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戦陣訓起草者に訊くF [2011年02月23日(Wed)]











   こんな立派な軍律があるのに……

── 『戦陣訓』の成立当時の事情を伺いたく参上致しました。
白根 あれもずいぶんつけまわされましてね。出たのは確か昭和16年でしたね。日本の社会全体が戦時色になっていましたよ。確か1月でしたね。

── ええ、16年の1月8日付です。

    〔注〕昭和16年1月7日、東条陸相は、宮中に参内、天皇陛下に拝謁を仰付けられ、『戦陣訓』について上奏し、御裁可を仰ぎ、その翌8日、陸軍始観兵式に際し、「陸訓」第1号を以て、これを左のとほり全軍に示達し、戦陣道徳昂揚の資に供した。
<陸訓 第一号>
本書ヲ戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ
 昭和16年1月8日
               陸軍大臣 東条英機
       (中略)
  『戦陣訓』は、ただ前線の将兵のみならず、内地に在る現役軍人及び在郷軍人をはじめ、銃後の一般国民にも甚だ肝要なる訓練資料である。特に、やがて皇軍の軍籍に入り、興亜の聖業完遂の大任を負へる後継者たる青少年には、心魂の底まで、この教訓を感銘せしめ、これによって、皇国臣民の人格を築き上げることが必要であろうと思ふ。
<三浦藤作『戦陣訓精解』東洋図書(昭和16年4月20日刊)、1〜2頁>

『戦陣訓』の公布後も「対上官犯」は根絶しがたく、陸軍省は昭和17年12月19日、同犯根絶を図るべく、
@上級指揮官の指導監督及び処断の強化、A下級幹部の能力向上、B在郷軍人の軍紀風紀の緊縮、C私的制裁の根絶、D酒害対策、E「年令年次ノ著シク異ナル兵ヲ混合シテ軍隊ヲ編成スルハ成ルヘク避クヘキコト」など、具体的に示した通牒を発した。

  『戦陣訓』の全文は約3千字。序文、本訓其の1(第1皇国、第2皇軍、第3軍紀、第4団結、第5協同、第6攻撃精神、第7必勝の信念)、本訓其の2(第1敬神、第2孝道、第3敬礼挙措、第4戦友道、第5率先躬行、第6責任、第7死生観、第8名を惜しむ、第9質実剛健、第10清廉潔白)、本訓其の3(第1戦陣の戒、第2戦陣の嗜)、結び、の大別して20項目で成立っている。「生キテ虜囚ノ……」は、本訓其の2の第8にあたる。

白根 そうでしたね。16、17年頃は僕はジャーナリストに追いかけまわされた時でしたよ。

── どこにお住まいでしたか?

白根 ここ(杉並区西永福)です。まだまだ元気でしたからね。もう齢80近くなって、ようやくここしばらく、この問題について訪ねて来る人は途絶えていたのです。それが最近またちょいちょい復活してきましたね。

── 申し訳ございません(笑)。

白根 いや、こうして生きている以上は、自分でお役に立つことがあれば、後の世代の人に伝えることも重要ですからお会いしているのです。

── 当時つけまわされたというのは、どういう意味ですか。

白根 新聞記者の常ですからね。本能ですから……。内面をさぐろうさぐろうとしていたんですね。ところが真相とか裏面となると人を傷つけ、自らも傷つくわけですから、なかなか話せるものじゃないですよ。その後しばらく途絶え、それから1、2度ありましたかねえ。

── 戦後ですか?

