CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 音楽 | Main | 自然»
<< 2014年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
異文化理解の難しさ [2012年12月30日(Sun)]



22-07-09_0855.jpg



先日、NHK/BS1を見ていたところ、スペイン国王フアン・カルロス1世が国旗とEU旗を前に、執務机に腰をかけて、クリスマスのメッセージを語る様子が放映されていました。スペインの公共放送のものを流していたのです。

欧米人の感覚ではこれは奇異ではないのでしょうか? 考えられないことですし、ありえないことですが、仮に天皇陛下が同じことをされたら、国民は驚嘆、呆れ果て卒倒するのではないでしょうか。

異文化理解とはかくも難しいものなのでしょうね。ショックのあまり、私は国王がどんなメッセージを語られたのか、まったく失念してしまいました。
難民を助ける会の名称とプーチン??? [2011年09月28日(Wed)]



共同議長を務めるピョートル・Y・バクラノフ(ロシア科学アカデミー正会員、同極東支部太平洋地理学研究所長)と筆者












   議長席から撮した、会議風景。会議は日露両国語の同時通訳で行われた。







   最終セッション終了後の記念写真。日本側からはやむをえず、
退席した人も多く、全体ではほかに10人近い人が参加した。
前列左から3人目がロシア側団長のヴィクトル・V.L.ラーリン氏(ロシア科学アカデミー極東支部歴史学研究所長)
 
 








 認定NPO法人難民を助ける会は
1979年11月24日に、
東京・青山の日本青年館国際会議場で
開催された設立総会で発足しました。

当時は、「インドシナ難民を助ける会」
という名前でした。

満5年を経た同じ日、同じ会場で
行われた総会で、
「難民を助ける会」となりました。

難民問題が広く、アフリカ各地等に
広まっていたからです。

こういうのを発展的「改称」とでも
言うんでしょうか。

この日、緒方貞子上智大学教授、
神谷不二慶応義塾大学教授、
井川一久朝日新聞記者の3人を
パネリストに、
私が司会をしたシンポジウムでも
3先生から、賛同と励ましを
いただきました。

ところが、今、実はこの名称で
少々困っているのです。

同会は、東日本大震災で
被災された方々のために
ということで、かれこれ約10億円相当の活動を
しているのですが、
どうも「難民」という言葉が、
お気に召さない様子なのです。

少なくとも怪訝そうに
受け取られるようです。

阪神淡路大震災の時には、
そのこともあって、
姉妹団体の
社会福祉法人さぽうと21の名前で、
これまた10億円を越える支援活動を
行いました。

当時は、NPO法ができる前のことで、
難民を助ける会へのご寄付は、
未だ免税対象になっていなかったことも、
大きな寄付を受け入れ
にくくしていたのです。

今度は、難民を助ける会が全面に出、
さぽうと21は教育支援に絞って
活動をしています。

それはともかく、
そこでまた難民を助ける会は
名称を再検討しようという話になったのです。

既に、英語では、
Association for Aid and Relief(AAR)とし、
「難民」という言葉を消しています。

それでも、当初の
Association to Aid Indochinese Refugeesや、
その後の
Association to Aid the Refugees同様、
略称はAARのままでいいのです。

実際の活動対象としては、
refugeesとはいえない受益対象が
大幅に増えてきているのです。

ハイチの地震、ミャンマー(ビルマ)や
スマトラの大地震等となると、
refugeesとは程遠くなります。

そこで、自分の提案ながら、
これはうまく英訳できたと
喜んでいたのですが、
Association for Aid and Reliefとして、
英語の略称は
そのままAARでやってきました。

