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3月17日 拓イベント [2012年03月14日(Wed)]

◆参加者大募集!!
『水俣に学ぶ地元学のすゝめ 加藤拓馬 活動報告会』
  ★3/17(土) 15:00〜17:30
  ★早稲田大学11号館701教室
  ★参加無料
  ★拓プロジェクト主催 http://hiraku-project.net/



◆開催に寄せて
宮城県気仙沼市唐桑町
加藤拓馬があの日襲った大津波で地区の半分が壊滅した町に飛び込んで一年
復旧・復興を手伝う中で見えてきたのは、唐桑が被災前から抱える課題でした。
それは唐桑や東北ばかりでなく、東京から見た地方が背負わされているものです。

「被災地」復興のための「町づくり」ではなく、
「唐桑」復興のための「唐桑づくり」に、加藤拓馬は取り組みます。

そのヒントを提供してくれるゲストスピーカーとして、
「地元学」で公害の町・水俣の再生を主導した吉本哲郎さんをお招きします。

「ないものねだりではなく、あるものを探せ」
地域に埋もれがちな「当たり前にあるもの」を資源として活用することで、
水俣復興の仕掛け人となった吉本さんに、
自身の哲学とも言える「地元学のすゝめ」をご講演頂きます。

父と子以上に年が離れたふたりが織り成す「復興への希望」
皆さまのご参加をお待ちしております。初参加の方も大歓迎です。



◆講演者プロフィール
吉本哲郎(地元学ネットワーク主宰)
1948年、水俣生まれ。1971年に宮崎大学農学部を卒業後、水俣市役所に入所。都市計画課・企画課・環境対策課・水俣病資料館館長を歴任し、2008年退職。水俣病受難の水俣を環境都市としてよみがえる取り組みを主導。その経験から、自分たちで調べ、考え、創造していく「地元学」を提唱。昨年、日経ビジネスは功績を称え「地方から未来を変える変革者」として「次世代を創る百人」に吉本を選出した。著書に「地元学をはじめよう」など。

加藤拓馬(FIWC唐桑キャンプ現地駐在員)
1989年、兵庫県生まれ。幼少期に阪神淡路大震災を経験。早大進学後、中国広東省のハンセン病快復村での活動に従事する。「ワークキャンプでアジア、そして世界を結ぶ」を命題に掲げ、単身エジプトの快復村に飛び込んだ経験を持つ。震災直後、宮城県気仙沼市唐桑町に移住。瓦礫撤去のために、民間のボランティアセンターを立ち上げ、復旧・復興活動に関わる。現在はボランティアの受け入れ、コミュニティ雑誌の発行などを通して「唐桑づくり」に尽力(ブログ「遠東記」blog.canpan.info/entoki/)

学生サークル・唐桑応援隊アシタカ
 日本財団学生ボランティアセンター(Gakuvo)が派遣する震災ボランティアプロジェクトに参加した学生有志により先月結成。「よそもの・わかもの・ばかもの」を意識して、唐桑づくりのお手伝いを目的に活動中。東京での活動にも精力的に取り組む方針で、今月末には都内のチャリティーフリーマーケットに出店予定。



◆申し込みとお問い合わせ
当日参加も大歓迎ですが、事前にご連絡頂ける場合は、
件名に「講演会申し込み」
本文に「氏名・読み仮名」と「メールアドレス」を明記した上、
拓プロジェクト事務局(担当:郭)までご連絡ください。
  Tel:090-2521-1987
  mail:teruaki07@gmail.com
  HP:hiraku-project.net



◆カンパのお願い
加藤拓馬の唐桑での活動、拓〜加藤拓馬を支える会の活動にご賛同頂ける方は、
以下の口座にカンパのお振込をお願いします。
ゆうちょ銀行 店名008店番008 記号10050
普通貯金4495032『拓〜加藤拓馬を支える会』 *拓は『ヒラク』と読みます。



平成24年3月3日更新(郭)
2012年3月11日 [2012年03月12日(Mon)]


