骨髄異形成症候群E [2008年01月10日(木)]
![]() 国立がんセンター入院中の兄・忠晴(66歳) 私は6人兄(姉)弟です。内、すぐ上の忠晴だけが私とは母親もいっしょ(他の兄姉は父の最初の妻の子で、その母親が亡くなって3年後に父は私と忠晴の母となる人と再婚)という構成です。 いささか驚かれるかもしれませんが、兄は手品(奇術)師です。 まったく不器用そのものの私とは似ても似つかない指の動きと、仕組み(タネ)の考案能力、不思議な探究心、そして呆れるほどの読書力を持っていました。 2003年9月、演技の途中に突然、体調を崩し、 翌日、自分で運転してとりあえず、 足立区の自宅近くにあるクリニックに行きました。 そこでは診断がつかない?まま、 血液内科のある専門病院を紹介されましたが、そこでもはっきりしなかったようです。 一通りの検査を終え、 帰宅しようとした兄を 看護師(どうにも最近変ったこの言葉が好きでないので、 以後、敬意と親しみを込めつつ従来どおり、 看護婦と呼ばせていただきます)が 駐車場まで追いかけてきて、 「運転はいけません」と止めてくれたそうです。 これが兄にとってツキの始まりでした。 兄の病状はかなり悪かったのです。 しかし、そこでも対応しかねて、 東京女子医大付属病院を紹介されました。 ところが、この三番目の東京女子医大付属病院でも 手におえない様子で、 「これはより高度の専門医のいるところがいい」とか言われ、 都立駒込病院に回されました。 この病院は「エイズといえば駒込」と言われるくらい、 「血液」には強いといわれているところです。 それでも血液内科は新人を含めわずか七人の医師が 交替で勤務しているという、 それはそれは多忙を極めている雰囲気のところでした。 しかし、さすがに都立駒込病院、 一発で骨髄異成形症候群と診断し、 そこから医師、患者、家族、そして私ども弟夫婦が一体になって、 本格的な「傾向と対策」が始まりました。 実は、私どもの父親も60代半ばで喉頭癌を発病、 1960年に秋田日赤病院でそのように診断されました。 昔のことですから、今とは医学の水準が 月とスッポンくらいの違いだったのではないでしょうか。 しつこく病名開示を求めた父に、 医師はずいぶん困惑したようです。 でも、最後は、きちんと告知してくれました。 そこで、父は単身、東京に出てきて、 大塚の癌研究会付属病院に通院し、コバルト60の照射を ふた月近く受けて、根治したようです。 6年ほど後に、別の病気で亡くなりました。 兄も同様に告知を希望し、 若い担当医はその強い意志を確認し、 すべてを本人と家族に知らせました。 「このままでは長くて一年程度か」 「骨髄移植しかない。それにはドナーを探さなくてはいけない」 「HLA抗原(白血球の型)は2万種類くらいあり、 兄弟でも4人に一人しか完全には一致しない」 「骨髄バンクに登録している人は17万人(2001年当時)ほどいるが、 HLA抗原が完全に合うという人はめったにいない」 「また、合致してもいろいろ事情もあり簡単に応じてくれるか、 応じられるかは不明である」・・・。 そこでまず、11月某日、駒込病院で、 まず私がHLA検査を受けました。 人間ドックで採血されるのと同じで 右腕から20ml程度の血液を採られました。 (つづく) |




