300勝投手だった難民 [2007年08月07日(火)]
![]() ![]() スタルヒン一家とスタルヒン。最期は、飲酒運転での死亡事故であったが、自殺説も根強い。 スタルヒン(1916〜57)について触れながら、そうか、もう若い人には知られていないかもしれないと気づいた。 私は小学校時代、秋田手形球場でスタルヒンの投げる試合を見た。なんと対戦相手の投手は確か、後にプロレスラーになったジャイアント馬場だったような気がする。センターに別当薫がいたから、記憶が正しいか、いささか怪しいが。 スタルヒンは戦時中も、「須田」と姓をかえ、なんとか日本国籍を取得しようと尽力したが果たせなかった。当時の日本政府の「冷たさ」を痛感する。 これについては拙著『難民―世界と日本』(日本教育新聞社)に詳しく書いたので、いずれ紹介するが、とりあえずは、ウィキペディアを転載しておきたい。 写真は、www.htb.co.jp/vision/kokoro/story.htmlより。 ★.。.:*・゜★.。.:*・゜★.。.:*・゜ ヴィクトル・コンスタンティノヴィッチ・スタルヒン(Victor Starffin;ロシア語:Виктор Константинович/Фëдорович Старухинヴィークタル・カンスターンチナヴィチュ・フョーダラヴィチュ・スタルーヒン;Viktor Konstantinovič/Fëdorovič Staruchin、1916年5月1日 - 1957年1月12日)は昭和初期から中期(1930年代後半-1950年代前半)のプロ野球選手(投手)。ロシア帝国ペルミ県ニジニタギル生まれ、北海道旭川市出身。沢村栄治と並ぶ、プロ野球黎明期の名投手で、右投げ右打ち。日本プロ野球界初の外国人選手であった。 1916年、帝政時代のロシアに生まれた。 ロシア革命の際、一族の中に皇帝側についた者がいたため革命政府から迫害され、1925年、一家で日本に亡命。旧制旭川中学校に入学し当時から剛速球投手として鳴らした。3年生の1934年11月25日、当時日米野球のため来日していたアメリカ・大リーグ選抜チームと対戦する全日本チーム(この全日本メンバーを元に、後に大日本東京野球倶楽部が結成される)に半ば強引に引き抜かれ、旭川中を中退し上京。11月29日、埼玉県営大宮公園野球場で開催された同第17戦の8回から敗戦処理で2イニングを投げ、これがプロ野球選手としてのデビューとなった。 1936年、そのまま東京巨人軍に入団。1937年秋より沢村栄治に替わってエースに台頭。1938年秋から1943年まで続く6連覇に大きく貢献した。1937年7月3日にノーヒットノーラン達成。1939年に日本記録となるシーズン42勝(戦後の一時期スコアブックの見直しにより40勝とされていた。後述)をあげ最多勝を獲得、最高殊勲選手(MVP)に輝いた。同年、プロ野球初の通算100勝を達成している。165試合目での到達は2007年現在も破られていない史上最速記録である。 反欧米思想の激化に伴い1940年に「須田 博(すた ひろし)」に改名。戦況が激化した1944年、白系ロシア人であるため「敵性人種」として連行され、多くの在留外交官等と同様に軽井沢に抑留された。ちなみにこの年のプロ野球公式記録によると、「病気のため隔離」されたことになっている。 戦後の1946年、元巨人監督で当時パシフィック監督の藤本定義と再会しパシフィックに復帰。同年10月に史上初の通算200勝を達成。1948年金星スターズ、1954年に高橋ユニオンズに移籍した。1955年9月4日対大映戦(西京極)で史上初の通算300勝を達成。その後、1939年の記録を当初の公式記録通りに戻したため、公式には同年7月30日に開かれた川崎球場での近鉄パールス戦での勝利が300勝となる。同年現役引退。 1957年1月12日、自動車を運転中、東急玉川線の電車と衝突し即死。墓所は秋田県横手市。 1960年には、その前年に創設された野球殿堂の史上最初の競技者表彰に選出された。功績を称え、1984年に改修工事が完成した旭川市営球場(現旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場)には愛称「スタルヒン球場」が命名された。 長女・ナターシャ・スタルヒンはJAL国際線のスチュワーデスを経て、日本初の日焼けサロンを創業。現在は栄養士として、各地での講演会や、健康をテーマにしたテレビ番組の出演等の活動をしている。 |






