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さようなら2011年。 [2011年12月31日(Sat)]

2011年の遠東記はこれにて終わります。
本当に、1年間お世話になりました。
ありがとうございました。

2011年は、世界にとって忘れられない年になりました。
世界史、日本史、共にこの1年は深く長く語り継がれていくでしょう。
そんな歴史の変動期に生きていることを誇りに思います。

来年以降も、唐桑に滞在することを決意しました。
今まで以上に、地元の方々含む仲間たちにお世話になると思いますが、
どうぞよろしくお願いします。

「あけましておめでとう」とは言えない正月がもうすぐやってきます。
でも、2013年には「おめでとう」と言えるよう、来年も引き続き謙虚に地道に活動していきたいです。

では、また2012年に。

加藤拓馬
震災が憎い [2011年12月31日(Sat)]

あれはいつだったか。
我らが拠点のプレハブでお別れ会が開かれた。

避難所で仲良くなった小学生のタイヨウとそのお母さんは、中国へ一時引っ越すことになった。お母さんの実家が中国だからだ。父親は唐桑に残る。
お別れ会では、そのお母さんが餃子を振るまってくれた。ウチのメンバーや、子どもキャンプのゴリさん、地元の仲のいい人たちが集まる。餃子がとにかく美味かった。

「元気でな。帰ってこいよ」
みんなで見送る。寂しいのはトムやコウセイ…タイヨウの友だちだ。避難所生活から今まで、震災からずっと一緒だったのだ。

涙が出そうになる。タイヨウは1年で帰ってくる予定なのだが、何故かもう帰ってこない気がした。
自分がそうだったから。神戸を思い出していた。

---

1995年1月17日、阪神・淡路大震災。
東灘区は震度7。ウチはアパートだった。
私は起きなかった。そのため、地震のトラウマは残らなかった。寝起きが悪いのはこの頃からだったようだ。
でも夢の中で、姫路のおばあちゃんにしがみついていた気がする。

起きて「今日、幼稚園ないん?」と母親に聞いたらしい。「あるわけないやないの!」と母親。未だに笑い話として残っている。
隣の部屋でそろそろ一人で寝なさいと母親に言われていた気がする。その部屋が震災の日、タンスで潰れていた。地震のとき、両親は必死に僕ら兄弟に布団をかけて守ってくれたらしい。一緒に寝ていてよかった。

記憶というのは断片的だ。
リビングは悲惨だった。食器という食器が散乱し、電子レンジは揺れでぶっ飛んでた気がする。歩ける状態でなかったので、父親が玄関から靴を持ってきてくれた。畳の寝室の前に、靴が置かれた。家の中に靴。それが不思議だった。

1月17日は余震が続くので、一家で車中泊だった。狭かった。
姫路のじいちゃんは、すぐに車で神戸を目指したらしい。
自衛隊のお風呂は楽しかった。公園がお祭りのようだったから。

幼なじみの統くんが住んでいたマンションは、ヒビだらけだった。X字のヒビが各階に刻まれた白いマンション。半地下の駐車場は、半壊状態だった気がする。
お隣の一軒家はぺしゃんこになり、確か花束が置いてあった気がする。道路に風呂のタイルが散らばっていたっけ。
近所の公園付近の家もことごとく壊れていた気がする。父親と自転車に乗る練習をした小さな公園だった。家がそのまま道路にぬっと飛び出し、道路をふさいでいた。魚崎幼稚園へ通園する道だった。

記憶はこれくらいしかない。被災風景の記憶があるのみで、何をしただとかは覚えてない。それほど、被災風景がショックだったのかもしれない。

大震災が起きてまもなく、私は母親の実家に移った。姫路だった。
すぐに、姫路の英賀保幼稚園に転園した。
父親は勤め先が大阪だったので神戸のアパートに残った。

近所の仲よし友だちも、統くんも、ことごとく神戸を離れた。
ばらばらになった。

姫路のじいちゃんばあちゃんが大好きだったので、姫路での生活は楽しかった気がする。
姫路は震度4か5で、被害は少なかった。
新しい幼稚園の園庭でみんなに囲まれて、震災の話をした記憶がある。ヒーロー気分だった。

