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国際事件記者・大森実先生のこと@ [2011年09月26日(Mon)]


    
         今は亡き大森 実先生






以下は、『大森実追悼集(仮題)』に恢子(ひろこ)夫人の委嘱により
寄稿した拙稿である。追悼集は来春出版を予定している。

「巨星墜つ」、
今春、大森先生が逝かれた。

1966年2月、私は
中曽根康弘衆院議員(後の首相)のご紹介により、
大学院から
できたばかりの
大森実国際問題研究所に直行した。

その後の5年余りに及ぶ研究所生活は、
爾来45年のわが人生を
決定付けるものであった。

スタッフはみな同年代、
互いに社会経験はゼロ、
毎日、原稿用紙に10枚書いて
1ヶ月見ていただいたことなど、
苦しくもあったが、
今では楽しい思い出となった。

そのせいか、70歳になった今でも、
たとえ駄文であろうとも、
毎日、数回ブログを更新するのは
平気である。

当時、日々、
政治、経済、外交、安全保障など、
「世の中」をどうみるべきか、
自分が何をなすべきか、
その全てを実地に先生に
内外で教えていただいたことには、
どう感謝したらいいかわからない。

今でも、判断に困るとき、
先生ならこのことをどう考えるのだろうかと、
恩師のまなざしを思い浮かべることが
しばしばある。

 65年8月、国交回復直前の韓国に
約3週間滞在した私は、
特に、日韓関係に関心があった。

日本の越し方行く末を見るに、
韓国は格好の鏡になる
というように思ったからだ。

だから、研究所が他に先駆けて開催した
「日韓政経セミナー」を担当した時は、
こんな若造にここまで
やらせてくれるのかというほど
企画に加えさせていただき、
日夜興奮して準備にあたったのだった。

日本側のトップは
財界トップの今里広記日本精工社長。
牛尾治朗、服部禮次郎、堤 清二といった
後に財界の中心的存在に
なっていった人たちがまだ40代だったが、
積極的に参加し、
今里、大森のお二人の薫陶を受けていた。

後に国際法泰斗と言われた
寺沢 一東大教授が学界から参加し、
電通の成田豊地方部長(現・最高顧問)が、
研究所の担当者だった。

このセミナーは日韓両国で
交互に4回ほど開催したが、
あるとき、今里さんがソウルで、
小ぶりだが、すばらしい石灯籠と出会い、
感動のあまり
「おい、あれを何とか合法的に持ち帰れんか」
という難題を授かった。

大森先生と相談すると、
「やってみぃや」。

今、その石灯籠は、
麻生太郎邸と背中合わせの
渋谷の今里邸の庭に、
まさに場を得た形で鎮座ましましている。
 
余談だが、今里さんは
お嬢様(新歌舞伎座の設計監修をしている
杉山隆先生の令夫人)に、
「これは大森君のところの
フキウラくんとかいう若いもんが
努力と工夫で我が家のものにして
くれたんだ」と伝え、
みなさんが私を探してくれていたそうだ。

ようやく5,6年ほど前、
ピアニストの中村紘子さんのお宅で、
偶然、その方と親しくなり、
お庭に80本もある梅ノ木が満開の折、
お邸にお招きいただいた。

石灯籠の品の良さは場にぴったり、
そこへ絵に描いたように
鶯がやって来、
目前の光景に感動して、
出された美食を前に手が止まったほどだった。
               (つづく)
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