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ニコライ2世の名誉回復 [2008年10月06日(Mon)]











 帝政ロシア最後の皇帝「ニコライ2世」の名誉回復が決まった。

 ロシア連邦最高裁は、10月1日、
ニコライ2世とその家族の名誉を回復した。

 一家は、ロシア革命さなかの1918年7月、エカテリンブルクで
ボリシェビキ(のちのソ連共産党)の暴徒ともいうべきメンバーにより、
裁判も罪状もないままに宿泊していた隠れ家で銃殺された。

 殺害されたのは、ニコライ2世、アレクサンドラ皇后
そして5人の子どもたち、すなわち
長女オリガ、次女タチヤーナ、三女マリア、
四女アナスターシャ、皇太子アレクセイ。

 末の皇女アナスターシアだけが生き延びとの噂もあり、
「それは私です」という女性が複数申し出たため、
依然、特定することはできないままになっているようだ。

 うち皇帝ら5人は、
処刑されたエカテリンブルク郊外で91年に遺骨が発掘され、
98年、時のエリツィン大統領主導で
歴代の皇帝が眠るサンクトペテルブルクの
ペトロパブロフスク大聖堂に移されて、埋葬された。

 三女と皇太子とみられる遺骨もその後発掘され、
これまでに本人であることがほぼ確認されている。

 皇帝一家は00年にロシア正教会の聖人にも列せられている。
このため、「ロシア社会の和解の象徴」とされ、
「事実上の名誉回復は終えている」と冷静に
受け止める市民も多い。

 一家について、
最高裁判所はロマノフ王家の子孫たちの上告に対し、
「根拠なしに迫害された」「政治弾圧の犠牲者」だったと判断し、
名誉回復するとの裁定を下した。

 ニコライは皇太子時代、1891年4月27日、
ロシアのアゾフ号で長崎に来航した。各地を訪問したあと、
5月11日、琵琶湖遊覧から京都の宿舎に戻ろうと、
滋賀県大津しないにさしかかったところ、
警備にあたっていた津田三蔵巡査が、
襲撃に遭い怪我をした(大津事件)。

 ことの重大さに、松方正義首相はもちろん、
明治天皇も急遽、京都で、
常磐ホテル(現在の京都ホテルオークラ)に滞在していた
皇太子ニコライをお見舞いした。

 当時の国際情勢下では、日露開戦となり、
その場合は、日本が惨敗していた可能性が強いとされている。

 名誉回復に伴う一連のこうしたニュースが、
ロシアの民主的秩序の発展に役立つことを
期待したい。
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