 それが東日本大震災で
いよいよ舞い少で困ってきているのです。

 むしろ、「助ける会」だけで
いいのではないか、という意見は
有力です。

 そんなときに、
きょうまで開かれていた
「東京・ウラジオストク・フォーラム」の席上、
名越健郎前時事通信仙台支社長が
ロシアのアネクドートを紹介してくれました。

「100年前の支配者はラスプーチン、
今はプーチン、
100年後はチン(中国)」、
議長をしながら私が
ひときわ大きな声で笑ってしまったのは、
ひとえに、上のことを考えてきて、
いささかストレスになっていたからです。

会場の誰にも
それはバレてはいないのですが、
私自身、この小話では、
当分笑えそうな気がします。
「高等学校」という制度と名前 [2011年08月06日(Sat)]












 第93回全国高等学校野球選手権大会が
今朝の開会式から始まった。

わが母校、秋田県立秋田高校の前身・
旧制の秋田中学は第一回大会準優勝校、
その卒業生の慣れの果てとしては、
その母校が県大会であっさり潰えたのは
さすがに残念だった。

それにしても、
各地からの高校生たちによる
すがすがしい入場行進を
気持ちよく見つめることができた。

なかでも、確か茨城県の優勝校だと思うが
藤代高校の選手たちの腕の振りっぷり、
姿勢の良さは抜群だった。

指導者の徹底、かつしっかりした指導ぶりが
浮かぶ。初めて聞く名前の学校だが、
試合も応援したくなった。

それはともかく、
この「全国」「高等学校」
「野球」「選手権」「大会」の
それぞれの単語の初出を見てみようとして、
「野球」と「選手権」までを書いたが、
その後、仕事に忙しく、
とうとう今日の開会式になってしまった。

その間、いつもご愛読いただいている、
「杉並在住の淑女」から、
またまた私の脇の甘さを指摘する
ご指導をいただいた。

 いちいちごもっとも、
頭が下がります。

   ✾  ✾  ✾  ✾  ✾

吹浦先生、暑中お見舞い申し上げます。
いつもいつも、色々と
ブログで啓蒙して頂き、
感謝申し上げております。

今日のブログに
「野球」と命名したことで
登場の中馬庚氏の事を、
一高の後輩の主人が、
全く存じませんでしたので、
一高の名簿で調べてみました。

なんと【第一高等学校】という名前が
用いられるようになるのは
明治28年からなのですね。

明治20年から27年卒の間は
【第一高等中学校】という名前が
用いられていました。

中馬氏は明治26年卒業なので、
正確には【第一高等中学校】
を卒業という事になるのでした。

ちなみに、
その前の明治11年から
明治19年までは
【東京大学予備門】と呼ばれていたと
書いてありました。

【第一高等学校(その前身も含め)】は、
いまや、卒業生の殆どが
亡くなられているので、
普通の学校の名簿とは違って、
逝去された方々も、
普通に並べて書いてあって、
職業欄には、その方々の没年と
生前の(世間的に最高と思われている)職業
や地位が書いてあるのです。

いやらしい限りですが、
【〜〜社長】【〜〜会長】【○○大臣】
【△△校長】といった具合です。

【〜〜で戦死】が並んでいる世代もあります。

そして中馬庚氏の所には、
以下の様に書いてありました。

(没年)昭7.3.21
【野球殿堂入り。「野球」の名称の命名者】

  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾

「以上、どうでもいい話で、
お邪魔、お許し下さい」と
かくあるべしという謙虚さで、
いつも私を導いて下さるのです。
オアシスになった秋田と、岩手 [2011年03月26日(Sat)]








 首都圏から見て、きわめてロ−カルな、
「田舎侍の昔語り」に
お付き合いいただきたい。

 東北地方の太平洋岸を襲った大地震に際し、
わがふるさと秋田県は、
救援・支援の重要な基地として
役割を果たそうとしつつある。

秋田空港から東に向かって
三陸まで続く秋田自動車道や角館街道などは、
救援物資や燃料を運ぶ車両が
列をなしているという。

秋田は東北の中で、
なんでも「仙台に次いで2番目」であった。

唯一の「誇り」は明治維新の時、
32藩から成る「奥羽越列藩同盟」から、
よくいえば先を見て最初に離脱し、
悪く言えば、いち早く抜け出して明治政府側に
寝返ったのであった。

