千の風になってJ[2008年04月14日(月)]
週末、NPO法人レジリエンスのグリーフケア講座に東京に出向くための準備をしている。
20分でグリーフケアの取組みだけを語ることは容易なことかもしれない。
しかし、「なぜグリーフケアなのか」を自問自答したとき、自らのグリーフワークに目を向けずしてグリーフケアを語ることに疑問を感じる。
自らの当事者性を語ることぬきに、ケアを語ることはできないであろう。
おそらく「支援者中心、支援ボランティア中心の被害者支援」に対して当初から抱いていた違和感・嫌悪感が、現在日増しに強くなっていることとも関係しているかもしれない。
支援者の顔をして「被害者支援」を声高に語る善意の無神経な人たちには、被害者のことを一生かかっても理解はできないであろう。
グリーフワークは自ら主体的に行うものである。
事件・事故などによる理不尽な突然の死は、その主体性すら根こそぎにしてしまうため、主権の回復を一人で行うことは容易なことではない。
手をさしのべる支援でなくとも、そばにいてくれるだけでも心強いことがある。
天童荒太の「永遠の仔」で、うずくまる優希の肩越しにジラフとモウルの声が聞こえるシーンが思い浮かぶ。
「生きてていいんだよ」「ぼくたちここにいるよ」というメッセージ。
それゆえに、そうした時間をともに過ごした大切な人を失うことは、過去の記憶をすっぽり失うようで、8か月を経過しても、空虚感がときどき襲ってくる。