白根 ええ、昭和23年以後ですね。

── しかし、戦後いろいろあったというのは、主として、「生キテ虜囚ノ……」に焦点を合わせ、ああいうものをつくったのが「いけない」と考えている人が調べようとしていたのではないですか。

白根 いや、そういうことはありません。そういうことで反対をするためにやってきたということはないです。新聞や週刊誌では始終反対されていましたが、そういうことを真正面から責めるなんてありません。むしろ、あべこべですよ。
(つづく)
戦陣訓起草者に訊くD [2011年02月20日(Sun)]



          


  「戦陣訓」について吹きこむ東條英機陸相(1941年1月。
東京・内幸町のNHK放送会館で)







 戦陣訓の起草者である
白根孝之元中尉へのインタビューを
紹介する前に、
30年ほど前の拙著
『聞書き 日本人捕虜』(図書出版社)をベースに
日本人と捕虜についての総論を、紹介しています。

 今回はその5回目。

   ==================

 だが著者目録の中にはただ一つ、
異色のものがある。

『戦争と平和──
日本の将来と青年』(1947年、山形の青年タイムズ社)
である。

 白根さんが戦争直後、
どういうご縁か
山形の青年団に招かれて講演し、
その速記録に手を加えて
出版されたものである。白根さんはまず、

  戦争中は軍部の旗に踊り、
若しくは踊らんとして
そのお声がかりを待っていたくせに、
戦争がこんな終局になると、
牢獄から飛び出した反戦論者の尻馬に乗って、
始めから肚の中は
マルクスの徒であったかのような
自己弁護の辞を弄して赤旗を振り歩き、
連合軍司令部からアメリカは
共産主義を好まずと
鶴の一声がかかるや、
あわてふためいて
コソコソと物蔭に身をかくすような、
みっともない文化人がいるというのは、
その教養や知識の内容に
肝腎の心張棒が1本足りなかったからである)。

 と、戦前・戦後に一貫した
思想や行動を保てない“文化人”を
痛烈に批判している。

 戦前に『戦陣訓』をつくり、
戦後はマス・メディアの先駆者となる、
というのも一見華麗なる転身と
とれなくもないが、
白根さんの頭の中では両者とも教育、
とりわけ大衆レベルの向上という
大きな共通したもので結びついていたのでは
なかったか、とインタビューを終えて強く感じた。
   
  〔注〕われわれはまず第1に個々の人間として、
正しい歴史的知識と広い世界的展望に立つ
豊かな常識と理性と品性とを身につけ、
自主独立の判断と行動の主体たり得るもの
でなくてはならない。

 日本人の教養、知識の内容に
哲学・文学・芸術・趣味のほかに、
新しく歴史と科学とが
つけ加えられねばならない。

 第2にわれわれはこのような個人によって
構成される一般社会、
即ち
われわれが日常の生産・消費・煩暇の生活の中で
入りこむ社会関連を尊重する
国民とならなければならない。

 而して第3に、この関係を押しひろめて、
地上に生を営む一切の人類が、
国家という過渡的中間段階を超えて、
直接人間と人間として結び合う
一つ世界の尊重にまで到達せねばならない。

 その時はじめて、
われわれは現在のような世界中の
猜疑と監視と
そして憐びんと嫌悪とから放たれ、
世界の人に伍し、
或はこれに率先して、
一つの世界の建設という、
人類史的課題の解決に
立ち向かうことが出来るのである。
 <白根孝之『戦争と平和──
    日本の将来と青年』(結び)53〜54頁>
                   (つづく)
戦陣訓起草者に聞くC [2011年02月19日(Sat)]



        

        戦陣訓の創案に筆を入れた島崎藤村



 この『申告』と『戦陣訓』の成立事情は大いに異なり、これを敷衍して『戦陣訓』やその中の「生キテ虜囚ノ……」が出来た、ということでは全くないが、これも日本人の捕虜観のひとつの集約された形であり、後に影響を残したものである。

ただ、山縣が一人、突然「捕虜になるな」といったわけでもなく、同様に『戦陣訓』がいきなり、捕虜を禁じたものでもなく、古来の「日本男児の名誉」がそうすることによって保たれるのだ、と説いているわけである。

 島崎藤村らの校閲を経た『戦陣訓』に比べ「一介の武弁」と自称した山縣の『申告』は流暢な表現とはいえないが、それだけにズバリ、その他の「武弁」たちにも分かりやすく表現しているといえそうだ(詳細は、拙稿「捕虜になるべからず」アンリー・デュナン教育研究所『会報』15号)。

