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石垣島への異国船 [2007年04月14日(土)]





 石垣島から西表島を臨む







 波照間島に行く機内から見た石垣市の市街






 日本への「黒船」は1853年のぺリー来航に始まるとされる。

 1852年3月に東インド艦隊司令長官に就任したペリー提督は、同年11月、日本の開国を迫るアメリカ大統領の親書を携えてバージニア州ノーフォークを出航した。

 ミシシッピ号を旗艦とし4隻から成る艦隊はケープタウン、シンガポール、香港、上海を経由し、那覇、父島(小笠原諸島)に立ち寄り、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)浦賀に入港した。
 
 ここまでは、小学校以来、耳にたこができるくらい聞かされたし、読まされた日本人の常識。

 ところが、これより早く、石垣島の宮良湾に英国の軍艦サマラン(Samarang)号が、1843、45年に琉球と長崎に来航し測量を行っている。

 1840年にアヘン戦争が起こり、42年の南京条約で香港が割譲されるという騒擾続きの険悪な時期であった。同号には234人の将兵、25人の船員、そして中国人通訳が一人計260人が乗り込んでいた。艦長はエドワード・ベルチャー。沿岸測量の専門家とも言うべき英国海軍士官である。

  1835年、新しい水路測量に関する著作をものにし、それまでは天文学者がやっていた、六分儀、経緯儀、クロノメータなどを用いて天体観測と三角測量を組み合わせた実践的な測量術を編み出し、これを測量士官自身がおこなうことを英国海軍に普及した人とされる。

  ベルチャーは1840〜41年、アヘン戦争に参加、攻撃艦隊の水先案内、あるいは上陸地点を決定するための測量を行うなどして、イギリス海軍の勝利に尽くした。

 45年には長崎に来航した。鎖国を行っていた時代であり、長崎奉行は測量の拒絶、伊王島にのみ上陸を許した。しかし、ベルチャーは、これを無視して、同島の経緯度を観測した。また警備する日本側をごまかして短艇を出し、推進の測定などもおこなった。 

  ところで、石垣島にやってきたサマラン号からは10人ほどが小船で岸に近づき、やがて浜辺にテントを張り、勝手に測量を開始したのみならず、さらに島内に入り込む様子だった。結局、大きなトラブルにはいたらず、来島の目的もはっきりしないまま、事なきを得たというのが史書の教えるところである。

 実は、浅学非才の私は石垣島訪問で、この史実をはじめて知ったのであった。
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