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マリー・アントワネット [2007年02月12日(月)]



 キルスティン・ダンスト扮する、映画のマリー・アントワネット





 歴史上の人物としての肖像画




 3連休、急な予定の変更で空いた時間ができ、気休めに映画「マリー・アントワネット」(ソフィア・コッポラ監督)を見た。主演のキルスティン・ダンストは魅力タップリであったが、結論から言うと、別段お勧めというほどの映画ではなかった。

 それにしても早々に満席、マリー・アントワネットという人の魅力か。

 失礼ながら、この人物について日本人の平均的な知識は、@オーストリアのハプスブルク家から政略結婚でフランスのルイ16世に嫁いだ人、A国民の窮乏を他所に贅沢な宮廷生活を送り、B「パンが食べられないならケーキを食べればいいじゃないの」の名?セリフをはき、C最後はギロチンの露と消えた、といったところではないだろうか。

 私は一応、大学院では西洋政治史(松本馨教授)を専攻したので、当時の知識はほとんど失ったが、多少、彼女を振り返ってみたい。

 1755年11月2日に生まれ、93年10月16日に処刑された。かのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1756年1月27日の生まれであるから、マリー・アントワネットはその2ヵ月ほど前に生まれたことになる。そして、モーツアルトが91年12月5日に亡くなっているので、マリー・アントワネットのほうが2年長くこの世にいたわけだ。全く同時代の人と言っていい。

 ついでに音楽との関係を言うなら、ウィーン時代には作曲家グルックからハープやクラヴサンの指導を受け、結構、弾きこなしたと伝えられている。

 1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿でブルボン王家の皇太子ルイとの華燭の典を挙げたときは、まだ14歳。マリー・アントーニアは正式に、フランス王妃マリー・アントワネットとなった。

 1774年に即位したルイ16世は映画でも描かれているような凡庸な王様だったようだ。

 1789年7月14日のバスティーユ牢獄の襲撃は、実際には3人しか囚人がいなかったと伝えられているが、それでも、絶対王権に対する民衆の反抗として画期的な事件であった。貴族たちは相次いで地方や隣国に亡命し、イミグレと呼ばれた。92年4月、周辺諸国は第1回対仏同盟戦争を開始し、フランスの社会秩序の復帰を策した。

 ルイ16世と王妃マリー・アントワネットは6歳の次男ルイ・シャルル(長男、長女は幼時に死亡)とともにチュイルリ宮殿に移っていたが、民衆により宮殿が襲撃され、王権が停止された。一家は王妃が通じていたスエーデンのフェルゼン大佐の力を借り、実家であり、兄レオポルド2世が治めるオーストリアの支援を得ようと、6月20日、パリを脱出する。

 首尾よく国境地帯まで行くことが出来たが、ヴァレンヌで捕捉され、身元が発覚してチュイルリ宮殿に連れ戻されててしまった。国王が国を捨てたことに対する支持者たちを含む国民の失望、周辺諸国の侵入の事態を迎え、革命派の義勇兵はパリ市民と共に一家をタンプル塔に幽閉した。

 幽閉生活は約一年半に及んだが、93年1月21日、ルイ16世は革命派による裁判で死刑に処せられた。10ヵ月後、今度は、マリー・アントワネットがギロチンで処断された。

 王太子ルイ・シャルルはどうなったか。

 何説かあって判然としないところだ。ウィキペディアは、「ジャコバン派の靴屋シモンに引き取られぞんざいな扱いを受けたという」と紹介しているが、私はこの説を採らない。「コンシェルジュリー監獄で処刑された」ことになっているからだ。が、看守が「自らの子」まらは「浮浪児」と差し替えて救い出したという説を、松本教授から聞いたことがある。この先生は、ケンブリッジ、ソルボンヌ、ハイデルベルクを出たという人で、著書や論文は皆無に近いが、その時代にヨーロッパにいたかのように18世紀以降を語ることのできる人だった。

 ウィキペディアは「パンがなければ・・・」については、以下のように明快に説明してくれている。

 日本では(この説を)未だに信じている人間が多い。原文は“Qu'ils mangent de la brioche”、直訳すると「彼らにはブリオッシュを食べさせなさい」となる。お菓子ではなくケーキまたはクロワッサンと言ったという変形もある。なおクロワッサンは、彼女がオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えられたという伝説(もともとはオーストリアがトルコ軍を破ったことからトルコの国旗の三日月の形をしたパンを作った話に基づく・・・吹浦注)がある。

 しかし、これはマリー・アントワネット自身の言葉ではない。ルソーの『告白』(1766年頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、“家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えた”ことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。

 アルフォンス・カーは、1843年に出版した『悪女たち』の中で、執筆の際にはこの発言は既にマリー・アントワネットのものとして流布していたが、1760年出版のある本に「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとして紹介されていると書いている。

 これは勉強させていただきました。


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コメント
☆様へ

 ありがとうございます。「ベルばら」は早急に全巻を読みたいのですが、同じレベル(少女の物語)であれば、私も史実を損ねる、ないしは部分だけを強調するということを好みませんので、飽きてしまうかもしれませんね。これでも私は歴史としてきちんと勉強したいほうですから。
Posted by: 吹浦忠正  at 2007年02月13日(火) 17:39

吹浦様

ぜひとも、マンガ「ベルサイユのばら」をご一読ください(^.^)

多くの日本人のマリー・アントワネットに関する知識は「ベルサイユのばら」に拠るところが大きいのではないかと思います。
「ベルサイユのばら」は、女性の生き方を描いた作品です。
したがって、ソフィア・コッポラ監督の描く少女達たちの世界と成長を描いたと思われる映画「マリー・アントワネット」は、(カンヌのプレス試写ではブーイングが起こったらしいですけど)ベルばらで育った日本人には、それほど違和感はないのでは?と思われます。

私は少女達の気持ちを描いた映画として、結構、楽しく観ました。
ちなみに、この映画はソフィア・コッポラ監督の少女の"自分探し”三部作の最終章に位置づけられるとのことです。

(ソフィア・コッポラインタビュー)
http://movies.yahoo.co.jp/interview/200612/interview_20061228001.html
Posted by: ☆  at 2007年02月13日(火) 12:33