 國學院大学日本文化研究所の大原康男学兄(注:現國學院大學教授)とともに西永福の白根孝之さんのご自宅に伺うことになったとき、『戦陣訓』の作成を担当した人というからには“軍人精神”の固まりみたいな人かとも思ったが、あらかじめ経歴を調べてみて、正直なところびっくりした。

九州帝大卒で、哲学者、教育学者であり、日本教育テレビ(NET、現・テレビ朝日)の草創期の調査部長をし、わが国の戦後教育、とりわけ視聴覚教育界の先駆者、ないし大御所なのである。東京造形大学の教授で、日体大、早大でも教鞭をとられた。

 ちなみに、国立国会図書館の著者目録でカードをめくると、次のような著書が出てくる。

<昭和25年>『百万人の哲学』(W・J・デュラン)訳書。『インテグレーション──カリキュラムの原理と実際』(L・T・ホプキンズ)共訳。

<昭和27年>『プラトンの教育論』著書。『教育心理学』(A・メルヴィル)訳書。

<昭和34年>『テレビジョン──その教育的機能と歴史的運命』著書。

<昭和37年>『教育と教育学』著書。

<昭和39年>『教育テレビジョン』著書。

<昭和40年>『テレビの教育性──映像時代への適合』著書。

<昭和46年>『ヒューマン・コミュニケーション──エレクトロニクス・メディアの発展』著書。『人間の発達の学習』著書。
戦陣訓の起草者に聞くB [2011年02月18日(Fri)]



     

                  山縣有朋元帥




 近代において、捕虜になることを禁じたのは日清戦争(1894〜5)時の山縣有朋第1軍司令官による『申告』がはじめてである。1894(明治27)年8月14日、山縣は現職の枢密院議長のまま、強い希望を示して、同司令官に就任、9月8日、桂太郎中将以下の第三師団の将兵を従えて宇品を出発、同13日、京城に入った。

 このとき山縣は「檄して名誉ある我が帝国軍隊の将校に告ぐ」にはじまる『申告』を発し、成歓、牙山など緒戦の勝利をもって敵を慢侮する心を部下に持たせてはならぬ、などと述べたあと、「終りに於て尚一言す」として全体の3分の1を費して以下のように「捕虜」について触れた。

  我が敵とする所の者は、独り敵軍とす。其他の人民に在ては我が軍隊を妨害し、若しくは害を加へんとする者の外は我れ敵視するの限りにあらず、軍人と雖も、降る者は殺すべからず。

 として、「敵軍」と「人民」や「降人」とを区別し、捕虜の殺害を戒めたあと、有名な次の一文でこの『申告』をしめくくった。

  敵国は古より極めて残忍の性を有せり。戦闘に際して若し誤て其生檎に遇はば、必ず酷虐にして死に勝るの苦痛を受け、遂には野蛮惨毒の所為を以て其身命を戕賊せらるるは必然なり。故に、萬一如何なる非常の難戦に係はるも、決して敵の生檎する所となるべ可らず。寧ろ潔よく一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全ふすべし。

 要するに、清国の捕虜になるとひどい目にあうから決して捕虜になってはいけない、その時は潔く死ね、といっているのである。
                                      (つづく)


戦陣訓の起草者に聞くA [2011年02月17日(Thu)]






   「タマゴダケ」(食用可)を描いた挿画は
  石田良介画伯の特段のご厚意で
  掲載させていただいております。禁無断転載。






以下は、元陸軍中尉・白根孝之氏に
1980(昭和55)年4月30日、
東京西永福のご自宅にて
インタビューしたものです。

31年前の拙著
『聞書き 日本人捕虜』(図書出版社)の
第一章ですが、
この本が手に入らないという方からの
要望があり、
自分としても、電子的にのこしておきたい
気持ちがありますので、
その概略を数回に分けて小欄で転載します。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 「恥ヲ知ル者ハ強シ。常ニ郷党家門ノ面目ヲ思ヒ、
愈々奮励シテソノ期待ニ答フベシ。
生キテ虜囚ノ辱シメヲ受ケズ、死シテ罪禍ノ
汚名ヲ残スコトナカレ」
     昭和16年1月8日
    『陸訓 第1号(戦陣訓)』「名ヲ惜シム」の項

