日露戦争と捕虜 (25) [2007年04月30日(Mon)]
聖人に列せられたニコライ神父 ロシア正教会アレクセイ総主教に、刊行したニコライ神父の日記を献呈する笹川陽平現日本財団会長。2004年9月、モスクワのクレムリン構内にあるウィスペンスキー大寺院で。 ●ロシア正教徒の苦衷 ロシア人捕虜たちには、遠く本国から、また、日本各地からさまざまな慰問品が寄せられた。中でも、聖像21,922、十字架70,792、祭壇3の各個は、修道司祭(宣教師)ニコライ(俗名:イワン・ドミトリエヴィチ・カサートキン、1836〜1912)を中心とする、日本のロシア正教(日本ハリスト教会)の信者たちが贈られたものだ。 開戦当時68歳のニコライは駐日ロシア公使ロマン・ローゼン男爵(1847〜1922)からの強い帰国要請をも断り、ただ一人のロシア人として、日露戦争下の日本に残った。 ローゼンは帰国後、駐米公使となり、ポーツマスではセルゲイ・ウィッテ(1849〜1915、元蔵相。日露戦争に反対して左遷)とともに全権(副使)として小村寿(じゅ)太郎(1955〜1911、外相)、高平小五郎(1854〜1926、駐米公使)両全権と対座し、対日講和交渉にあたった。 しかし、残留したニコライと、彼を師と仰ぐ「信者たちは苦しみに遭った。日本政府は日本正教徒を糾弾する方針はとらなかったが、周囲の日本人は、かれらを裏切り者扱いする態度であった」(中村健之助『宣教師ニコライの日記』)。 反露機運が横溢(おういつ)する中で、ニコライ自身は聖堂から外に出ることはできなかったが、正教徒たちは懸命に捕虜を支援した。 1898年の内務省による調査では、当時、日本のキリスト教徒はカトリックが最大で53,924名、ついでロシア正教徒25,231名、組合教会(プロテスタント)以下がそれに次いでいた。ロシア正教徒の相対的な勢力や影響力は今よりはるかに大きかったといえよう。 ニコライは1861年、25歳の時、ロシア正教最初の宣教師として来日し、日露戦争までに3万人近い信者を獲得していたのである。 この間、72年にはキリスト教禁制の高札撤去を前に、東京・神田駿河台(するがだい)(現・JR御茶ノ水駅聖(ひじり)橋口、日立製作所本社前)に神学校などを開設、91年には東京復活大聖堂(ニコライ堂)を建立した。 ニコライ堂は、現在、国の重要文化財であるが、長らく東京の代表的名所、シンボル的存在であったし、流行歌の一節にもなった。ニコライは日露戦争中、この大聖堂にこもり、自ら育てた聖職者と信者たちを指揮して、ロシア人捕虜への慰問活動に献身した。 日露戦争中のニコライの日記には、日本各地でロシア聖教徒が迫害されているということが詳述されている。ニコライには全国の教会や信徒から苦渋に満ちた報告や手紙が次々と寄せられていたのであった。 ニコライは死後、亜聖徒に叙せられた。50年にも及ぶ日本滞在中に日記をつけていたが、最初の10年分は関東大震災の時に消失してしまった。北海道大学の中村健之介教授の尽力でその後他の部分がサンクトペテルブルクに保存されていることが判明し、このほど、残った約40年分(全5巻4、171頁)がロシア語で刊行された。 日本財団(笹川陽平会長)の記念すべき文化事業の1つになった。 2004年9月6日、モスクワのクレムリン内にある壮麗なウスペンスキー寺院で全巻がアレクセイ総主教に献本された。 この模様はNHKテレビで全国放送されたのでご存知の向きもあろうが、縁あって私もこの席に連なり、荘厳な聖歌の続く中で、日ロ両国の友好と相互理解の推進に努力された先人の遺徳を偲ぶことができた。 |