「蛍の光」と領土の変遷 [2007年05月22日(火)]
![]() 2007年3月31日、現在の日本の有人最南端である波照間島に立つ著者 以前も同様の話を書いたが、 日本の領土変遷を今一度、ご理解いただくため、 加筆してこの話を載せたい。 ☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜☆.。.:*・゜ 永六輔にいわせれば、「世界で2番目に歌われている曲」である 『蛍の光』が発表されたのは、1881(明治14)年。 文部省発行の最初の『小学唱歌集』に この曲が『蛍』の名で入っていた。 外国の曲とはいえ、「ヨナ(ファとシ)抜き」なだけあって、 日本人には比較的受け入れ易い音階だったに違いない。 ところで、最近はまったくと言っていいほど歌われなくなったが、 この曲の歌詞は、実は3番も4番もある。 敗戦に伴い、マッカーサーのGHQ(連合軍最高司令部)により、 歌詞を2番までに制限されて以来、 2コーラスが事実上消えた。 筑紫のきわみ みちのおく 海山とおく へだつとも その真心は へだてなく ひとつに尽せ 国のため 千島のおくも沖縄も のうちの守りなり 至らんくにに いさおしく つとめよわがせつつがなく 3番で九州から東北までを歌い、 4番では千島の奥から沖縄までの国土防衛を詠んでいる。 「至らんくに」は「国土の端から端まで」の意。 「日本国中で夫や兄よ、勇おしく元気に務めよ」 という意味といえよう。 沖縄のことは、近年、観光客がたくさん訪れ、 海洋博(1975年)や九州沖縄サミット(2000年)が 行われたこともあり、 比較的よく知られるようになったが、 「千島の奥」については あまり知る機会がないように思われるので、 多少触れておきたい。 1855(安政元)年、「通好条約」で 日露両国はと択捉島と得撫(うるっぷ)島の間をもって国境とし、 樺太(サハリン)は両国民混住の地(雑居地)とした。 したがって、現在、日本が返還を求めている 北方4島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)は この時に明確に日本の領土であることが確認されたものであり、 いわゆる「固有の領土」ということである。 しかし、その後ロシアは政治犯を送り込むなどして 樺太の炭坑開発に力を入れ、 同島での力関係は次第にロシアに傾いて行った。 これを憂慮した、 サンクトペテルブルク駐在の榎本(1836〜1908)公使は 巧みに外交交渉を進め、 1875(明治8)年、「樺太千島交換条約」を締結し、 樺太全島をロシアに渡す換わりに、 何とか、得撫島以北の千島列島を譲り受けることに成功した。 この結果、カムチャツカ半島から わずか17キロ南のまで「国端崎(こくたんさき)」までが 日本の領土となったのである。これが「千島のおく」である。 次いで、明治政府は、1872(明治5)年、琉球藩を設置、 79(明治12)年、軍隊や警察を動員して廃藩置県を強行、 沖縄をわが国の領土に編入した。いわゆる「琉球処分」である。 『蛍の光』の4番はまさに この南北2つの出来事の結果を歌い込んだもので、 戦前の一般の地理感覚では当然の内容であったものだ。 なお、日本はその後、1895(明治28)年に下関条約で台湾、 1905(明治38)年にポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太、 1910(明治43)年に朝鮮、 1920年に日本の委任統治領として南洋群島(現在の ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国、パラオ共和国)、 1939(昭和14)年に日仏交渉で、 現在周辺諸国により領有権が争われている 新南群島(南沙=スプラトリー、西沙=パラセル)を領有した。 そういうこともあり、前回この話を紹介したときには、 ある東大名誉教授の方から、 「自分は、<樺太の奥も台湾も・・・>と教わった」 というコメントをいただいた。 文部科学省に確認したがよくわからなかった。 実際、「千島の奥」の占守島は北緯51度、 樺太の国境線は50度で、 北千島のほうがより北にある。 但し、定住人口は極度に少ない。 台湾の南部はもちろん、沖縄の南端・波照間島より南だ。 その名誉教授の方は昭和の一桁のお生まれ。 この歌を学ばれたころの 国威発揚への意欲や社旗の気分がわかるような気がする。 しかし、これらはいずれも1945(昭和20)年の敗戦で放棄せしめられ、 小笠原諸島は1968(昭和43)年まで、沖縄は1972(昭和47)年まで アメリカの占領下にあった。 |





