末次一郎の価値観 [2007年06月09日(土)]
![]() ●「戦友の身代わりに」が原点 末次は1922年10月1日、福岡県に生まれ、 すぐ佐賀県福富町へと移った。 今、創刊80周年を迎えている「文芸春秋」はこの年に創刊された。奇しくもともに激動の時代を生きてきたといえよう。 佐賀商業を卒業後、家業の材木店で働き、 早稲田の講義録を取り寄せたり、 座禅を組むなどして研鑚を積んでいた。 43年春、現役兵として大邱の連隊で訓練を受け、 次いで豊橋予備士官学校に学び、 さらに、選ばれて今の静岡県天竜市に新設された 陸軍中野学校二俣分校へと進んだ。 当時の名前は「末次一」であった。 終戦時、末次は陸軍少尉として 福岡県下の西部軍参謀部にいた。 米軍の九州上陸に備えて遊撃体制の整備に懸命だった。 それだけに敗戦のショックは大きく、 「無謀にも断固抗戦」を企んだ。 しかし、8月30日、マッカーサーの厚木進駐で計画を放棄、 「二度目の悔し涙を流した」。 いまやこれまでと山に入り、遺書12通をしたため、 「尺三寸の愛刀長船を逆手に持って腹に突き立てたが、 「土壇場で理屈をこねてひるみ」、 腹部に大きな傷を残して一命を取り留めた。 「理屈」は、この敗戦日本の復興を誰がするのか、 亡き戦友の果たせなかったことを自分達がやらねば、 というものであり、ここで「ひるんだ」。 生き延びた末次の人生はここから全く新たなページになる。 「戦後」への挑戦、 亡き戦友に恥ずかしくない生き方がその原点と言っていい。 三人娘それぞれの結婚披露の席でのスピーチで末次は必ず、 「娘を嫁がせるというこうした喜びを 今、自分が味わっていることはあの戦友たちに…」 と述べては声を詰まらせていた。 46年1月、米軍MPの来訪を探知するや家を出、 「宮崎一郎」と名を変え、北海道に隠れた。 48年8月に 後に社会派青年運動団体といわれた日本健青会が発足してほどなく 「末次一郎」を名乗ったが、 家裁でこの名が正式に認められたのは、 60年代の末になってからであった。 それはともかく、屈斜路湖のほとりの電気もない小屋で暮らしつつ、 このまま埋もれてはならないと決心した末次は、 5月末に上京し、浮浪者に混じったり、 「土方、雑用人夫、その他ひとおおりの経験」をした。 しかし、これでは勉強が出来ぬと、 やがて神田で靴磨きの仕事につき、 「女性と進駐軍の靴だけは磨かなかった」が、 大いに日銭をかせぎ、勉強の機会を探った。 末次はいわゆる学者ではない。 しかし、学者が舌を巻くような博識と判断力は、 若いころからの独学と研鑚、 普段の読書や情報収集、 そして幾人もの方々の指導を求め、 全国の仲間と切磋琢磨したことによるものであった。 東京帝大で政治学を講じ、 戦前戦後の論壇に大きな足跡を残した矢部貞治、 民主社会主義を唱えた都立大学名誉教授関嘉彦(後に民社党参院議員)、 中東調査会理事長や朝日新聞の主幹を務めた土屋清、 自ら沖縄出身であり末次と訪米を重ね 沖縄復帰を説いて周った早稲田の総長・大濱信泉、 沖縄・北方領土の返還に相携えて取り組んだ 南方同胞援護会事務局長・吉田嗣延、 高級官僚でありながら民間運動との連携に尽くして その力を最大限引き出した山野幸吉といった人々であり、 戦時中の教官であり戦後一貫して末次と行動をともにし、 末次亡き後の郎党をとりまとめている渡辺五郎三郎など の名をあげることができるし、 また、久住、佐伯、猪木を始めとする 安全保障問題研究会に結集する学者・専門家たちであった。 |