先祖のために弁護するなら、
関ヶ原の戦い当時、
常陸63万石の大藩を率いていた佐竹家は
上杉と通じつつ、東軍に参加しなったため、
家康により、石高を3分の1に減らされ、
未開の秋田に退けられ、
秋田の矢留(久保田)城は
天守閣や石垣も認められなかったという
屈辱の下で、取りつぶしを逃れた
260余年来の恨みがあったのである。

 この「勲功」によって、
岩手県から小坂・尾去沢の2大銅山など
鉱産豊かな
鹿角郡(十和田湖、八幡平に沿う地域)の
割譲を受け、
佐竹家は維新後、
いち早く侯爵の爵位を与えられたのであった。

 昭和になって、「秋田県民歌」ができた。

作詞は倉田政嗣(補筆・ 高野辰之)、
作曲は、「浜辺の歌」の 成田為三。

 秀麗無比なる鳥海山よ
 狂瀾吼え立つ男鹿半島よ
 神秘の十和田は田沢と共に
 世界に名を得し誇の湖水
 山水皆これ詩の国秋田

 廻らす山山霊気をこめて
 斧の音響かぬ千古の美林
 地下なる鉱脈無限の宝庫
 見渡す広野は渺茫霞み
 黄金と実りて豊けき秋田

と、1,2番で自然と産業をたたえた後、
3番はこんな歌詞となる。
 
篤胤信淵巨人の訓
久遠に輝く北斗と高く
錦旗を護りし戊辰の栄は
矢留の城頭花とぞ薫る
歴史はかぐわし誉の秋田

21世紀の今、この3番の歌詞は
まず歌われないが、
実際、南部藩には大いに攻め立てられ、
危機一髪のところで、薩摩藩の支援に
救われたのが「歴史」である。

従って、秋田県民の
心の深奥には、この
「錦旗を護りし戊辰の栄」は
長く残り続け、
戦前に盛岡に嫁いだ私の姉の婚儀に
当たって父は、周りから、
「一人娘を岩手にやるなんて」と
ずいぶん、言われたらしい。

私となると、もう、岩手県には
知人、友人、男女の仲間がたくさんおり、
せいぜい、「秋田新幹線が
盛岡経由というのが面白くない」と、
東京都の生涯学習審議会の委員だったときに
1度、10数人で乗っただけというくらいだ。

 前置きがあまりに長くなった。

 とにかく、今度の震災で、
秋田は「東北のオアシス」になったのだ。

きょう、その佐竹家の一員である、
佐竹秋田県知事が村井宮城県知事を訪問し、
秋田県内で2万人の被災者を引き受けると
約束した。

 私は東京から支援するほかないが、
秋田県民の皆様、
ここは一致団結、同じ東北人として
まずは岩手県民を
最大限、応援しようじゃないか。
戦陣訓起草者に聞くS [2011年03月11日(Fri)]






   挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。








   「生キテ虜囚……」は僕が書いた

白根 ところで、あなた方の『戦陣訓』研究の的はどこに絞っているんですか。

── 日本人の捕虜の特徴です。また、逆に日本人が捕虜を取扱う場合の諸問題についても研究しています。その間の共通の鍵の一つが『戦陣訓』にないかということです。一般的には、広く言えば国際人道法と日本との関係ですが……。「捕虜の歴史」も研究しています。

白根 そうですか。

── 『本訓』2の(8)、「名を惜しむ……」というところにとくに興味を持っていますが、専門は近代思想史、とくに軍隊内における教育についてです。
 軍紀風紀が紊乱していたからああいうものをつくった、という論理からいきますと、捕虜になるものがいっぱいいた、ということになるわけですか。したがって、そういう方面が紊乱していたから、ああいう一文が入ったと考えてよいのですか。

