• もっと見る
«福沢諭吉が国旗の本を書いていた | Main | サッチャー元英国首相描いた映画はお勧め»
<< 2014年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
献血運動の仲間たち・青木繁之理事長のことなど [2012年03月24日(Sat)]


P3230241.JPG

   青木繁之献血供給事業団理事長(左)と筆者。3月23日、明治記念館での理事会の後で。



畏友・青木繁之くんが
公益財団法人献血供給事業団の理事長を
退任することになった。

私とは学生時代以来の献血運動の同志。
思えば、ちょうど50年前、
私は早稲田大学第一政経学部の学生、
青木くんは桃山学院大学に在籍していた。

私は秋田で、青木くんは島根で
高校時代に青少年赤十字の活動をしていたが、
当時は互いに知らなかったはず。

それが、私が早稲田の
語学のクラス仲間を誘って、
日赤本社や日赤中央病院(現・日赤医療センター)で
ボランティア活動をしている中から、
早稲田大学学生奉仕団が出来、
日本赤十字献血学生連盟が生まれ、
私はその初代会長となった。
その時の関西支部長が青木くんだった。

出来たばかりの移動採血車を
各大学に廻し、
青年将校といわれてほどない
中曽根康弘衆院議員には
早稲田の正門前までお越しいただき、
献血していただいたが、
これで中曽根議員は国会議員で
最初に献血した人となった。

その後は、西村英一厚生大臣に直談判して
大臣室からそのまま青山学院に
お連れして献血してもらったり、
私たちと青木くんらとは
お互いに東西で活発に運動を展開した。

私はその後、
東京オリンピック大会組織委の
国旗担当専門職員となり、
献血運動はもっぱら同級生の
木村雅是(まさのぶ)くんらに
委ねるほかなかった。

木村くんらはそれを見事に花咲かせ、
卒業後は日赤と話を進め、
献血供給事業団を発足させた。

笹川堯衆院議員(陽平日本財団会長の実兄)が
発足以来、会長の任意あって指導してこられた。

木村くんは専務理事として
この事業団を発展させ、
青木くんはその同僚として総務部長、
木村くんの退任後は昇進を重ね、
今日まで理事長として奮闘した。

このたび、定年を迎え理事長を退くが、
藍綬褒章も決まったようだし、
引き続き評議員として大いに
関わることにはなっている。

そうそう、かくなる私は以上のような
長年の献血運動のご縁から、
8年くらい前からだったろうか、
同事業団の監事を拝命している。

事業団の本部は今月、
江東区辰巳から武蔵境の日赤武蔵野病院の構内に
移転したが、東日本大震災の当日も、
必要な血液を必要な病院に、
最後は自動車を捨てて走って持参してでも
きちんと届けるということをやってのけた。

今更ながら役職員の
日夜にわたる奮闘には頭が下がるし、
この50年、献血が
日本社会に定着したことは何よりもうれしい。

私が献血運動をしていたころは、
売血が90数%だったのだから。

みなさまの御尽力、ご協力に感謝し、
青木くんの労を讃え、
一層の貢献を期待する。
コメントする
コメント