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吉田松陰と白旗 [2009年10月30日(Fri)]



        


          吉田松陰









 つい先日、10月27日は、吉田松陰(1830〜59)が小伝馬町の獄舎で
刑死して150年目にあたる。

 そこで、松陰と旗について少し書いてみたい。

   ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜

「無風状態では「日の丸」が降伏を示すようだ」と
英国人から言われ、
昨今のいやな言葉で言えば、
いささか“ムカついた”経験がある。

 白旗はかなり以前から、
降伏、帰順、和解、軍使派遣などの意味を表わすということが
世界的に知られていた。

  わが国でも、吉田松陰は次のように述べている。

 西夷諸国水戦の法、戦敗れて降を乞ふ時は、
白旗を船上に引き揚ぐ。又用を弁ずるが為めに
来る時は、脚船に白幡を建てて行。
 其の時は敢えて妨害を加へざるを式とすと云ふ。
                  『吉田松陰全集』第一巻

 脚船とは速度の速い小型の便船のこと。これは
アヘン戦争(1840〜42)の際、白旗を掲げた
英国の船に清国側が発砲を続けたことに触れての記述である。

 松蔭が世界に目を向け、
海外のさまざまなな知識を身につけていたことは、
他の箇所でもよく判る。

 また、1874年の「ブラッセル宣言」
(英国不参加のため発効に至らず)では、
「交戦者の一方の命を帯びて他の一方と談判を為すために
白旗を持ち鼓吹手(喇叭士又は鼓士)一名及
旗手一名を具して到る者を戦使とす。
 戦使並に之に随行する鼓吹手及旗手は
不可害の権利を有す」(第43条)と決めた。

 また、現在も有効な国際法である、1907年の
「陸戦の法規慣例に関する条約」の付属書
「陸戦の法規慣例に関する規則」(陸戦法規)でも、
「戦者の一方の命を帯ひ、他の一方と交渉する為、
白旗を掲けて来る者は、之を軍使とす。軍使並
之に随従する喇叭手、鼓手、旗手及通 訳は、
不可侵権を有す」(第32条)として、
白旗を掲げる軍使の不可侵権を認め合っている。
 
 ペリー艦隊とぎりぎりの折衝を続けた末、幕府は
フィールモア米国大統領からの、
貿易の希望を表明する親書を受け取った。

 このとき、ペリーが一文を添えた。それには
通商を拒否するなら開戦も辞さずとあり、
もし和睦したいなら、「此度贈リ遺候所ノ白旗ヲ
押立ベシ然バ此方ノ炮ヲ止メ艦ヲ退ケテ和睦ヲイタスベシ」とあり、
国旗のほかに和睦(降服)の合図を旗で示すことを求めた。

 但し、これについては松本健一麗沢大学教授が
1995年に「資料発掘」として、
いかにもペリーの砲艦外交を印象付け、
これを偽文書だとする宮地正人東大教授、
岸田秀和光大学教授、秦郁彦日大教授らを巻き込む大騒ぎになって、
いまだ決着がつかない。そのあたりの事情は、
毎日新聞の岸俊光記者が
好著『ペリーの白旗』(毎日新聞社)で
総括してくれているので、これ以上は論及しない。

 筆者は白旗がいつからこうした意味に
用いられるようになったのかは、詳らかではないものの、
源氏の白旗のはるか以前、
わが国でも白旗を帰順の意味で用いていたということを
述べておきたい。

 すなわち、景行天皇(第12代の天皇。在位71〜130)の12年、
九州征伐の時、
周防の神夏磯媛(かみなつそひめ)という女酋が
榊に鏡、玉、剣の3種の神宝を飾り、
その上に素幡を立てて天皇への帰順の意を示して出迎えた
という話が『日本書紀』(720)にある。

 このほか神功皇后や欽明天皇の話の記述の中にも
降伏を意味する白旗の使用例が見られる。

 古代の日本と近世の米国で、
白旗が同じく帰順や降伏を意味していたということであれば
興味深い。

 白旗については日本でも戦前からよく知られ、
沖縄戦で幼い少女が白旗を掲げて米軍に身をさらす話が
比嘉冨子のノンフィクション『白旗の少女』となり、
2009年9月にはテレビ東京でも
開局45周年記念ドラマスペシャルとして放映された。
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