白根 捕虜の数が特別多いということはなかったですね。

── するとなぜ捕虜についての一文が入ったのでしょうか。

白根 みんなが集団行動をしましたから、簡単に何百人の人間を一網打尽に捕虜にすることはできません。ただ、南京で、日本軍が揚子江を渡れなくてウロウロしているところを何百人かつかまってしまったということがありましたね。敵だって軍隊ですからね……。とくに上海や南京にやってきた軍隊というのは精強でしてね。蔣介石の親衛軍ですからね。この隊は軍艦で来たんですよ。毎晩のようにチャルメラみたいなラッパを吹いてましてね。日本軍で捕虜になるのも出ることでしょう。

── あれがピュアピュアと鳴ると皆びっくりして恐怖心にかられると書いている本がありますね。

白根 そう。それでも日本軍で捕虜になる者は絶対数においてもとても少なかったですよね。

 
 〔注〕
<第2次世界大戦主要国別捕虜数>

ドイツ       9,451,000
  フランス     5,893,000
  イタリア     4,906,000
  イギリス     1,811,000
  ポーランド    780,000
  ユーゴスラビア  682,000
  ベルギー     590,000
  フランス植民地  525,000
  オーストラリア  480,000
  アメリカ合衆国  477,000
  ハンガリー    337,000
  オランダ     289,000
  ソ連       215,000
  日本       208,000

(1947年6月30日現在、赤十字国際委捕虜中央情報局に登録されている
捕虜カード数)
<『Report of ICRC, 1939〜1947』Vol.2(1948)316頁>

<お詫び> 私のPC力では数字と国名をそろえることが出来ません。
お見苦しいでしょうが、ご寛恕ください。

                    (つづく)
戦陣訓起草者に聞くR [2011年03月11日(Fri)]






   挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
掲載させていただいております。禁無断転載。





── 浦辺少佐が白根先生の論文を呼んで、それが白根中尉を中国の前線からお呼びする材料になっていたのですね。

白根 そうなんですね。


  〔注〕白根氏が中央に呼び出されることになったのは「偕行社記事」(昭和13年7月号)所載の同氏の寄稿「指揮統帥の体験」が決定的だったのではなかったかと思われる。

同氏はこの中で、まず指揮者は自分の部隊の兵員の特質をつかめとし、「予の所属せる部隊は臨時に編成せられた部隊であって、兵の大部分は相当年配の応召兵より成り、特に予の部隊の如きは、隊長たる自分以下総て応召兵である。

……いづれも社会のそれぞれの方面にあって独立の経済生活を営み一家計をなして妻子を扶養しつつある者が大多数である」と紹介し、こうした部隊を指揮している者の立場で、極めて具体的な例を示して士気と風紀を維持する上での努力と工夫のあとを述べている。

   浦辺少佐は、実践経験のなさを補うべく第一線にあって、なお兵員教育に熱心な白根中尉に期待をしたものと思われる。

   その中では、「演習の合間々々を利用して敵弾に傷ついた場合の態度、措置、重囲に陥り或は不可抗の状況により捕はれの身となった場合の覚悟処置等、軍人としていかに死すべきか、いかに最期を完うすべきかを有ゆる場合に就て説いて聞かせたのであった。その結果は征途に就く兵の覚悟の上に大いに見るべきものがあったと信じている。」と「生キテ虜囚ノ……」といわんばかりの訓話をしているとのべている。

