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日露戦争と捕虜 E [2007年03月20日(Tue)]



 ジュネーブの赤十字国際委員会(CICR)博物館にある日本兵がロシアの傷ついた兵を救っている版画。




●厚遇されたロシア人捕虜

  日露戦争のときのロシア人捕虜は各地であたたかく迎えられた。一例として松山の収容所における捕虜厚遇の実例を挙げると次のようなものであった。
 
@ 捕虜は一等車で収容所に入り、市長は三等車で随伴
A 露国皇帝、フランス公使から贈り物
B 皇后(美子皇后、後の昭憲皇太后)、知事、軍人から義肢、義眼の贈り物
C 小中学生等への捕虜に接する心構えの教育
D 米西戦争米国看護婦会長マギー夫人、スイス人記者カタリーナ・シュトルツネッガー女史(1854〜1929)などの訪問
E 運動会、収容所講座、芝居などの主催や見物と県外旅行
F 温泉地や料理屋へのほとんど自由な出入り
G 充分な医療の提供
H 逃亡者への穏便な処分
I ロシア人ととかくそりが合わなかったユダヤ人、ポーランド人捕虜の分離収容
J 死亡捕虜の丁重な埋葬
K 大量の郵便物の受領と発送…

 シュトルツネッガーは、赤十字の創立者でありジュネーブ条約(1864)の推進者であるアンリ・デュナンの勧めで訪日した。スイスのいくつかの新聞社と契約していた。デュナンとは1899年、彼が晩年を送ったハイデン病院で知り合った。

 1901年、そのデュナンに第1回ノーベル平和賞が授与された。デュナンは佐野常民(日赤の創立者、但し、当時故人)や宮家などに宛てた計3通の紹介状を認めて託した。

 同記者は日本側の救護組織や日赤の活動を絶賛する報告をスイスに送り、4年後、デュナンに再会してさらに詳しく報告した。デュナンは赤十字の思想が、極東で着実に根付いていることを、ことのほか喜んだと伝えられている。

 日本側による捕虜の厚遇についてはバルチック艦隊の戦艦「オリョール号」の水兵ノビコフ・ブリボイの名作『ツシマ』(邦訳は、『バルチック艦隊の潰滅』上脇進訳)にも詳しい。

  (戦艦「朝日」の)舷梯にぴたりと着いて上甲板にのぼり始めたとき、背筋につうと悪寒が走った。日本人はわれわれにどんな待遇をするか、ということが頭から離れなかった。だが昨日の敵なるわれわれを見ると、さも嬉しそうに、にこにこしながら、「やあ、ロスケ、ロスケ…・・」と叫んだ。士官達は士官室へ、兵員は前部下甲板へ連れて行かれた。そしてすぐ、嗜む嗜まぬにかかわらず、紙卷き煙草を一袋ずつくれた。その後で、捕虜のために昼食が用意されたが、これはアメリカ製のコンビーフと白パンだった。日本人にこんな待遇を受けようとは、一人だって予期していなかった。

 プリボイはやがて熊本の収容所に入れられ、そこの通訳の妹と親しくなったりしたようだが、ほかにもロシア人捕虜と親しくなったり、結婚した例もある。金沢の俘虜収容所を舞台に染乃とイワーノフ少尉との美しい恋を描いた『朱鷺の墓』(五木寛之)のような話はあながち作者の想像力だけによる物語ではないのである。

 日本海海戦で大敗を喫したバルチック艦隊(太平洋第二艦隊)司令長官ツィノーウィ・ロジェストウェンスキー(1848〜1909)少将は、重傷を負って駆逐艦「漣(さざなみ)」に収容された。

 後にボーイスカウト日本連盟総長になった久留島秀三郎は「日露戦争の追想」(「東郷」一九六七年二月号所載)の中で、京都・東山にある天台宗門跡寺院・妙法院に収容されていたロジェストウェンスキー提督とネボガトフ少将等その幕僚たちとの出会いについて触れている。それによれば、同少将は幕僚たちと共に、薬屋でかつビールも売っていた久留島家に立ち寄り、ほとんど毎日、玄関の上り口でビールを飲んで行ったとのことだ。

 また、奈良の中川健太郎は「ロシア兵捕虜の墓」(「月刊百科」1972年10月号所載)で浜寺収容所付近の老人が「歌や言葉を教えたり、教えてもらったり、食事に招待したこともあった。ロシアの兵隊さんにお菓子やスープの作り方を習ったが、あれがスープをはじめて食べたときや……」と懐かしそうに話してくれたことを書いている。こうした捕虜との交流は各地で行われたが、捕虜による文化や技術移転となれば、後で触れる第一次世界大戦の際のドイツ人捕虜との間の例がよく知られている。

 もちろん、いかに遇しようと、捕虜側から不満も出された。
@ 旅順開城規約で許されながら収容所内で軍刀を領置したこと
A 日本家屋の不完全なること
B 外国人向け食料、特に肉、野菜やパンの値が高く品質が粗悪なこと
C 蚊が多いこと、
などであった。

 しかし、それも、たとえば神戸駐在のフランス副領事が実際に収容所で調査した結果、戦時下で牛肉不足にもかかわらず新鮮な牛肉を支給されていることは優遇である、と逆に捕虜たちの不心得を戒めたほどである(『松山収容所』)。

 当初は「陸戦法規」(第7条)に基づき日本軍の兵と同じ1日14銭9厘でまかなっていた捕虜のロシア軍の兵の食費が「内国人と慣習の異なる所あるを慮り」(「国際法雑誌」1905年三卷所載の当局者の談話)早くも開戦の年の7月1日には、日本兵が15銭であるのに対し、25銭に値上げし、さらに「正義人道を重んじ国士として鄭重に之を待遇」(同)しようとして、翌年には30銭にまで増額した。

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