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トルコ余震で亡くなった同僚への弔辞 [2011年12月13日(Tue)]












 ここ数日の小欄は、
「葬儀の話ばかりではないか。キミらしくないぞ。
批判精神を持って前向きに生きよ」と、
昨夜のユーラシア21研究所の忘年会で
ある先輩からお叱り?をいただきました。

 ごもっともです。しかし、
私にとっては、このひと月の間に
亡くなられた、先生、同僚、後輩のことが
あまりに重く、悲しいのです。

 現にこうして書いていても涙を
禁じえないと言うのが本当のところです。

 もちろん、野田政権のデタラメさには
憤りを感じます。マスメディアの報道にも
慨嘆したくなることが多々あります。

 決して従来の私の批判精神や社会的な怒りを
忘れてしまっているわけではありませんので、
先輩、いま少し、ご寛恕ください。

 他方、今一人の友人からは、
「トルコで亡くなった人の
<おわかれの会>に
参加できなかったが、
柳瀬(房子難民を助ける会)会長が
すばらしい弔辞を読んだそうだね。
中身を紹介してくれよ」との
催促もあります。

「また葬式の話か」と
冒頭の先輩には再度、
言われそうですが、
宮崎君の遺体が成田空港に戻って
1ヶ月が経ちましたので、
葬儀に関わる話は
これを最後に、その「弔辞」を
掲載させていただきます。

  弔    辞

宮崎淳さん。
あなたが逝かれてから、
間もなくひと月が経ちます。

生者必滅、会者定離が
人の世の常とは解っています。

十年一日の如し、
昨日と同じ今日があり、
いるべき場に人がおり、
常に変わらぬ心があり、
見守られ、変化しない、
変わらないことが、いかに
有難いことかを思い知らされた、
この数ヶ月であり、
貴方の死という否定しがたい現実でした。

10月も20日を過ぎていたのに、
暑さの残る昼下がりでした。

東京であなたと
ランチをご一緒しましたね。

「明日からトルコに行きます」と
あなたはほおを紅潮させて、
私に挨拶して下さいました。

10月23日発生したトルコ東部大震災の
緊急支援のために、
難民を助ける会のスタッフを
派遣することを決めた直後でした。

あなたは、助ける会の仲間になり
2,3ヶ月目なのに、
本部の中で十分存在感を示し、
連日楽しそうに仕事をしていました。

「助ける会に入って、
外国で仕事をするのが夢でした」と
本当にうれしそうに
語っていらっしゃいましたね。

32年間、難民を助ける会の運営に
携わってきた私には、
その「夢」という言葉に新鮮で、
心温まる不思議な感覚を覚え、
これなら大丈夫と、
期待感を膨らませたのでした。
 
 淳さん、あなたはいつも
ニコニコと素敵な笑顔でした。

あなたに接した誰もが、
思わず胸襟を開いてしまう、
それがトルコの方たちに接する時も
同じだったのでしょう、
早々にみなさんが心を開き、
あなたはあたたかく迎えられたと
聞いております。

このたび、
お母様や、ご家族の皆様とお目にかかって、
そのような魅力が
どこから来るものであったのか、
すぐに納得できました。
良いご家族の中で、
育まれたものなのですね。

 志を抱いてのイギリス留学から
帰国されてからは、
脳梗塞で倒れられたお父様への介護を、
数年にわたりお手伝いされました。

3回忌の法要を営み、それから、
故郷大分から東京の難民を助ける会の
スタッフとして、
働き始められたのでしたね。

難民を助ける会での最初のお仕事は
東日本大震災の被災地
岩手県陸前高田市での救援活動でした。

老人ホーム高寿園は、
その陸前高田市の小高い丘にあります。

高寿園の建物は、3月11日には
長い時間、何度も大きく激しく
揺れました。

高齢者の方々は
その場で固まり、立ち尽くし、
または腰を抜かし、
大声をあげて泣き叫んだそうです。

壊れたままの老人ホームで、
ガスも電気も水もなく、
寒さと飢えに耐えの日々が
続きました。

難民を助ける会では早速、
その高寿園で修理修繕、
軽油や、ガソリンの提供を始め、
キメ細かい救援活動を、
実施しておりました。

淳さん、
あなたはそのチームに加わり、
お年寄りの手を握り、
話に耳を傾け、
お父さまの介護での経験を
生かしたのでしょうか、
みんなの心と命を支えるという
大切な役割を果たしました。