 この一文の呪縛によって死に至り、
または至らざるを得なかった
日本の青年がいかに多かったことか。

「日本人捕虜の戦争に対する
態度調査報告(1945年12月29日、
米国務省臨時国際情報部作成)」によると、
戦時中にビルマ、インド、南西太平洋などの
各戦線で捕虜になった日本兵1953人を
対象にした面接調査で、
3分の2以上が捕虜になったことを恥辱と思い、
家族への通知や所属会社への復帰を
希望しなかった。

 また、自決を否定したものは
25パーセントしかおらず、
75パーセンが自決または処刑を
希望したという。

 事実、私がインタビューした元捕虜たちも
そのほとんどが「生」を望まず、であった
と答えているし、公判された手記でも
大部分の人がそのように書いている。

「捕虜になってはいけない」は
古来の伝統だとされる。

 しかし、なかにはいくつも
「捕虜になるのはやむをえない、
恥ではない」とするものもある。

『東鑑(吾妻鏡)』(13世紀後半)に
次の一節がある。1189(文治5)年、
源頼朝が藤原泰衡を滅したときの
ことである。

(頼朝の家臣畠山)重忠手自敷皮を取り、
由利(八郎、泰衡の郎党)が前に
持ち来たり之に坐せしめ
礼を正しく誘ひて曰く、
弓馬に携わる者怨敵の為めに囚るるは
漢家本朝の通規也。
必ずしも恥辱と称すべからず。

……貴客生虜の号を蒙らむと雖も
始終沈淪の恨みを貽すべからざるか……

 このあと頼朝は八郎の態度に
感じ入って、
助命のうえ重忠に任えさせたという。
 
 ただ、これとて、わざわざ
「必ずしも恥辱と称すべからず」としてからが、
既に一般的に「捕虜は恥」という観念が
できていたから、あえてこう記述せしめた例
と見ることもできそうだ

 詳細は拙著『捕虜の文明史』(新潮選書)。
             (つづく)
戦陣訓の起草者に聞く@ [2011年02月17日(Thu)]



     


      「遅い春」。挿画は石田良介画伯の特段のご厚意で
    掲載させていただいております。禁無断転載。






文芸評論家でもある福田和也慶應大学教授)が
月刊・文藝春秋に連載している
「昭和天皇」の題する
読み物は、毎月、真っ先に読むペイジである。

「第68回 対米対独対ソ連」は
今年の2月号に掲載されたものだが、
その冒頭に、懐かしいお名前を見た。

白根孝之中尉である。

この人こそ、1941(昭和16)年、
東条英機陸相によって発せられた
「戦陣訓」の起草者なのである。

1980年4月30日、私は
白根を東京・西永福のご自宅に
訪ねたことがある。

そして、この人の戦後を調べ、
少なからず驚いた。

草創期とはいえ、
日本教育テレビ(現・テレビ朝日)の
調査部長を経、
視聴覚教育の第一人者となり、
当時は、東京造形大学教授で、
早稲田や日体大でも教えておられた。

まずは、福田教授の書き出しを
文藝春秋2月号から転載してご紹介する。

   ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆

「たいがいこれで良いと思う。
あとは文章だな。御苦労だが、
島崎藤村先生に見てもらってください」

 今村均中将から命じられた。

 南寧の第五師団長から
教育総監部本部長に転任した今村は、
かねて「戦陣訓」の
作成に携わっていた白根孝之中尉らの
研究提案の下、
和辻哲郎、井上哲次郎ら倫理学者、哲学者の
意見も訊いた上で、
原案をとりまとめたのである。