小学生になった。
神戸の友だちとはその後、会うことはほとんどなかった。統くんに会いに、垂水だったっけ、母親と行った記憶がある。しんちゃんやともちゃんにも会ったっけ。確かお互い成長して、別人みたいになってて、距離を感じた気がする。

父親が単身赴任状態だったので、神戸に何度も通った。明石海峡大橋ができていく様子を電車から見ながら。大きな橋だった。
弟を連れて、2人だけで神戸に行けるようになった。姫路と三ノ宮で乗り換えればいいのだ。新快速から各停に乗り換える。成長したなぁと小学生ながらに思った。
小学校で姫路の播州弁を覚えて帰ると、家で母親に「そんな汚い言葉使わんとき!」と怒られた。それほど、自他共に認めるほど、播州弁は汚い。笑

神戸の街はどんどんキレイになっていった。新しい建物が建った。ウチのアパートの部屋は、父親がキレイに改造した。震災のとき寝ていた畳の部屋は、フローリングになった。黒ぶちの多角形の時計だけは一緒だった気がする。
でも、なぜか受け入れられない。自分の知っている魚崎でなくなった。
よく母親と通った公園もすっかり変わってしまった。かわい公園だったっけ。仮設住宅が建ってた気がする。それが不気味だったことも覚えている。ここには、どんな人が住んでいるんだろう。検討もつかない。
そもそもすぐに姫路に移った自分には、仮設が何なのかすら分からない。

両親の仲は悪くなっていった。神戸で母親が泣くのも見た。父親が憎かったし、怖かった。
母親の涙は、幼い子どもからすれば恐怖でしかない。世界が終わるのではないか、と思うほど怖くなる。いつも気丈で、いつも一緒にいる母親がぐらぐらと揺れているのだ。

何年か後、父親が姫路に引っ越してきた。両親の仲はよくなった、と子どもながらにそう思った。
中学生になった。休日は父とキャッチボールをした。それが嬉しかった。
ここではっきりしたことがある。あれらは震災のせいだったんだ。震災を憎んだ。

震災が本当にばらばらにするのは町や家屋ではない。
友だちとばらばらになった。家族がばらばらになった。
本当の故郷は神戸だったのに、想い出と自分もばらばらになった。震災が憎い。
地震のトラウマは残らなかったけど、別の何かでトラウマは残った。

---

タイヨウの友だちはどんな気持ちなんだろう。仲の良かったトムは、お別れ会の後、声を殺して泣いていたらしい。
あぁ、なんで震災は友だちを奪い去ってしまうんだ。幼いタイヨウやトムが何をしたというのか。

後日、ハロウィンパーティーでトムやコウセイと話す。
「避難所の方がよかったよな」
なんで?
「みんなと遊べたもん」
仮設では遊べないの?
「うーん。あんまり」

タイヨウやトムやコウセイ、ナツ、リク…名前を挙げるときりがないが、避難所の高松園でキャッチボールをしていたのは遠い昔のことのようだ。

もうすぐ年が明ける。
風化していいものと、風化しちゃいけないものがある。
続・夢のコミュニティ誌(秋のまとめシリーズ5) [2011年12月27日(Tue)]

つづき

10月26日、ある地元の人と電話をする。
地元のママたちが久々に集まって話したことを教えてくれた。
被災地の生々しい現状だった。

「今日を生きるのに精いっぱいなのに、将来(さき)のことなんて考えられない」
地元の人の本音だ。将来の復興はやはりどこかリアリティがない。
「でも、唐桑を魅力的な町にしたいっていう気持ちもある」

