静岡茶に思う [2008年06月22日(日)]
![]() モザンビ−クの国旗 ![]() 新幹線の車内から撮影してみました。これが静岡の茶畑なんです。 まずは、モザンビークの国旗である。 緑は国土と農業を、黒は国民を、黄は鉱物資源を、赤は独立のために流した血を、白は平和を表している。紋章には書物と農業のための鍬、そしてAK47の銃が描かれ、知識層、農民、兵士の協力を象徴し、独立と政治信念を表している星からなっている。 新幹線を通るたびに、私はなぜかこの国旗を思い出している。まあ、国旗に「嵌った」男の宿命か、業とでも思ってお付き合いいただきたい。 「銃を捨てて街に出よう」というのは、ベトナム戦争当時の反戦標語の1つだが、時は1869(明治2)年、幕臣らは追い立てられるように江戸(東京)を離れ、静岡県に移住することになった。 そこで、「銃を捨てて荒地に出」たのだ。 ところは、静岡県金谷原(かなやはら)。今の島田市である。 中條景昭(ちゅうじょう・かげあき)をリーダーとする旧幕臣数百人が、第二の人生を茶畑に賭けたのだった。 景昭は、文政十年、江戸白に程近い六番町に生まれた旗本の子。日米和親条約が成った嘉永7(1854)年より、今の大河ドラマ「篤姫」の夫である13代将軍・家定に仕え、武術指南の剣客。 1867(慶応3)年、15代将軍・慶喜による「大政奉還」では、慶喜の護衛の一人として随行、駿府(静岡)へ下った。しかし、当時、所属した、「新番組(しんばんくみ)」は家達が藩知事となるとともに解散、中條以下、数百の武士は失職するほかなかった。 そこで、静岡藩大参事の平岡丹波や藩政補翼の勝海舟らに申し入れ、金谷原入植の方針が決まったと伝えられている。 1869年7月、正式に藩知事・徳川家達の許可を得た。かくして、中條らは大小を下ろし、代わって鋤を取り鍬を担いだ。「金谷原開墾方」と名乗って牧之原荒野(大井川西岸の洪積台地)の開墾を始めたのである。 その後の言い方でいえば東海道線・金谷駅の周辺ということになる。 中には、坂本竜馬暗殺に加わった、見廻組の今井信郎もいた。今井はその後、初倉村(今の島田市初倉地区)の村長にもなっている。 約250戸の元幕臣(高位の武士から能楽師まで)とその家族が牧之原に住み着き、1,425町歩(約1,420ha)の開墾を始めた。組頭(隊長)の中條は42歳。30歳未満の者が160名と若者が多く、未開の荒地に挑むにはちょうどいい年齢構成だったとも言えよう。 勝海舟は、1878(明治11)年にこの旧幕臣たちに書簡をおくっている。 「聞く、金谷原は磽角(ぎょうかく)不毛、水路に乏し、民捨てて顧みざること数百年と。若し、我等をしてこの地を与えば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終えんと。我これを聞き感激殊に甚だしき。ああ君等一死を誓い、三変して今に及び、よく小を捨て大に移り、国家有益の大業を成就す。その始め確乎たる精神至誠あらざれば、なんぞかくの如く成らん哉」 。 幸いにして、開墾にあった地は、気候温暖にして、勝が指摘するよりは水にも恵まれたようだ。 中條は終生、髷を落とさず、幕臣としての矜持を保ちながら、続くものを励ましたと伝えられている。 今日、宇治、狭山に優るとも劣らぬ茶の名所として静岡が全国にしられるようになったとき、私は新幹線で通るたびに、中條らの苦労を思い、モザンビークの国旗を連想するのである。 ところで、モザンビークには久しく行っていないが、知識層、農民、兵士の協力はうまく進んでいるのだろうか。 |