 出発は、支那事変であった。

 日清、日露での戦場でも多少の
不祥事はあったが、
事変では桁違いの非違犯行が、発生した。

 上官暴行、戦場離脱、放火、強姦、掠奪……。

 一部では、軍紀が弛緩し
収拾がつかない有様になっていた。

軍法会議にかけられた者だけでも
数万に及んだ。

 そのため教育総監部は、
軍人勅諭を補足する道徳訓を
造ろうとしたのである。

 はじめは士官学校出身者のみで
作成しようとしたが、
それでは多様な召集兵には対応できない。

上層部の判断で、九大哲学科で
教育学を専攻、
高等師範で教鞭を執った経歴をもっていた
白根が前線から呼ばれたのである。

 白根は、昭和十二年に応召して以来
前線におり、召還当時は、
中支廬山で騎兵中隊長として
蔣介石軍に対峙していた。

 軍法会議の事例を分析した後、
白根は原案を作りあげた。

 前線の部隊長、陸大教官、
幼年学校、士官学校など
各方面に送付したところ、
原案の数十倍にも及ぶ付箋がついて
返送されてきた。

 それをさらに部内で検討した後、
ようやく形が付いたのが
昭和十五年の秋であった。

 明治天皇の軍人勅諭のような
簡明さを貫く事が出来ず、
兵士たちが暗唱するのに
苦労する長いものになってしまった。

その長さに、
昭和の陸軍の難しさが現れていた。

(本当は、
「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く
無辜の住民を愛護すべし」、
「戦陣苟も酒色に心奪われ、
又は慾情に駆られて本心を失い、
皇軍の威信を損じ、
奉公の身を過るが如きことあるべからず。

深く戒慎し、
断じて武人の清節を汚さざらんことを
期すべし」といった条項を
主体に考えたのだが、
「恥を知る者は強し。
常に郷党家門の面目を思い、
愈々奮励して其の期待に答うべし。

生きて虜囚の辱を受けず、
死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の方を
重く取られたのは、残念だったな)

 ある時、白根は今村中将に尋ねた事がある。

「閣下は、師団長時代、宿舎の従卒に、
慰安所になぜ行かないか、
行くようにと命令されたと聞きましたが」

 今村は、憂鬱そうな貌を作り、
しばらくしてから云った。

「命令はしませんでしたが、
行くように、なぜ行かないかないのか、
とは云った事があります」

 行かないには、いろんな訳がある。
もとより慰安婦と接する事を
厭うものもあれば、経済的な理由もある。

「後方では、どんな事でも云えるけれど、
戦場ではそうはいかない。
正気を保つだけでも大変な努力が
必要になります。そのためには、
慰安所は必要だ。

人間であり続けるためには。まあ、
私は慰安所という言葉は好きでは
ありませんが。

列国のように特殊看護婦隊というような
名前にするのが、好ましいと思うのですが」。

「戦陣訓」は昭和十六年一月八日、
東條英機陸軍大臣から、全軍に示達された。
                 (つづく)
鳴門市で捕虜について講演します [2011年02月09日(Wed)]
  



     


               当時の ドイツ国旗(1871〜1919)















 第一次世界大戦のとき、
徳島県鳴門市には板東俘虜収容所が開設され、
青島(チンタオ)で捕虜になったドイツ将兵が
数年間、滞在しました。

 最近でこそ、「第9の初演地」などとして
知られるようになりましたが、
以前は、地元の人以外には
そんなに知られていたわけではありません。

 それでも元捕虜が昭和の末期まで
来日するなど、さまざまな交流が
続いていました。

 そこに今ではドイツ館が開設され、
捕虜を通じての文化交流を常時、
分かるようにしています。

 私は捕虜の問題に多年関心を持ち、
『捕虜の文明史』(新潮選書)など、
捕虜関係の著作が4つほどあります。

 今回は、川上ドイツ館長とのご縁で、
お招きいただきました。

3月13日2時から、ドイツ館で
「世界の捕虜と日本の捕虜」と題して
講演をします。

 しっかりまとめて精一杯、日ごろの
思いを語ってきたいと思います。

 お近くの方、どうぞお越しください。
五木寛之氏と拙著(最終) [2009年09月17日(Thu)]










 20年近く前の拙著『捕虜の文明史』(新潮選書)を引用しての
五木寛之氏のエッセイの前半最終の記事である。つづきは
この表紙の本をお求めください。拙著はAMAZONでかな?

