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後醍醐天皇の行宮へ [2008年10月30日(Thu)]



















石森章太郎『マンガ 日本の歴史』(中央公論社)より。







 昨日、与那国島について、
日本最西端であると書きましたが、
今般、
奈良県五條市の旧西吉野村賀名生(あのう)
というところに調査に出かけ、
東京からこんなにも遠いところが
関西にあると、驚きました。

品川から新幹線で京都へ、
近鉄で大和八木へ、
また乗り換えて大和高田へ。

そこからいったん、駅の外に出て
8分ほど歩き、
JR和歌山線高田駅へ。
普通列車で五条駅へ。

駅前からタクシーで山間を走り、
2,380円。

道の両側に柿の直売所。
ここ、旧西吉野村は日本一といわれる
柿のさんち。

ようやく目的地の賀名生の集落に着きました。

品川駅からでも4時間半ほどです。

でも、私の目的は橙色の柿ではなく、
後醍醐天皇から下賜されたという、
「日本最古の日の丸」との再会のためなのです。

名門・堀家の門には「皇居」と書いた板が掲げられています。

しかも、それを書いた人は、吉村寅太郎、
そうです、かの天誅組の首謀者の一人です。

首謀者の表現がきつければ、
頭(かしら)、首領、リーダーかな。

この山間僻地、
今でこそ、日本で1、2という柿の産地になっていますが、
往時、南朝の拠点であり、
堀家は後醍醐天皇が行宮として用いたこともあるという、
国の重要文化財。

生来の「イナカッペ」でありながら
もう半世紀近く都会で暮らしてきた私には、
この山間僻地、
納得したり、感心したり、
そして驚くことばかりでした。

なんと言っても、ここまでは
尊氏を中心とする北朝方の武士たちも
簡単には攻め込めなかったことが、
よく分かりました。

そうそう、もうひとつの小さな驚きは、
かの「休職外務事務官」が、一昨年、昨年と2度も
堀家を訪問していることでした。

なにはともあれ、
久々に南北朝時代の歴史を復習し、
宿でも、読み直し、
最後は漫画本まで見て、
後醍醐天皇の皇子たち、
足利尊氏(たかうじ)、直義(ただよし)兄弟、
高師直(もろなお)、師泰(もろやす)兄弟、
楠正成(まさしげ)、正季兄弟、そして、
息子の正行を筆頭に、正時、正儀(まさのり)・・・
『神皇正統記』北畠親房とその一族・・・、
兄弟たちは時に結束し、時に争うなど、
複雑怪奇な動きをしたケースもあり、
若いころから何度か勉強したはずですが、
理解するには一苦労でした。

そうそう、親房が亡くなったのもまた賀名生でした。

とにもかくにも、いろいろ乗り換えた挙句、
朝の9時に家を出て、お約束いただいた午後4時に、
ようやく「皇居」にたどり着くことが出来ました。

山の陽はもうすぐ暮れ行く直前でした。
              (つづく)
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