2011年3月11日。

静岡県御殿場。数名の仲間で卒業旅行に来ていた。
遅めの昼食のため「ドライブイン白雪」に入る。いいカンジの店見つけた。
ポツンと一人の白雪姫が座っている。時間のせいかお客はいない。
着座してメニューを見る。白雪姫と談笑。
14時46分。
「あれ、停電。ブレーカー落ちましたね」
腰の曲がった白雪姫は棒を持ち出して、ブレーカーを突こうとする。「手が届かないからねぇ」
「ちょっと棒貸して」白雪姫に寄る。
あ、ゆれてる。こりゃ大きいな。
「あ母さん、出ましょう」
室内は危ない。
白雪姫もとい83歳で店をやっているお婆ちゃんの手を引き、外へ出た。
富士山がどんと眼前に広がる。
すると、アスファルトの道路がうねり始めた。まっすぐ立ってられない。白雪姫を囲み円になり抱き合った。
仲間は半パニック状態。
「窓から離れよう」
私の脳裏に阪神・淡路大震災が蘇る。「あぁ、ついにまた大地震とやらが来たか」
逆に冷静な自分がいた。東京もんより、幼いころから「地震」との距離が近い環境で育ったせいか。
何か楽しいことでも始まるようだった。

震源は?
宮城?
また東北か。気の毒やなぁ…


2012年3月11日14時46分。
サイレンが止む。眼を開けた。
宮城県気仙沼市唐桑町鮪立(しびたち)地区。
周りの漁師さんたちは、鼻をすする。眼を拭く。「1年経ったなぁ」

私は夢から醒めたようだった。
1周年の黙とうでは泣くと思ってた。実際黙とうしている間は、祈りを捧げた後、ちょうど1年前を思い出していた。
すると、1年前は唐桑のかの字も知らなかった自分がいた。
冷めた。涙なんて出ない。私はたんぽぽの綿毛。また風が吹けば飛んでいく身。

あれ、なんで唐桑にいるんだったっけ?

何かよく分かんねぇ。

---

鮪立。
IMG_1121.jpg


その日。
3112.JPG


そして海が燃える。
3113.JPG


そして時が経ち…
IMG_2036.jpg


1年を迎えた。キャンドルが包む鮪立。
3111.JPG


Facebookで地元の人がコメントをくれた。

「あの日あったのは、全てを焼き尽くす業火。今夜あったのは、静かで暖かな鎮魂と癒やしの灯火。
心の中にも、故郷を愛する灯りを点して。

関係者の方々、お疲れさまでした。
ありがとうございます。」

その夜は、じいじ、カジさん、ベッチと4人でこっそり杯を交わした。
この3人、地元の人だが震災前は特に接点のなかった3人だ。
涙なんて出なかった。
「このメンツで呑んでるって不思議だよな」
「この日、こうやって吞めてよかった」
「これからが楽しみになってきたな」
じいじとカジさんとベッチがそう言ってくれたから。

あれ、なんで唐桑にいるんだったっけ?

さぁ、なんかの縁でしょ。そんなもんさ。
転機 [2012年03月07日(Wed)]

現地が変わっていく。

ここ数日、寒さが一気に和らいだ。
みんなに春を想わせる。気温が10度近くまで上がる。

この冬は特に寒い冬だったそうで、一番の問題として、仮設住宅の水道管凍結が頻発した。
建設時はマイナス3度までを想定していたそうだが、この冬はマイナス9度近くまで下がったので、当然の結果といえば当然。
当初、仮設住宅は夏の暑さを凌ぐことが急務だった。むき出しの柱は熱を持ち過ぎて、まぁ部屋の中はとんでもない暑さだった。
しかし、ある人は言う。「夏の湿気対策で、仮設の床下を風通しのいい状態にした。でも結局、それが裏目に出た。風通しのいい床下を走る水道管は冬風をもろに受けた」
凍結を避けるため、水道管を熱線で温め、床下の空いた隙間にブルーシートを張るはめになった。それでも、風あたりが強い仮設は、タンクの中から凍ってしまうことも。もうどうしようもない。
どこに問い合わせるの?解凍工事は自費?
そんな混乱に陥った。
水が一切出ないのだ。震災直後を思い出した人も少なくないはずだ。

