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小笠原には原爆があった [2010年07月21日(Wed)]








小笠原には原爆もあった?

戦後すぐ、GHQは欧米系住民のみ
135名を父島と母島に戻した。

以後、1968(昭和43)年に返還されるまでの23年間、
島にはこれらの人々しかいなかった。

学校教育は英語でのみ行われ、
高校はグアム島へ、
大学はハワイへ行くのがコースだった。

「小笠原を欧米系だけにしたことには
いくつかの狙いが考えられる」
辻友衛氏などの島の歴史研究者たちは、
@米太平洋艦隊の中継基地としてアメリカが
自由に使用できる
A基地労働者として適当な数の住民が必要だ
B返還運動の盛り上がりを未然に防ぐ
Cある程度英語の出来る者が多いので便利だ、
といった理由が考えられるという。

欧米系の人たちが当時を振り返って口々にいうのは、
父島には原爆があった、という話だ。

米軍の支配下にあったわけだから、
核兵器に関する三原則も適用されなかったわけだろうが、
不気味な話だ。

欧米系の古老の一人、ピーター・ウェッブ氏は
若い頃、板橋で大工の修行をしたという
ちゃきちゃきの江戸弁で、
「あの当時、米海軍の荷役の仕事は
みなわれわれがやってたもんだが、
たまに、今日は家から一歩も出るな、
荷役はすべて軍人だけでやるというんだ。
まるで戒厳令のような日だった。
あれは間違いなく原爆を島に持ち込んだり、
島から出したりしたとわれわれは確信したし、
今でもそう思う」。

“仕舞いこんだ”ところは旧日本軍が残した
特別製の格納庫。

縦2メートル余、横2.3メートルで
奥行きは相当のもの。しかも、
ピカピカの銅板で内壁を護っていたという。

「今は銅板はありませんね」という問いに、
欧米系の人たちは、返還までの間に
処分したものの一つということだ、
と異口同音に言う。

要するに、日本軍が残し、
米海軍が運び出したもの以外の兵器同様、
欧米系の人たちが売り飛ばしたということのようだ。

それでも父島の最高峰中央山(318メートル)には
まだまだ飛行機の残骸、高射砲、臼砲の残骸が残っている。

二見湾には難破した輸送船などが赤錆た姿をさらしている。
また、湾沿いを中心に、トーチカ跡が
無数というほど口を開いており、
中がどうつながっているか判らないほどになっているそうだ。

   ===================

 以上は、1994(昭和52)年に「新樹」紙に書いたものだが、
その数年後、小笠原に原爆が備蓄されていたことは
確認され、報道されている。

                          (つづく)
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