 このほか同稿では、

@部隊長の式典、訓示も大事だが中隊長以下の下級幹部の責任は更に大である、

A入営時、見送りの一族一門、郷党同僚等の前に立って「軍人の大道を践み進退を過らしめざる」ようにするので「最愛の肉親の為、銃後を十分に固めて下さい」とのべる、

B時間厳守、熱狂の中でも厳粛に、車中の酒類を禁じた、

C上陸前日に遺言状を書かせ必死諦観の臍を固めさせる、

D「率先躬行」を指揮官の金科玉条とする、

E戦闘の緊張のあとの弛緩時には勅諭奉誦、東方遙拝、精神訓話、慰霊追悼、信賞必罰、
刑法等学科、演芸娯楽会の実施を行ない、指針方針を大転換し「悲壮な決意の下に断ち切らした郷国への愛着、肉親への恩愛の絆の復活」に努めた、と述べ、
Eの具体例として「自分の現下の真情は、生につけ死につけ如何にかして汝等の活動に有終の美あらしめたいとの一念である。汝等の家郷にあって、一家の支柱を失った汝等の家族が健気にも銃後の守りに揮ひ立って、朝な夕な、雨につけ風につけ、汝等の武運の長久を祈りつつ、陰膳据えて留守を守りつつあることを想ひ見よ。些々たる本能、慾念に踏み躓き、些かながら武勲を謳はるる汝等が、其の折角の武勲を汚すが如きことがあったなら、何の面さげて汝等の父母妻子に見ゆるか」とのべ風紀紊乱の防止に努めたとしている。


── それ以前には、浦辺さんとお会いになったことはなかったんですね。

白根 一面識もない。

── このころお書きになったものはほとんど軍紀風紀論ですか。

白根 「『軍人勅諭』の実践倫理」ということをいったんですね。倫理にも実践も理論もないはずなんですが……具体的内容ですね。

── まさにその時の内容が新しい軍律づくりにはピッタリだったというわけですね。

白根 はい。もう思いきって兵隊も首切ったっていいじゃないか、といいましたよ。敵の手に入って検分されるといわれましたが「されたっていいじゃないか。ためになるならいい」といったんです。
                  (つづく)

  
戦陣訓起草者に聞くQ [2011年03月11日(Fri)]





    「なごり雪」。石田良介画伯。




 論文が浦辺少佐の目にとまる

── 当時中国大陸に派遣されていた日本の軍隊というのは、そんなにひどかったのですか。

白根 まあ、中隊長、小隊長あたりの統率能力が落ちていましたからね。



  〔注〕『戦陣訓』ができてからも軍紀上のトラブルは絶えなかった。

 中でも著名なのは、昭和17年12月27日の館陶(たてとう)事件である。

 北支那派遣軍に属する第59(衣)師団第42大隊第5中隊の向里、塙両上等兵ら数名の兵が南方戦線への転属を不満として、飲酒、泥酔の上、上官侮辱、暴行からはじまって小銃の発砲や手榴弾の投擲など乱暴狼藉をつくし、福田中隊長以下がこれを阻止できなかった、というものである。

 この結果、向里、塙が死刑、他の加担者や衛兵等に懲役や禁錮刑、旅団長、大隊長が重謹慎30日ののち、軍司令官、師団長とともに、翌年3月1日転任、4月15日付で待命、次いで予備役編入となった。
 
 福田中隊長は旅団長から事情聴取を受けた後、事実上、強要された形で自決した。
 
 同事件については、前掲『北支の治安戦(2)』、熊沢京次郎『天皇の軍隊』、伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』(番町書房)に詳しい。
     敵破ることにもまさる苦しみは 内を統
へゆく悩みなりけり
           <浦辺、前掲書、220頁>
  

── 軍にお入りになる以前、白根先生は何をしていらっしゃいましたか。

白根 私は大学で哲学をやりまして、東京高等師範で教えていたんです。そこではドイツ語と論理学を教えました。哲学概論はもっと大先輩が教えていましたね。その時、陸軍の専門誌である「偕行社記事」という雑誌がありました。その人たちから呼ばれて、いわゆる世間の高校生はどういう教育を必要としているか話してくれ、といわれまして話をし、また頼まれてその雑誌にも6回分、主に軍隊での教育や規律倫理までについての原稿を送りました。