   =======================

 このような事件の細密正確な真相を確かめることは
きわめてむずかしい。しかし、
当時の参謀総長、有栖川宮熾仁親王が現地に要求した
機密報告に対して、
大山司令官はその一部をはっきりと
肯定していることからみても、
事件は幻ではなかったはずだ。

 それから10年後、日本政府と軍は、
あらためて代表的な学者を多数各軍に配し、
前出の有賀長雄は総司令部の首席法律顧問として従軍した。

 乃木・ステッセル間の通訳をつとめながら
旅順開城の規約作成、交渉の件にあたったのも、
この有賀である。

 ロシアとの戦いで再び欧米諸国の批判をあびては
国運にかかわりかねない。

まして相手は赤十字条約、
国際戦法規の整備に熱心なニコライU世の帝政ロシアである。

万が一にも国際世論の批判をこうむるようなことが
あってはならない。それは日本を危うくする。

 政治の立場からすると、そういう一面があった。しかし、
この問題にひそむもう一方の人間的側面を忘れては
大きなまちがいを犯すことになるだろう。

   ☆☆ ★ ☆ ★★ ☆ ★ ☆☆

 さすが、見事に拙著をお読みくださっている。著者として
こういう読者に情報を提供できたというのは
嬉しい限りだ。
五木寛之氏と拙著A [2009年09月17日(Thu)]







 昨日に続き、五木寛之氏が
拙著『捕虜の文明史』を引用されたエッセイを
ご紹介したい。

    =======================

 日露戦争の開戦直後に、寺内陸軍大臣はいちはやく
34ヵ条からなる《陸軍俘虜取扱規則》を制定したという。

 この《俘虜規則》の根本精神は、
<俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ決シテ侮辱、虐待ヲ加ヘルヘカラス>
と、いうものだ。<虐待>は当然禁止さるべきだとしても、ここで
<侮辱>という問題をあえて冒頭においた姿勢には
感心させられるところがある。

 つづいて、
《俘虜取扱規則》、《俘虜労役規則》、《俘虜収容所条令》、
《俘虜自由散歩及民家居住規則》などの勅令や通達が
つぎつぎとだされている。

 捕虜が母国へ送る郵便料金がすべて無料サービスだったのも、
《俘虜郵便規則及俘虜郵便為替規則》によって定められたものだった。


 こうして見てくると、
明治の政府・軍部がいかに細心の注意をはらって
戦時国際法を遵守しようと努力していたかがうかがえる。

 吹浦氏の紹介ではじめて知ったのだが、
作家の小田実氏はその著作
《「民」の論理と「軍」の論理》のなかで、
日露戦争のころ出征軍人が携行した当時の
<軍隊用手帳>をはじめて見たとき、
ある種のショックをうけたと書いているという。

<軍隊用の手帳というので、まず
「軍人勅諭」でもあるのかと思ったら、
そういうたぐいのものはいっさいないので意外に思った>
 というのである。手帳を開けると最初に「戦時国際法」の条文が
でてきた。そして、
<われわれは文明国人として捕虜と非戦闘員に接するように>と、
くどいほどその取扱い方法が述べてあった、というのだ。

このエピソードを読んで、
小田さんならずとも意外な気がするといえば、
明治の人たちに叱られるだろうか。

 日露戦争に先だつ明治27、8年の日清戦争の際に、
あまりに簡単に占領できたことが、
10年後のロシアとの戦争の際の乃木軍の旅順攻撃計画に
不幸な先入観としてあったらしい。

