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ソ連崩壊から20年A [2011年12月30日(Fri)]







1968年11月にモスクワを訪問してから、
少なくとも100回以上訪ソ(露)した。

最初の頃に持参したお土産は
100円ライターだった。
「こんな便利なものがある」と
感心され、感謝されたものだった。

「どうやって詰め替えるのか」
と何度も訊かれた。

「使い捨て文化」のないソ連では
なんとも贅沢なものに見えたみたいだった。

「女性にはパンストが」というのも
日本から訪問するビジネスマンの
「常識」だったが、これは
「婆さん」以外にあげると効果がありすぎて
危険だった。

「石鹸とトイレットペーパーは必携」
というのも「常識」だった。

アワが出ない石のような石鹸では
こっちがアワてた。

風呂の栓も必需品だった。
なぜか、一流ホテルでも栓がない
ことが多かった。

大抵は、ゴルフボールで代用したが、
あるとき、某有名国際政治学者は
「ゴルフボールでは重い」と称して、
卓球の白い球を持参した。

 結果は、いうべくもあるまい。
 
ソ連崩壊直後は、
マールボロのカートンが、ルーブルは
もちろん、ドルよりも有効だった。

 道端でこれを振りかざすと、
3,4台の自動車が急停車してきた。

 運転手同士が言い争いになり、
わが師・末次一郎先生と
別々の車に乗って目的地に行ったこともある。

ソ連時代には、宇宙ロケットは作れても
生活用品の生産は実に苦手な国だった。

 それが74年も続くとロシアになった今でも、
国民的体質として基本的に残ってしまった。

共産主義志向という計画経済が
どうにもならない官僚主義と
非能率・非効率を生んだ。

また、
軍事費の負担は重圧として経済を圧迫した。

大国主義でアメリカと無理な張り合いを続け、
加えて、連邦内の他の14の共和国や
東欧支配の無理がたたった。

 70年代までは、ホテルのラジオでも
今の北朝鮮がおそらくそうであるように、
モスクワ放送しか入らない構造になっていた。
要するにラジオには電源と音量しか
スイッチがなかったのである。

それが大幅に「改善」されて、
世界情勢が誰にでもわかるようになり、
特に、1985年からの
ゴルバチョフ大統領時代からの
急速な新思考外交で国民の意識は激変した。

そこに持ってきての、東欧諸国の相次ぐ離反、
91年8月の、守旧派によるクーデタ―未遂事件、
エリツィンを中心とする
ロシア国内での民主派による指導力の
増強などにより
共産党一党独裁のこの超大国は
ついに綻びを隠せなくなり、

要するに、ソ連は、
冷戦という第3次世界大戦に敗れたのであった。

最大時、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、
キューバなどに「東側」の「首領(ドン)」として
勢力を張ったソ連は、
ドイツの統一、東欧、バルト3国の
勢力離脱を経て、
20年前の12月末、ついに崩壊した。
          (つづく)
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