東京に戻ってご一緒にランチをしたとき、
この大震災には
トルコをはじめとする海外からの
多くの支援があることに話が及び、
外国との交流や協力の
大切さについても、
お互いにお話しましたね。

そして自分はトルコの皆様に感謝し、
日本人として恩返しのつもりで、
同じように大きな地震で罹災した
トルコに行くと言っておられました。
頼もしい限りでした。

ところが、11月9日、
トルコ東部の主要都市である
ワン市内随一のホテルで、
あなたは直下型の余震に襲われました。

夜、パソコンに向かって
東京への報告書を作成中だったようですね。

そのとき、同僚の近内みゆきさんともども
生き埋めという一報が入りました。

次いで、近内さんの救出が伝えられ、
その後あなたも
救出されたという知らせに、
一時はホッとしましたが、やがて、
悲しい知らせが後に続きました。

余震とはいえ、
この地震であなたを含め36人もの
尊い命が奪われてしまいました。

知らせて下さったのは短期間のうちに
あなたと意気投合したトルコ人の
ボランティアの友人でした。

本日は、あなたの友人である
セルベイ・エキンオールさん、
アイシェギュル・バジャールさんのお二人が、
亡くなられたワン市民を代表して来日され、
この場にご参加いただいております。
ありがとうございます。

あなたの生還を祈り、お二人から
の次の知らせを待ち望んでいた
東京・目黒の本部では、
遅くまでほとんどのスッタフが
居残っていました。

しかし、悲しい知らせに、
全員で
黙祷を捧げるほかありませんでした。

全国の皆様からのお見舞いや
激励の言葉は枚挙にいとまがありません。

他方、トルコでは
アブドゥッラー・ギュル大統領閣下が
天皇陛下に哀悼の書簡を寄せられ、
エルドアン首相閣下をはじめ、
トルコの政府や国民の多くの方々が
あなたの死を悼み、ともに悲しみ、
ご冥福を祈って下さっておられます。

被災地である日本から、
はるばるトルコに
緊急支援に駆けつけながら、
このたびの事故に遭遇されたことに
敬意と謝意を示し、
哀悼の念を禁じえないと
おっしゃるのです。

あなたの帰国に際しても、
トルコ政府は飛行機を用意され、
空港にて儀仗兵による
心のこもった厳粛な送別の式典を執り行い、
大勢の要人が、日本大使ともども、
「日の丸」に覆われたあなたの
柩をお見送り下さいました。

日本に到着時には
トルコ航空の機長さんをはじめ
乗務員一同が最敬礼で、あなたを
祖国日本にお届けするという任務を
終えました。

トルコではあなたへの感謝と
追悼の思いを込めて、
イスタンブールの記念病院や
メメモリアルパークに
あなたの名前が付き、
胸像が建てられるという計画が
進められています。

今日はこの場に日本政府から
浜田和幸外務大臣政務官、
越川和彦外務省国際協力局長、
山口又宏国際協力局民間援助連携室長の
みなさまが、そしてトルコ政府から
アリ・ババジャン副首相閣下、
Tunc・ANGILI臨時代理大使はじめ、
18名もの方々がご列席
下さっております。

あなたの功績がいかに大きかったか、
あなたのご逝去を
どんなに悲しんでいることか、
あらためて両国政府に
深甚なる謝意を表したいと思います。

淳さん、
あなたが文字通り命をかけて取り組んだ
トルコでの活動が、
日本とトルコの相互理解と協力推進の
大きな礎となり、私には、
日本とトルコとの間に
あなたが優しい虹をかけて下さったように
思います。

難民を助ける会のトルコでの支援活動は
あなたの遺志を継いで
しっかりやってゆくことを、
ここのお誓い致します。

どうか、見守り、
あなたに続く仲間を励まして下さい。

これからの私たちに必要なものは、
より高い志と、前に踏み出す勇気、
そして継続する力でありたいと思います。

宮崎淳さん、
あなたの業績を高く評価し、
尊敬と感謝の気持ちと共に、
お別れ致します。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

ありがとう、宮崎淳さん。

       2011年12月6日

  認定NPO法人難民を助ける会
     会 長  柳 瀬 房 子
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