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唐桑と戦争@〜当時の声〜 [2015年09月16日(Wed)]

安保法制が大詰めを迎えているタイミングだからという訳ではないが、戦後70年について。
この夏、唐桑中学校の阿部先生のおかげで私は「唐桑と戦争」というテーマに初めて触れることとなった。
都市部では焼夷弾による空襲が多かったが、地方は主に機銃掃射によるピンポイントな攻撃を受けることになる。
以下、唐桑のとあるじいちゃんからご自宅にて空襲(機銃掃射)について伺ったときのセリフを、そのまま文字おこししたものである。
ここにも戦争があった。

---

毎日逃げる準備はしてんのよ。

陽あたって、このようなときは、外にはね、人がいても、絶対出ねぇんだ。
ところがあそこ、馬、おらい(家)で飼ってたから、
おれのじいさんは、“みの”で−藁でつくった−、それを着て、草刈りすんのよ。
馬さ(草を)食わさなけりゃわかんねぇから。

んで「おれは死んでも何しても、生き物は、かせなくてわかんねぇ(餌を食わせないといけない)」って(言って)、
(空襲で)おらが逃げているときにも…
…あれさ、ここでなく、あっちに逃げたときだなぁ…
上のそこのところで、機銃掃射(で)(中井)小学校がやられたとき、ここ(が)やられたような音(が)した訳だ。

ほでぁ、ばあさんが「もう、ずんつぁま(じいさま)やられてしまったなぁ」って。
ほで涙流しながら、山をあがって、そこさ来て見た訳だ。
ほしたれば、「なんだが動いてんのいるなぁ」と思ったっけ、
(じいさんが)着てた“みの”をこう着て、こうして(かがんで)すくだまっていたった。動かないで。
んで「ずんつぁま生きてたぞー」って(ばあさんが叫んだ)。

動くもの(が)あったらもう皆やられんだもの。
猫でも。猫でも撃たれたってたんだから。犬だの。

―Q:どうやって攻撃してくる?
なぁにや、艦載機だから、飛んであるいて、まわってるうちに、
銃が…見たものはなんでも、銃を下げて撃ってきたのさ。ばばばばっと。
だから、こういうとこ(陸地)を撃つよりも、水さ撃てば一列に弾がずーっといって(水面に走るのがよく分かる)。

んだから、絶対逃れられなかった。
んだから、動いてる姿は絶対見せられねかったのよ。

---

8月19日、唐桑中学校と協力して、テーマ型まち歩きを実施した。

つづく
(次の記事はコチラ
からくわワークキャンプ「maru-camp」はじまる〜プロローグ〜 [2015年09月05日(Sat)]

2011年2月20日、日記にこんなことを書いている。
「ワークキャンプは、マイノリティ、マジョリティ、国家といった
 (意味のない)カテゴリーを越えた次元で、
 てっとりばやく強固な連帯意識を生むシステムなのです。
 とか、いってみた。」

その4年前のこと。

---

2008年2月頭、中国・広州。
大学1年生18歳の冬で、2度目の中国ワークキャンプに臨む直前だった。

「リョウタロウさん、これはどういう意味スか?」
原田燎太郎氏のアパートに転がり込んだ私となべサン。
壁にかかった大きな掛け軸に目をやる。堂々とした漢字が2行に渡りずらりと並ぶ。
中国語は読めない。

「走進工作営
 天下一家親」

聞いたのは、なんとなしの興味本位だった。

「World as one family by Work camp…
“ワークキャンプが世界をひとつの家族にする”。

亮輔らと考えた。
ちょっとクサいんだけどね…」
「たいらん」こと原田燎太郎氏が照れ笑いしながら答える。

なんじゃこりゃ。
静かにびりびりと身体に電気が走るのが分かる。
むわっとした排ガスと熱気を纏う広州の、決してキレイとは言えない灰色のアパートの、こざっぱりした一室に「世界」を謳った掛け軸がある。

かっこいい。
他に理由はなく、魂が震えた。
「リョウタロウさん、おれ、中東に興味があって。
中東でもいつかワークキャンプできますかね」

「お〜。じゃあたくまが卒業するまでに下見に行くか」
それから4年間、私は「ワークキャンプ」の魅力、もとい魔力に取り込まれていく。

---

2011年2月末、中国・広州。
大学4年生21歳の冬。
「俺と一緒にワークキャンプをやってください」
ホテルの廊下で膝をついた。

恩師・西尾雄志氏が広州に行くと聞き、それに先輩・郭晃彰氏が同行すると聞き、私も同行することにした。
「西尾さん、たいらん、郭くんと一晩飲む」それは(たとえ貧乏が過ぎようとも)航空券5万円を借金してでも行く価値があった。
エジプトで失敗し、リャオじいを亡くし、内定先の会社に通う日々を送る私は、焦っていた。
3月で卒業だ。このまま迫り来る波に呑まれるのか。

たいらんと郭くんの初顔合わせだった。
西尾さんが弟のように可愛がるのがたいらんだった。彼の中国でのワークキャンプ活動を東京から支援し続けていた。
一方、西尾さんが早稲田の教え子の中で「二人の天才」と呼ぶ内のひとりが、この郭晃彰だった。「学生なのに大人への対応・巻き込み方がズバ抜けている」と評した。
郭くんは学生時代、薬害エイズ問題と向き合い、イベント屋として活躍した。この時はテレビマン1年目。

ワークキャンプ屋とイベント屋は、根っこにある想いを共有するとすぐ共鳴し始めた。
手法として、現場力に長け発信力に飢えるワークキャンプ屋と、発信力に長け現場力に飢えるイベント屋。
がっしり2人は握手した。
歴史的な出逢いだ、と私は嬉々として杯を重ねた。

IMG_0022.JPG

昼間っから飲み始め、転々と店を変え、最後はホテルで飲んだ。
大学時代4年間とてつもなく影響を受けた3人が、目の前でこれからの連携について話し合っている。こんなにわくわくする光景はない。
同時にいよいよ焦りを隠せない。
「オレは、また西尾さんにバカにされて、スネてた。
 どうも、この3人の前だとやはり気がひける」
と当時の日記に記してある。相変わらず、酔って西尾さんにまた食い掛かっていた。
そんな最中だったと思う。

このまま就職しても、俺はいずれ退職してワークキャンプをやるために海外に出る。
「仕事」としてワークキャンプを運営して、広めていきたい。
「World as one family」のために。
その夢のためには、このひとつ年上の郭晃彰が必要だ。
「エジプトの失敗」は、もうしない。
この人の鋭い批判力と求心力があれば、2人でその夢を実現できる。

そう確信した。
ホテルの部屋に戻るため、よたよた郭くんと二人廊下を歩いているとき、私は郭くんを呼び止めた。
「おれと一緒にワークキャンプをやってください」
そう言い放った記憶が、酔いもまわり、定かではないが、ある。
ただ、暴発しそうなエネルギーだけは確実に、あった。

その翌月のことだった。東日本大震災。
そして3月12日、私の人生を変えたメールが郭晃彰から来た。

---

それから4年と半年。
2015年8月、気仙沼・唐桑。
ついに、私たちmaru-officeはワークキャンプを唐桑で開催した。

つづく