京財団での虎の門DOJO(道場)やユーラシア21研究所の「虎の門フォーラム」でも
講師を引き受けてくださり、癌をわずらってからも虎の門政治外交懇話会の有力メンバーでした。

 貴重な人材、大事な友をまた喪いました。
電車の中で新聞を読んでいて訃報を知り、茫然自失、1駅乗り越してしまいました。
数ヶ月前、経済産業省の裏通りで偶然会い、立ち話したのが最後でした。    合掌

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