 それはともかく、この日清戦争の旅順口占領にあたって、
日本軍は欧米各国のジャーナリズムから
袋叩きにあう不祥事を起こしている。

旅順口の清国人に対する無差別攻撃事件がそれだった。

司令官大山巌の第二軍とともに参加した第一線の国際法学者、
有賀長雄は《日清戦役国際法論》のなかに
このように記録しているという。

<市の北の入口より其の中央に在る
天后宮と称する寺(航海保護の神を祭る処)まで
道の両側に民屋連列せり。而してその戸外及戸内にあるものは
屍体ならざるはなく、
特に横路の如きは累積する屍体を踏み越ゆるに非ざれば
通過し難かりき(後略)>

 この事件の直後から、
アメリカの新聞がセンセーショナルに報道した
<6万人虐殺説>をはじめ、各国記者、観戦武官などの痛烈な報告が
世界中に打電される。

<条約改正をして文明国の仲間入りをしようとしていた
日本にとって致命的ともいえる悪評が、たちまち世界に拡がった>
と、吹浦氏はその反響について述べている。
                     (つづく)
五木寛之氏と拙著@ [2009年09月16日(Wed)]











 熊本県在住のW氏から作家の「五木寛之氏が書いたものに、
キミの名前が出ているよ」と
エッセイ集『みみずくの宙返り』(幻冬舎)をお送りいただいた。

その中の「明治の戦争とその側面」と題する一編は
五木さんが、1993年7月11、12の両日、
日本経済新聞に掲載したものだ。久しく失念していたが、
この機会にご紹介したい。

      ☆☆☆  ★★★  ☆☆☆  ★★★

 もう25年以上もむかしのことになるだろうか。<朱鷺の墓>という
長篇小説を書くために、金沢の地元の新聞社の倉庫に
日参したことがあった。私がまだ金沢に住んでいたころの話である。

 その小説は、日露戦争の終わったあと、
金沢へ大量のロシア軍捕虜(ほりょ)が送られてくる場面から
はじまるはずだった。

 明治37、8年のころの金沢の雰囲気を知るには、
地元の古い新聞を調べるのがいちばんである。

新聞は世論をリードするために、
かなり好き勝手な偏向(へんこう)報道もするが、一方では
その立場と逆の真実も行間からおのずとこぼれだすところがあって、
そこがおもしろいのだ。

 そんなわけで、私はせっせとカビくさい資料室の倉庫に
朝から晩までこもりきりで、古新聞のページをめくって
過ごしたものだった。

 明治のころの日本政府および日本国民が、
捕虜となって内地に送られてきた敵国ロシアの将兵に
どういう態度をとったか、というのが、
そのときの私の関心事だった。

 一般には、当時の日本が大国ロシアを相手に
最後まで長期の戦争をつづけることは、実際上、
不可能だったといわれている。

それはたしかにそのとおりだったろう。最初に
強烈なパンチをあびせておいて、あとは
ロシアと利害が対立する欧米列強の調停を待つしかない
というのが政府と軍の判断だった。

死力をつくし、天佑(てんゆう)に期待して緒戦(しょせん)の勝利をかちとる。
そして当時の大国間の冷戦構造を外交によって
最大限に利用する、そういう期待が最初からあった
綱渡りのような戦争なのだ。

 そして、そのためには先進諸国への日本の印象が
重要である。残酷なアジア的野蛮国、というイメージは、
決してあたえてはならない。

ことに人権問題は慎重に配慮する必要があった。

つまり戦時における捕虜、市民、傷病者などの
取扱いの近代化である。

 日本側では、この点を重視し、
<ジュネーヴ条約>にくわえて<ブラッセル宣言>の内容を
徹底的に学ぼうとつとめたらしい。

 吹(ふき)浦(うら)忠(ただ)正(まさ)氏のユニークな労作
《捕虜の文明史=新潮選書》には、
そのあたりの事情が詳細かつ具体的に例をあげて
述べられている。以下、同書にそって
当時の事情をかいまみてみることにしよう。
                  (つづく)
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