── それはいつごろですか。

白根 昭和6年から12、3年頃ですね。浦辺なんていう人は、やっぱり陸軍の専門家ですから私の文を読んでくれていたのですね。
                     (つづく)
靖国神社と皇居の被災 [2011年03月10日(Thu)]










「靖國」は靖國神社社務所から毎月
お送りいただく月刊紙である。

その第668号(平成23年3月1日)の冒頭には
美智子皇后陛下が平成6年に
硫黄島に慰霊に行かれたときの
御歌が載せられている。

 銀ネムの木木茂りゐるこの島に
  五十年(いととせ)眠る み魂かなしき

が紹介され、その下に「靖濤」というコラムがある。

どなたが執筆されるのかわからないが、
毎号胸を打たれる。

今月号は、終戦の年の
靖国神社と皇居の被災の話。

ほかではなかなか知りにくいかと思うので、
転載してご紹介したい。

ご高覧ください。

   〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓

 参拝者から当神社の空襲被害について
尋ねられることがある。

特に三月は、東京大空襲について
テレビや新聞などで耳目に触れる機会が
多いからであろう。

▼ 靖國神社では、
昭和二十年三月十日・四月十四日・
五月二十五日の三度に亘る空襲で、
数多くの神社付属建物を焼失した。

とりわけ五月の空襲では、
本殿に焼夷弾が落下して危殆に瀕したが、
千木と屋根の一部を焼損して鎮火。

幸いにも本殿・拝殿には被害が少なく、
創建時の姿を今に留めている。

一方、遊就館を直撃した数発の焼夷弾は
火の手が早く、
本館内大展示室と別館を全焼し
数々の貴重な展示物も焼失した。

▼ そしてこの日五月二十五日の戦災は、
畏れ多くも皇居に及んでいた。

近隣建物からの飛び火により明治宮殿が全焼し、
天皇陛下の公務室やお住まい、
さらには正殿などの儀式殿を失った。

それ以後、昭和天皇は戦時中の
防空避難施設として建てられた御文庫を
仮の御所とされ、
昭和三十六年
吹上御所にお移りになられるまでの
十七年間をここでお過ごしになられた。

承るところによれば、
疲弊した国民生活の向上が最優先である
との思し召しから、
戦後も長きに亘って新宮殿の再建を
お許しにならなかったという。

また、昭和十九年戦局が激しさを増す中、
地方へご避難されることを
側近からお勧め申し上げるが、
昭和天皇は、
これを断られ
三月の大空襲以降も
「私は国民とともに、
ここで苦楽を分け合う」とおおせになられて、
皇居からお移りになられることはなかった。

先帝陛下の国民の幸を願い、
いとおしみ給う大御心のほどを
拝するものである。

▼ 先述の空襲では、
建物ばかりでなく
春を待ちわびて蕾を膨らませてきた
境内の桜も、火炎に包まれて
その多くが開花を待たず焼失したとの
記録が残る。

こうして失われた桜木は、
戦後の遺族や戦友からの献木により
見事に花の姿を回復した。

大東亜戦争開戦から七十年目の春、
今年も又、
往時を偲びながら
靖國の桜を愛でて戴きたい。
戦陣訓起草者に聞くP [2011年03月06日(Sun)]
 


      

                今村 均

  



中隊長、小隊長の統率力が問題

── 結局、3人が案を出しあって、浦辺案を中心に検討し合い一つの案にした、と考えてよろしいわけですか。その他の人がさらに加わって、ということがありますか?

