<ノンフィクション>めぐみへの遺言[2012年04月24日(Tue)]
私の身近に、北朝鮮の拉致問題解決を常々、強く願っている人がいます。
その人の影響もあってか、私も関心を持ってはいますが、正直、日々の生活に忙殺され(と言い訳し)、何かのきっかけがあると思いだしたりしています。この本は、その身近な人へ贈りたいと思い、本屋で手に取りましたが、つい先に読んでしまいました。
1977年に横田めぐみさんが突然消えてから、
その20年後に北朝鮮に拉致されたことを知ってから、
今まで、国に、社会に、拉致家族の返還を訴えてきましたが、
その過程は私には想像もできないものだったと思います。
限られた情報しか入手できず、日本政府もなかなか動かない中、
希望と絶望に翻弄されてきた二人の姿が、本書にはリアルに書いていました。
この本を読んで、私が新聞やインターネット、テレビなどのメディアを通して知っていたことは、
本当に問題の一部であるということ、あるいは本当の問題に光を当てていないことを、少しは知ることができました。
「知っていることと、知らないことは雲泥の差」と言いますが、
「知っているつもりになっていることと、本当に知っていること」
は全く次元が違うものであることを改めて感じました。
早紀江さんの言葉で印象的だったものを引用させて頂きます。
『でもまたすぐに忘れられる。そういう風潮が世の中にはあります。何かもう消えてしまって終わりって、そういうことを繰り返していたら、それは何をやってももうダメじゃないかなって思ってしまいます、私も国民の皆さんも。』
『今の子供たちは、バーっと文字が出てきて映像が出てきて、何でもパッパッと見えているけど、それらはすぐに流れて消えていってる。そういうのではなくて、言葉は、人だけしか喋れない、人間しかいろんなことを表現できない。その言葉で相手のお話を聴きながら、ピンポンみたいに話し合うことで、人の心はしみじみとしたものが出てきて、互いに通じ合えるんです。
日本に生まれて人間に生まれて、価値があることは言葉を使うことではないかと思うのです。
それが大切にされていない・・・』
東日本大震災の被災者のことや、原発問題で苦しんでいる人たちのこともそうですが、
人々の関心が薄れ、
その出来事が風化され、
忘れ去られること、
が一番残酷なことなのかもしれません。
同じ一日を、同じ24時間を過ごしているのに、置かれている状況は全く違います。
世の不条理さを嘆くだけでなく、
前に進むために、忘れないために、言葉を発していかないといけないんですね。