南端の島で北端を思う [2007年04月07日(土)]
![]() 現在、日本人が居住している最東端であり、北方領土の歯舞群島や国後島が手の届くような距離に臨める納沙布岬には、「北方領土返還祈念シンボル像」が建てられ、同じく日本人が居住している最南端の波照間島で採火されて全国を経て運ばれた「祈りの火」が燃え続けている。 ![]() ![]() 最晩年の末次一郎。最後まで、「戦後」に挑戦し続けた人であった。 このたび、なぜ私が沖縄県の波照間島まで出かけたかということを書かねばなるまい。 最大の目的は、北方領土問題を研究するに当たり、35年前に返還された沖縄の先島(石垣島を中心とする諸島)から学ぶものはないかということであった。 北方領土とこの「南方」領土、一見、関係がないと思われる方もいらっしゃるだろうが、まずは、この解説をご覧いただきたい。以下は、独立行政法人北方領土問題対策協会のHPをもとに私が少しアレンジしたものである。 ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃 北海道根室市の納沙布(ノサップ)岬にある「望郷の岬公園」内には、「四島(しま)のかけ橋」が立っています。この像は、北方領土返還祈念シンボル像であり、返還を求める国民の強い願いと祈りを結集し、北方領土が返還されるまでねばり強く返還要求運動を続ける決意を象徴するためのものです。4つのブロックは択捉、国後、色丹、歯舞の四島を表現し、それが連なって大きなかけ橋となっている。 底辺の長さ35メートル、高さ13メートル、幅3〜5メートル、重さ171トン。 1978(昭和53)年12月、シンボル像建設のために、財団法人北方領土返還祈念シンボル像建設協会が設立され、翌年3月には、全国で募金活動が開始された。また、全国からシンボル像のイメージデザインの一般公募が行われ、翌1980(昭和55)年9月には、像の名称について一般公募が行われた。 応募作品について北方領土運動関係者、鋳金の日展審査員など専門家を交えた審査が行われ、春山文典さんの作品が、最優秀賞に決定した。また、シンボル像の名称については大和雪生さんの「四島のかけ橋」という案が最優秀賞に選ばれた。 シンボル像は、翌1981(昭和56)年9月に竣工した。 また、シンボル像の建設にあわせて、附帯施設の工事が行われ、北方領土の返還を求める国民の強い決意をこめて返還実現のその日まで燃やし続ける「祈りの火」灯火台と、北方領土返還の願いを込めて全国の都道府県から寄せられた石で北方領土へ再び帰る道を表現した「希望の道」が作られた。 「祈りの火」の採火は、日本の人が住んでいる最南端に位置する波照間(はてるま)島で行なわれた。その9年前、1972(昭和47)年5月15日に祖国復帰を実現した、沖縄のときの思いを呼び起こしてのことだった。火は古式に則って採られ、全国縦断キャラバン隊の手で根室の地まで運ばれ、1981(昭和56)年9月、納沙布岬が大嵐の中で式典が行なわれ、その中で点火された。 爾来4半世紀を超え、根室市を中心とする関係者の努力で、返還実現のその日まで、北方領土返還の日を待ちながら灯し続けられている。 ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆ この「シンボル像」建設を実際に中心になって引っ張ったのは、わが師・末次一郎である。そして沖縄の祖国復帰に大きな足跡をのこした貢献者として、佐藤栄作首相(当時)や歴代の沖縄県知事をはじめとする関係者には高く評価されている。 1960年代末当時から私は末次とはさまざまな関わりがあったが、このシンボル像建設、波照間からのキャラバン隊の派遣などについては、「番頭」さん的な役割を担った。 波照間島まで行って全国を2コースに分かれて周ったのは、日本青年団協議会の山本信也(現在、日本青年館総務部長、協力隊を育てる会副会長ほか)、末次事務所書生の森高康行(現在、愛媛県議会議員、昨年3月まで都道府県議長会副会長、協力隊を育てる会監事)の両くんら。 私はさまざまな手配にかかわり、当時、丸の内にあった都庁前で鈴木俊一知事(当時)らと「祈りの火」を迎えるなどした。 火を沖縄から航空機で運ぶには、私の東京五輪組織委員会で働いた経験が役立った。ギリシャから各国を周って運ばれた小さな装置が、日本でのこの種の器具の濫觴だからだ。 納沙布岬には全国から集まった北方領土返還要求運動のリーダーたちと地元関係者など約500人が集まった。末次を中心とする政策研究集団・新樹会の各県幹部も参集した。 折からの台風で式典は中止かと思われたが、末次の決断は「断固決行。嵐を乗り越えてこそ北方領土の祖国復帰は実現する」。 根室のママさんコーラスグループの北方領土の歌や「ふるさと」が今でも耳に残っている。 私自身、波照間島を訪問したのは初めてであった。しかし、あの式典のときに波照間を思ったように、25年を超え、末次も既に鬼籍に入って6年の今回は、日本最南端の有人の島・波照間で北方領土を想起したのであった。 |