白根 その他の人の意見はききましたけれども、原案は見せませんでした。そして、最終的には浦辺という将校は何といっても正規の現役軍人ですから「浦辺少佐に一任」ということにしたわけです。私は、いいたいことをいったから……。しかし、ああいう人がまとめると、あのような形になるんですなあ……。

── しかし、表題の『戦陣訓』ということばからして、一見、文学的なところがありますね。もちろん、文章がそうですね。「俘虜」とか「捕虜」といわず「虜囚」とするなどもそうですね。


  〔注〕「葉隠論語」とか「壁書」とかいふ昔の名訓に対し、「戦陣訓」は新東亜建設のために聖戦するわが将兵の陣中訓としてまことにぴったりした好い題目であるが、この題名も「軍人規範」といふ題名だったが、どうも面白くないといふので「道徳訓」に変えてみたがこれもいけない。それじゃア「軍人訓」はどうだといふことになったがそれも駄目、いちいち練りに練って生まれたのが「戦陣訓」の題名であった。
<三浦藤作『戦陣訓精解』昭和16年4月2日、東洋図書、14頁>


白根 僕は、仮名書きでね、「こころにあくしんがおこったときは、きょうとう、かげにひとびとのかおをおもいだせ……(涙声)」。ずっと最後までいえますよ。一番よかったな。今でもそう思うよ。もし、そうしていたら、どんなにか規律が守られたか……。これは今まで表になんか出せませんよ。ですから、そのような本当の機微にわたる細かい話はしたことがないんです。どなたかがお見えになっても、この話をしたことはないんです。
あなたたちに話すのは、次代に語り継ぐ責務を感ずるからですよ。


  〔注〕(教育総監部本部長である)私は東条陸軍大臣の依嘱で、“戦陣訓”の起稿を主宰した。このときは、軍隊の戦闘行動以外の慈悲行為が、戦勝獲得の必須の業であるとの思想を汲み入れたものである。

 あとで、私が第一線の軍司令官になり、戦陣で読みなおしてみると、あの“戦陣訓”は抽象に過ぎ、完全に過ぎ、また名文に過ぎてしまって、ぴんと将兵の頭にひびかず、失敗であったことを自認した。

 もっと簡単平素に、具体的に、数項の重点のみを掲げ、寧ろ師団長以上の高級指導者のみに対して、その戦陣道徳の指導監督を強要し、それに不熱心の者は、どしどし内地に召還するくらいの英断でのぞんだほうが、はるかに有効であったと猛省されたものである。

            <今村均『幽囚回顧録』秋田書房、257〜258頁>


                      (つづく)
戦陣訓起草者に聞くO [2011年03月05日(Sat)]








『大東亜戦争公刊戦史』(戦史叢書)






── 将校にだけですか。

白根 将校も中隊長だけにです。「中隊長の訓話には種本があるそうだから、われわれ兵隊もはじめに買っとくか」といわれても困りますから……。

── そうですね(笑)

白根 今の学校教育と同じですよ。小、中学校の教科書は、みな教師用の“虎の巻”が用意されているでしょう。そこまでやってやらなくては駄目なんですよ。中隊長用の“虎の巻”には、悪どいことが書いてあるんですよ。

── そこへはきわどいことが残っているわけですね。つまり白根先生がやろうとした直接的な指導にわたることは、最終的にできあがった『戦陣訓』には見られないが、裏とでもいうべき解説書に集録したわけですね。

白根 『戦陣訓』の裏へまわしました。

── なるほど、なるほど。確かに陸軍大臣が発表する『戦陣訓』の表へは出せないですね。

白根 そうそう、戦後「戦史編纂課」というのができましてね。ここの方は何回か訪ねて来られ会ったりもしました。戦争史ができているでしょう? その中に少し扱っているかもしれません。

── 例の防衛庁の『大東亜戦争公刊戦史』(戦史叢書)102巻の……。

白根 そうです。あれもずいぶん時間をとられて僕も書いたのですが、原稿を渡したきり、あと一言の返事もないですな。だから2度目に会ったとき、あなた方でさえそうなんだから、兵隊に礼儀を守れ、なんていうのは土台無理な話だったんだね、と笑い飛ばしたよ。
                        (つづく)

| 次へ