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桜田門外の変の現場 [2007年05月22日(火)]









 現在地とあるのは、今の国会議事堂正門前。この2枚の地図が金属板に印刷されて表示してある。




 桜田門外の変は教科書にもあり、
幕末の重大事件として記憶されている。

 しかし、浅学菲才の悲しさ、
私は、事件の名前の通り
桜田門の前で大老・井伊直弼(掃部守=かもんのかみ)が殺害されたことはわかるが、
なぜか、直弼の行列は、
門にまっすぐ向かって今の外務省と農水省の間を抜け、
警視庁と法務省の間の桜田門に近いあたりで事件が起こった
とばかり思い込んでいた。

 ところが、先日、憲政記念館から
虎ノ門のユーラシア21研究所まで歩いて帰りながら、
路上の表示板を見て、
思わず「えっ!」と声を出してしまった。
げに、先入観、思い込みとは恐ろしいものだ。
真相はこうだ。
井伊家があったのが、今の憲政記念館のところ、
殺害されたのは、
今の警視庁の桜田門側。

 当時は、杵築・松平家の上屋敷のあったところなのだ。
藩主の父である徳川斉昭の謹慎などで
特に反発の多かった水戸藩では、
藩に迷惑をかけないよう、
脱藩してことを起こそうというものたちが
直弼の殺害を企てたのだった。

 事件は、
江戸時代後期の1860年3月24日(安政7年3月3日)に
発生した。

 桜田門外の雪中に待受けた浪士18人
(水戸浪士17人、有村次左衛門1人が薩摩浪士)が、
上巳の節句の祝いのため籠で登城中の
大老・井伊直弼を殺害した。

 早朝、愛宕山(後のNKH発祥の地)に集合した浪士たちは、おそらくは
今のわがユーラシア21研究所の前(桜田通り)を通過し、
桜田門に向かったかと思われる。

 当時は田舎から出てきた武士が、
着飾った諸大名の登城を見物することが珍しくなく、
挙動を不振に思う人は特にいなかったようだ。

 井伊家の同行者は、
供廻りの徒士、足軽、草履取り、駕籠持ちを合わせて
計60人ほど。
  
 懸命な防戦に努めたが、
ついに有村次左衛門が直弼を引き出して
首を落とした。
  
 幕府は大老が暗殺されたということを極秘にし、
直弼は急病により暫く闘病、
急遽養子を願い出、
受理されたのちに病死したとした。

 これは御家断絶や世情の混乱防止のための措置であり、
これによって井伊家は改易を免れたのであった。
しかし、世間では、

  井伊掃部と雪の寒さに首を絞め
  井伊掃部を網で捕らずに駕籠で捕り

との戯れ歌までできた。井伊掃部(いいかもん)とは
直弼と「いい鴨」をかけた言葉である。

 繰り返すが、直弼は彦根藩の上屋敷のあった、
今の憲政記念館から桜田門に向かい、
今の警視庁の前、内堀通りの路上で殺害されたのである。

 墓は、世田谷の豪徳寺境内にある。
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