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松田トシ先生、さようなら [2011年12月11日(Sun)]




















 声楽家・松田トシ先生の通夜式が昨夜、
葬儀が今日の午前中、神式に従って、
青山斎場で行われました。

 享年96。昨夜は寒さ厳しい中、
ペギー葉山さんや、岩崎宏美さんなど
友人や門下生が大勢集まりました。

 私は最後の門下生ですから、
諸係りの末席でお役を
務めさせていただきました。

お名前をもじって「待った! 歳」と
おっしゃっていた先生ですが、
消えるように別世界へ旅立たれました。

 1949年に始まったNHKラジオの
「歌のおばさん」は後に参議院議員となった
安西愛子さんとともに15年以上続いた
人気番組で、小学生だった私など
風邪で学校を休むのが楽しみというほど
この番組に魅かれたものでした。

 先生は「故郷」「朧月夜」「紅葉」などの
作詞をした高野辰之に直接、授業で教わり、
「今ならセクハラのような話も
あの謹厳居士から教室で聞いたのよ、
うっふっふ」とおっしゃり、また、
「ピアノの下手な中山晋平先生」は
しょっちゅう、回転椅子を反転させては
「得意な三味線で伴奏してくれたのよ」
と懐かしみ、
「平井康三郎さんは、『平城山』を作曲した時、
いきなり楽譜を持って私の家にやってきて、
トシ、できたぞ、どうだ?」と自慢げに
ピアノを弾き、私に歌わせたこともありますよ」
と秘話を話し、
「山田耕筰先生の指揮で何度も内幸町の
NHKのスタジオで歌ったわ」という
体験を語っておられました。

 そうそう、
「山田先生は、新曲の難しいところなど、
ご自分で指揮台で歌ってくださるの。それがまた
いい声で・・・」という話も
してくださいました。

 お父様は三井の船乗りで海上にいることが多く、
より多くの影響を受けたお母様の思い出を
よく語ってくださいました。

 お母様は邦楽の師匠でした。

「母が若いころお稽古に行くのに付いて行って、
お師匠さんの玄関で遊んでいるうちに私も
覚えてしまって、母の先生に褒められたことも
あるのよ」。栴檀は双葉より・・・
だったのでしょう。

 ですから、例えば、石川啄木の短歌に
越谷達之助が曲を付けた『初恋』の変奏部分など、
「邦楽のような気持ちで歌ってごらん」と
ご指導いただきました。

 1938年に上野の東京音楽学校研究科を
修了していますから、ちょうど高野辰之が
同学校に邦楽科を新設したころに
在学しておられたようです。

 ご自分ではカンツォーネやドイツリートも
歌うし、指導されますが、その一方で、
長唄や三味線もとてもお上手だったようです。

 ホテルニューオータニの一角に
「マードレ・マツダビル」がありますが、
ご自分のビルにマードレ(母)と名付けたのは、
その基礎を作ってくれた人でもある
お母様を偲んでのことなのでしょう。

 祭壇の遺影は1987年に時の
中曽根首相から勲4等瑞宝章を
いただいた時の写真ですから、
現役の歌手を引退し、
声楽の指導に専念し始めたころのものです。

 最後にレッスンしていただいたのは
昨年ですが、ほんとに、
この写真とあまり変わりませんでした。

「吹浦さん、あなたはいい声してるけど、
<色気>がないのよ」と何度言われたことか。

私は90代の先生から
「歌の色気」をご指導いただき、
さて、どこまで自分を磨くことが
できたのか、できないのか、
先生のお姿をしのびつつ、
「77歳でリサイタルを」という夢を
めざして、勉強することを
遺影にお誓いしたのでした。
        合掌
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