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枝村大使のお祝辞 [2007年02月26日(Mon)]


   

 枝村純郎大使には、大使がまだ香港総領事だった頃から親しくご指導いただいている。その後、インドネシア、スペインの各大使を経て、駐ソ大使としてソ連崩壊に立会い、引き続き駐露大使となられた。ゴルチョフの回想録には、大使と大統領という関係を超えた親しさのなかで、大使がいろいろ奮闘している様子が描かれている。
 ユーラシア21研究所では去る1月10日の「日露関係徹底討論」にも終日ご参加いただき、お世話になった。





 2月19日に行なわれたユーラシア21研究所のオープニングには大使経験者が15人ほどお越しくださいましたが、代表して、元駐露大使である枝村純郎氏に乾杯のご発声をお願いしました。

 以下は、枝村純郎元駐ソ・駐露大使による乾杯のご発声前のスピーチです。


 ☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆〃☆


 皆様驚かれたと思います。中曽根さんという怪物、笹川さんというような、今の日本社会において亭々とそそり立つような大人物の後に、私のような普通の人間が乾杯の発声をするということは、本来あるべきことではないと思うのです。

 そんなわけで、私も吹浦さんにこれは場違いじゃないか、どなたかもっと立派な方が、たとえば塩川正十郎元財務大臣がお出でですし、そういう方にお願いすべきではないかと言ったのです。けれども、吹浦さんのお答えは「あなたは末次と一番長いつきあいがある、そのために乾杯を頼むんだ」とこうおっしゃいました。

 ですから申し訳ないのですけれども、おそらく司会の方は早く乾杯してほしいと思っているでしょうけれども、一言末次さんのことをお話したいのです。特に今日は奥様もお出でですから。

 末次さんと私は沖縄返還を一緒にやりました。一緒にといっても手を携えてではないのです。平行してやったのです。彼は民の立場で常に我々官の立場にある人間を批判しながら、しかし同じ方向に向かっていたということに確信を持っています。

 私は、末次という人はごろつきではないか、中野学校出の右翼ではないかと思っていましたが、そのうちつきあってみると、この人は大変な知識人であり、教養人であることがわかりました。ですから私は非常に彼に対して敬意を払っています。

 彼は趣味も豊かで、モスクワに行くと上からクレムリンの風景をスケッチしたのです。そのように芸術的な趣味もあったのです。やはり日本に今欠けているものは何かというと、これは教養であり、知識人です。今の内閣を見ていると、ひょっとしたら教養と哲学が足りないのではないか、私はそのことが一番心配です。

 そういうものを持ちながら国士であった末次、この存在は非常に大きかったと思っています。たとえば沖縄返還のときでも、枠組みを作るということが大切だったのです。その枠組み作りのために我々は必死に努力をしたのです。

 そしてやっと1969年の「佐藤・ニクソン合意」、これができたのです。皆様あれは「沖縄の本土並み復帰」と思っているかもしれませんが、「本土の沖縄並み」でもあったわけです。そういう枠組みができたから、後の返還交渉がうまくできたわけです。

 外国交渉のプロというのは、枠組みを作ることに誠心誠意、命をかけて努力するべきなのです。

 その前にちょこちょこと、奇をてらい、俗論に受けるために、学者だとか政治家がいろいろなことを言います。沖縄返還のときもそうでした。基地分離返還、教育権分離返還、そんなつまらない議論がありました。そんなものを佐藤さんが大津発言で一言のもとに退けられたのです。それで沖縄返還が実現したのです。

 このような枠組みを作ろうという努力を我々がやった結果が1993年の細川首相とエリツィン大統領による「東京宣言」なのです。このことを皆様性根に据えて、もう一度承知していただきたいのです。

 今また俗論がはびこっています。2島先行返還論でいいかげん我々は苦労しました。その後に今フィフティフィフティ論というのがあります。こんなものに論壇賞をやるという新聞があるということ、これは非常に悲しむべきです。中ロと日ロとは違うのです。

 これは外交のプロとして私は繰り返し申し上げますが、先ほど申し上げたように沖縄返還がどうしてできたのか、これは佐藤・ニクソン合意が1969年にできたからなのです。そういう基本的な合意の枠組みを作ることが大切なのです。

 それが日露間では「東京宣言」で、これは「佐藤・ニクソン合意」ほど完全なものではありませんが、その兆しができたのです。

 中ロの間には基本的な原則、枠組みがあります。何かといえば国際法の原則なのです。河川国境というものは、大きな流れの中央で決める、2つに流れが分かれていれば主要行路の真ん中で決める、という主要行路原則というものがあるのです。流れがはっきりしていないなら、あとは、ハバロフスク近郊のヘイシャーズ島であろうと、フィフティフィフティでわけようとそれでいいのです。これは技術的な解決の範疇なんだということをぜひわかってほしいのです。

 それを1993年の「東京宣言」でやっと法と正義の原則に基づいて、今まで日本とソ連、日本とロシアとの間にあった諸合意に基づいて、そして歴史と法的事実に立脚して解決しようとしているときに、中ロの関係と日ロの関係は違うときちっと言えるのは末次だったのです。

 末次は上にも阿らなかったけれど、下にも媚びなかったのです。今のとうとうたるポピュリズムとセンセイショナリズムの流れのなかにあって、これに抗する勢力こそ結集しなければならないのです。ひとりの命は大切だ、そのために命をささげた人は大切だ、立派だ、偉い。しかし、1億2千万の国民全体のことを考えるのが官邸だと私は思っています。

 ポピュリズムとセンセイショナリズムの大きな流れに抗する、そのことこそ今政治の責任であり、それを支えるのが知識層の責任なのです。インテリゲンチャとはそういうものなのです。そのひとつの拠点として、笹川会長のお気持ちで今回、吹浦さんをトップにユーラシア21研究所が発足されたのです。

 末次は本当の知識人でして、律せられている国士であるというのが皆様が思っていることかもしれませんが、私が尊敬している彼は知識人であり、教養人であったのです。だから相手も彼を尊敬し、信頼したのです。

 知識人はときどき趣味をもつのです。モスクワ河畔から描いたクレムリンでのスケッチもすばらしいものでした。

 吹浦さんは芸術面では師匠を越え、紀尾井町ホールで3月26日にバリトンの歌手としてお金をとるんですよ、プロの歌手としてデビューするのです。趣味人としても師を越えようとしているのです。

 この吹浦さんがユーラシア21研究所を始められて、このことの意義は非常に大きいと思います。乾杯の辞を超えて大変余計なことを申しましたが、では乾杯しましょう。

 それでは、吹浦さんの知識人、教養人のパイオニアとしてのご活動をお祈りし、その拠点、城として笹川会長がくださったこのユーラシア21研究所を皆様でサポートしてまいりましょう。そういう気持ちを込めて乾杯しましょう。ご唱和ください。乾杯!
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