土井晩翠が想定した城 [2006年11月01日(水)]
![]() 「荒城の月」の作詞者はいうまでもなく、土井晩翠(1871〜1952)。この土井をどう読むかが、難しいところ。 正しくは、作詞者としては「ドイ」晩翠、本名は土井(ツチイ)林吉である。 仙台で生まれ、旧制第二高等中学(後の二高)卒業までを仙台で過ごした。その後、東京帝国大学に学び、1899(明治32)年、詩集『天地有情』を発表し好評を博した。『荒城の月』はその中の一つ。 晩翠愛好者の多くはほかに『三国演義』に題材を取った『星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふううごじょうげん)』を秀作として挙げる。日頃、ロシアや台湾の問題でお世話になっている外交評論家の澤英武さんは二高の出身、断然、『星落・・・』がいいと激賞される。 晩翠は、1901(明治34)年から04年にかけてイギリスなどヨーロッパを訪ね、帰国後、二高(現・東北大学)の教授などの任にあった。したがって、青葉城(別名・仙台城)の焼失も直接、見たであろうし、その後の荒れ果てた青葉山の姿も知っているはずだ。 詩作にあたり晩翠は仙台の青葉城址と会津若松の鶴ヶ城址から詩想を得たといわれている。 いうまでもなく青葉城は仙台・62万石の居城。JR仙台駅西口からバスで20分ほどに位置する。標高120mの丘とはいえ、かなりの断崖の山上と言っていい。 『青葉城恋唄』(星野船一作詞、さとう宗幸作曲)で、青葉城は一層、有名になり、歌手・さとう宗幸はこの一曲で「全国区」となった。 明治維新で最後まで抵抗した奥羽越列藩同盟の盟主でもあった伊達藩の城であっただけに、規模といい、防塁の堅固さといい、往時は天下の要害であったと思われる。青葉城の本丸は、五つのを土塀と土塁で結び、詰門、茜門、埋門、切通し門を配していた。 維新後、桃山書院づくりの御殿など主要な建物が取り壊され、1884(明治17)年には火災で大半を焼失し、まさに荒城となった。 青葉城資料展示場で、コンピュータグラフィックによる城の復元図を見ても、この城には天守閣がない。徳川家の意向を慮ってという説明は真実であろう。 同じ東北でも、わが故郷・秋田の佐竹家は関が原の戦いで徳川方に組みしなかったため、地代に比べ3分の1の21万石に減らされ、当時、未開ともいうべき秋田(久保田)の地に追いやられ、天守閣どころか、石垣の構築さえ認められなかった。 転封以来の屈辱が語られ続けた佐竹藩は、維新期、いち早く奥羽越列藩同盟を離脱し、周辺の各藩から城下まで迫られた。もはやこれまでという間際に、薩摩からの救援部隊が来着し、活路を見出した。その時に円滑に話が通じず、謡と筆談で苦労したという話は、戦前の国定教科書で語られていた。「だから共通語(標準語)の普及が大事だ」という話である。 全国制覇を果たした徳川幕府が東日本きっての雄藩である伊達藩にまず、ハードの面で恭順の意を示させたのは当然であろう。 今ではすっかり整備され、仙台を睥睨(へいげい)するかのような政宗の騎馬像もあれば墓所もある。 次のカラオケの機会には、『青葉城恋唄』での挑戦しようかな。晩翠の思いの片鱗でも思い浮かべつつ。 |





