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チベットと青木文教 [2008年04月21日(Mon)]




















青木文教。中央・背広の人







チベットの国旗についていろいろ書いてきましたが、これについて、何人かの方から、質問が寄せられました。個別には解答しましたが、「青木文教について経歴など詳しいことを」という、大田区にお住まいの湯川徳光さんとおっしゃる方からの質問には、小欄を通じて回答したいと思います。

とはいっても私が別に詳しいわけではありません。前回紹介したように、ダライ・ラマ13世に対し、具体的に国旗の制定を働きかけた人ということは、本人が『秘密国チベット』(芙蓉書房出版)に書いてある通りですが、そのほかの経歴については、同書の巻末にあるのを参考にしつつ、他の資料から解説を付したいと思います。

1886(明治19)年、滋賀県安曇川町の正福寺の長男として生まれました。

1907(明治40)年、仏教大学(現・龍谷大学)に入学、1910(明治43)年、本願寺(浄土真宗本願寺派=西本願寺)の大谷光瑞法主(1876〜1947)の命により、インドへの仏教遺跡調査に参加しました。

さらに、翌年はロンドンへの教育事情調査に赴き、帰途、インドに立ち寄り、チベット人留学生を伴って帰国しました。

1912(明治45)年、チベット僧・多田等観らとともに、インドへ出発、ダライ・ラマ13世に謁見し、チベットへの入国許可を得ました。

1913(大正2)年、チベットの首都ラッサに到着、教学顧問としてその後3年間、同地に滞在しました。

 日露戦争(1904〜05)時に、満州方面からこの経典が日本に渡りました。
青木は、帰国後、大蔵経の受取人は誰かをめぐって河口慧海と激しく対立し、いわゆる「大正の玉手箱」事件が起きたのです。

 1918(大正7)年、青木は再び大谷光瑞法主の命を受けて、東南アジアに農業調査に向かい、以後、5年間、これに従事しました。

大東亜戦争直前の1941(昭和16)年には、外務省嘱託として、チベット事情の調査を行うということもしました。

 戦後は、GHQの民間情報教育局(CIE)の教育顧問などにもなりましたが、1951(昭和26)年に東大でチベット語を教えるようになり、1956(昭和31)年11月に逝去しました。70歳でした。

こういう方がいて、チベットの自治・独立、そして文化や伝統を尊重しつつ近代化をきめ細かく支援してきたわけで、4月26日、長野での聖火リレーに合わせてチベットの国旗が各地で振られることでしょうが、私たちは無神経な中国政府のやり方に対し、大いに抗議しようではありませんか。
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