まぁ、仮設が完成した当初から言われていたことでもある。
「こんなむき出しの水道管、冬になったらやばいぞ」

---

1月末は、ひとつの大きな転機となった。
ひとつ。宿浦のガレキ仮置き場が閉鎖。
これで唐桑には、残すところ後1カ所となった。

いろいろと感慨深い。我々ガレキ撤去屋にとって、ガレキを集積する仮置き場は特別な場所だ。
宿浦の仮置き場がオープンした当初から、毎日毎日軽トラで往復してガレキを運びこんだ。
ゴールデンウィークには、お菓子の花子の前のガレキの山を少しずつ分別して、自分たちも荷台に飛び乗り、ガレキを捨てに行った。
「ガレキ」でなく、「家」であり「家具」であり「おもちゃ」であり、「生活」である。でもそんなこともマヒして、無心に捨てた。捨てて捨てて捨てて。
宿浦にはあっと言う間に、ガレキの丘が出来た。まぁなんとも不思議な丘で。
木材の丘、瓦の丘、ガラスの丘、家電の丘…

気づけば宿浦に建物はなくなり、丘だけが残った。
冬になるとその丘が雪で真っ白くなった。
地盤沈下で浸水した宿浦には、氷が張った。

仮置き場が閉鎖することで、今からその丘の解体が始まる。ひとつ役目を終えた宿浦。

---

ひとつ。ガレキ撤去の緊急雇用対策が終わった。
漁師さんたちが浜のガレキ撤去や共同アンカーづくりに従事すると、日当1万2千円が出るというもの。
しかし地盤沈下の影響で、午後2時以降は海水が上がり浜での作業は不可能となる。半日で1万2千円はどう考えても高すぎる、正規雇用での労働意欲を削ぐだけだ、などなどの批判も飛び交った。今だからこそギリギリ書けること。
しかし、いざ終わってみると、自分まで不安になる。
「今日から正真正銘無給だ」と嘆く人。本当にきつい。ここからが勝負になってきた。

---

ひとつ。町民体育館の写真展示が終わった。
唐桑の町民体育館は、まず遺体安置所となり、その後は写真などガレキの中から見つかった思い出の品の収集・展示場所となった。
いろんな人がそこへ遺品を探しに来たし、大量の写真洗浄ボランティアが入った。潮にまみれた写真の保護、データに変換するなどのプロジェクトも立ち上がった。
そこが閉鎖することとなった。

---

2月に入ってからも、大きな変化があった。
養殖わかめの出荷が始まったのだ。
これらのわかめは震災後に種づけしたもので、養殖業者は震災後初めての本業での収入となった。
どれほど画期的な一歩か。
一方、震災後に種づけしたホタテ、カキの成長が今ものすごく早い。夏に出荷予定のホタテが、夏前には出せるかもしれない。
なぜか。主な理由は2つ。
ひとつは、津波が海をかき回したから。海底の栄養分を一気にかき上げた今回の津波。
過去の津波でも同じだった。「津波の次の年は豊作なんだ」と昔を知る人は言う。
もうひとつは、養殖の数が減ったから。養殖のいかだが減った分、ひとつひとつに栄養が行き渡るのだ。

私は見たことがないのだが、震災前、唐桑の海はカキのいかだで海が埋め尽くされていたとか。
「海も疲弊してたのさ。ぎっしり農作物を畑に植え続けると、土も疲弊するだろ?」
津波は海を元気するという結果も引き起こすのだ。自然の営みには、本当に敵わない。
しかし一方で、流れ出た大量の油が海底に敷き詰められているのも事実だが。

徐々に変わっていく。
人の感情も然り。
国昭さんが言う。「こっちの冬は厳しい分、これから春になると人の気持ちも上を向く」

もうすぐ震災から1年。
今が大きな転機だ。捕まえるも逃すも、人次第だ。