スキンシップとセクハラ(再録) [2007年10月20日(Sat)]
![]() 先週までの数日、大学の先生方との研究会が相次いだ。 そこで開会前に話題になったのが、またぞろ、セクハラ問題。 概して男性の教員よりも、女性の教員のほうが 「今のセクハラ騒ぎは過剰だ」 「こんな時代感覚では一層少子化が進む」といった意見が多く、 若い男性教員たちからは、 「何を言われるか解らないので、ばかばかしくて 1対1では指導できない」 「女性による男性への性差別の1つだ」 「研究室に一人でこられては困る」 という意見が出された。 50代後半のA教授は、 ある女子院生が4年かけての苦戦の末、 修士論文が最終的に立派に出来たので、 肩を叩いて褒めてあげたら、その院生が 「みんな先生ののご指導のおかげです」 といって、ワァッと泣きついてきたのだそうだ。 その院生を軽く抱きとめて(「抱きしめて」ではない) 「ずいぶん厳しいこともいったがよく頑張ったね」 と祝福したというのだ。 ま、当人からの話しか知らないので、確証ははないが、 この様子を見た、たまたま同じ研究室内にいた 複数の学生から、これがセクハラだとして問題にされ、 学部長に「不注意だと」厳しく叱責されたというのだ。 本来、 「身体の接触や肌の触れ合いによる親密な交流」が 「スキンシップ」。 これは世界的というか、人間はもちろんすべての動物に 共通なことであり、心の交流の結果である。 母子間での直接的な皮膚接触が大切だと、 育児の本にはかならず書いてある。 しかし、もちろん度を過ぎてはいけないが、 私はこれが事実なら、学部長のほうが 少しおかしいのではないかと思う。 とかくこの世はすみにくい。すみにくいからとて 越す国がないことは漱石先生が教えてくれた。 しかし、わが友人には、東京の自宅を貸して家賃をとり、 ニュージーランドで暮らしているのもいるが、 こうしてみると 今は少しは事情が違うようになって来た。 閑話休題。 「セクハラ」はしばしば、一方的で強制がともなうことではないか。 しかし、そこまで行かない段階では「スキンシップ」との領域分界が かなりに難しい。時と所でも違う。 いつかクロアチアに行ったとき、 空港に出迎えてくれたはじめて出あった若い女性に めちゃくちゃ抱きしめられ、チュッ、チュッ! さすがの?私もいささか面食らったこともある。 「所変われば」の異文化体験だ。 要するに相手が嫌がることを繰り返すのは 「いけません」ということで、それ以外には 今少し寛容でいいのではないだろうか。 もちろん、日本では何であれ、よく知らない人に 接触しては「いけません」。 軽い冗談のつもりでも、相手の嫌がることを 繰り返しては「いけません」。 一度は許されることがあっても、繰り返したら、最悪です。 性を話題にしては「いけません」。権力や上下関係、 利益をからめて、いかなる形であれ 性的に迫るのは「いけません」。 これらはみんな「セクハラ」になるの「だそう」です。 そしてその行為や言動が 「セクハラ」になるかどうかは、 本人が決めるのではなく、 対象となった相手が「勝手に」決めることができるのです。 実際の判例などをみると、 そうとしか言いようのないのです。 諸兄よ、 「ああ、兎角この世は住みにくい」と、私とともに慨嘆されたい。 これでは恋が減って少子化が進むのは 当たり前ではないでしょうか。 以上、自称・人畜無害の筆者の独り言。 (この話の後半は、以前にも書きましたが、折りしも、 こんな話題がありましたので、再録しました。) |





