• もっと見る
«五輪閉会式からのひらめき | Main | 天から降ってきた言葉»
<< 2014年04月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
カテゴリアーカイブ
月別アーカイブ
巧まざる演出で感動 [2006年11月29日(Wed)]




 喜納は自著『すべての人の心に花を』(双葉社)で、「16歳(高校三年生)だった僕が、大好きなカツ丼を食べるのを忘れて、食い入るように見つめた東京オリンピック閉会式の映像。平和の象徴である祭典に導かれ、僕はここまで歩いてきたのかもしれない」と書いている。

 1964(昭和39)年10月10日の開会式からの2週間が夢のように過ぎた。その間、中国が初の核実験を行い、東京五輪を侮辱したことを私は忘れない。

 あの日、10月24日、東京オリンピックの閉会式が代々木の国立競技場で行われた。既にあたりは暗くなっていた。まず、『公式報告書』で、閉会式について確かめよう。
 
 天皇陛下がロイヤルボックスにご臨席になり、君が代が演奏された。午後5時、参加各国の旗手がプラカードに従って入場し、フィールド中央に整列した。続いて競技を終了した開放感と大会に参加した喜びに満ちあふれた各国選手は洪水のようないきおいで、しかも無邪気になごやかな雰囲気のうちに入場、チームの区別なく入り混じって整列を終わった。

 閉会式の入場行進については関係の記述がこれしかないことに、私は正直、唖然とした。この記述では「あの感動」はほとんど伝わってこない。

 当時、私は早稲田の学生だったが、日本では数少ない国旗の専門家として組織委式典課に迎えられていた。その後も長野五輪やサッカーW杯でも国旗づくりに大きく関わったが、話を戻すと、これは42年前、1964(昭和39)年の話。

 開会式同様、閉会式でも万一に備え、予備の国旗を全部揃えて、メインスタンドの前にいた。国名を書いたプラカードと国旗とが間違いないかを確認するわけだが、とりわけ、アルファベット順で最後に入場するザンビアが、開会式とは違った旗で入場するのをこの目で確かめることに神経を集中していた。

 その日の早朝、選手村のザンビア選手団の宿舎に「独立おめでとう」と言いながら新国旗を届けたことも脳裏によぎった。

 そのザンビアのプラカードと旗手が入場し、最後に開催国日本の旗手・小野喬(体操。小野清子現参議院議員の夫)が入場した直後、各国の選手たちが一丸となって入り混じり、互いに手を握り、肩を叩き、抱き合い、踊りながら入場してきた。そして、早速、日本とザンビアの旗手を肩車にして担ぎ上げた。

 開会式では秒単位の狂いも起きないよう、進行表をにらみつつ懸命な指揮を務めた松戸節三式典課長以下だったが、閉会式では、対立する米ソ両大国をはじめ選手たちが交じり合うだろうか、日本の選手たちは生真面目に手を振るだけの行進になりはしまいかなどと不安だった。

 ところが、この巧まざる和合と親善の効果に嬉し涙が止まらず、まさに、「泣きなさい 笑いなさい」の心境で肩の荷を下ろしたのであった。

 喜納昌吉は『すべての人の心に花を』で書いている。

  カクテル光線に浮かび上がる万国旗。国立競技場を埋め尽くす満員の観衆の前で、さまざまな国の選手が平和の祭典の成功を喜び、ある者は抱き合って感動に涙し、ある者は肩を組んで笑顔を見せている。国境を超え、人種を超えた人々が、平和の祭典のオリンピックのフィナーレにふさわしく、大きな渦となってスタジアムの空気を完全に震わせていた。アナウンサーが叫ぶ。「泣いています…。笑っています…」。その場面を見て僕の目から涙がほとばしり出た。…この感動は僕の心にダイレクトに突き刺さってきた。

 中国や東南アジアを始め、世界的に愛唱されている『花』の誕生物語の始まりである。
コメントする
コメント
東京五輪組織委の最年少職員(当時)として、みなさんにいろいろお伝えして行きたいと思います。
Posted by: 吹浦忠正  at 2006年11月30日(Thu) 15:44

東京オリンピツクの閉会式は、本当に感動的でした。その舞台裏進行の詳細がわかって、感慨深いものがあります。
Posted by: 志村建世  at 2006年11月30日(Thu) 14:34