次に、震災後仙台に移った友人が、家を新築し、生活を一から再開しているという話を聞く。
「唐桑にいたらやっぱり遅いのかなって。外に出た方が早いのかな」
家屋の基礎だけが残り、すっかり殺風景となってしまった被災地。地盤沈下が激しく、新築などとてもじゃないができない。復興計画も不明確だ。
「(住む場所として)唐桑にこだわる必要はないんじゃない?って皆で話した」
それを黙って聞く。
一方で、やっぱり唐桑で暮らしたい想いもあるが、ママたちの現実は重い。葛藤が続いている。
…ごめんね、勝手に書いちゃって。でも、これが本当に伝わりづらいけど伝えなきゃならないリアルだと思った…

唐桑から人がいなくなる。とっさにそう感じた。

KECKARAの1ページ目は、ポエムっぽいメッセージにしようと考えていた。
この雑誌の主旨が伝わるような。
この電話で、KECKARAの意義が固まった。

この電話と、あの畠山新聞が語る「夢のような話」がリンクした。
(参照記事:「高台移転と新聞屋さん」
こんな文章を書いた。

---

今日を生きるのに精いっぱいな私たちへ
夢みてぇな話、語っぺし。

「たまにゃ夢みてぇな話(はなす)すねぇすか?」ある唐桑の新聞屋は集金をしながら住民にそう語る。もし、宿浦がかさ上げされて…もし、舞根が高台移転して…そしたらまた皆でここに住めるねぇ。

今は「もし」かもしれない。「万が一」かもしれない。でも、イマ唐桑に必要なのは、もしもの夢物語だ。どんな偉業も、奇跡も、復興も、夢物語から始まる。それを信じるかどうかは置いておいて、ついでに自分ががんばるかどうかも置いておいて、とりあえず夢を描きたい。バカでいい。復興を考える際に、すぐさまカネや世間体に頭がいくのはオトナの悪い癖だ。

「今日を生きるのに精いっぱい」は疲労漂うセリフだけど、「精いっぱい今日を生きる」は明日へつながる。もしもの夢物語は、そんな気持ちの逆転を起こすかもしれない。

いつか私たちの子どもが大人になって誇らしげに微笑み言う。
「ふるさとは唐桑です。親たちがゼロから立ち上げた町です」
そんな夢がある。


やっぱり唐桑で暮らしたい私たちへ
KECKARA けっから。はじめました。

復興について熱く語る人を集めました。将来を担う子どもたちに聞きました。
「復興への期待」を少しでも膨らませる「KECKARAけっから。」はじめました。

KECKARAけっから。編集部

---

押し付けがましくならないように、あえて1人称複数「私たち」を使った。実際、この言葉は地元の人から聞いた言葉たちを繋げたものだ。
方言のチェックを入れたのは、馬場さん。

唐桑の情報を唐桑に発信する超ローカルをコンセプトにした雑誌。
そのテーマ、目的を次のように決めた。

---

テーマ「復興への期待」

目的1.前向きになれる話題の提供
地元の人がなんとなくする立ち話・飲み会の話題は、「被災した過去・現在への愚痴」ばかり。この雑誌の内容を話題に「復興への期待」話を少しでも増やしたい。

目的2.唐桑の想いをつなぐ
現在、唐桑では地区ごとの意識の差、仮設住宅と在宅の意識のギャップが課題。
地区や境遇は違えども、復興に対する意見・想いが似通っている人たちがいる。その人たちが雑誌を通してつながる機会を生もう。

目的3.唐桑の再発見
以上を通して、唐桑の人に唐桑の魅力を再発見してもらおう。
そして、今後ますます加速するであろう人口流出を少しでも食い止める役割を果たしたい。

---

春からの唐桑現地駐在員として、収集した情報の全てを詰め込んだつもり。
我ながら、それが詰まっている気がした。

11月20日には、「予告編」として簡単なプレビュー誌を発行することとなった。
本誌の発行が間に合わなかったからだ。

やるからにはアマチュア感を出したくない。デザインはプロにお願いしよう。
そこで、堀之内ジェイに依頼した。彼はそれを引き受けてくれた。

1人目のインタビューは、菅野一代さん。一度、遠東記でも紹介した。
(参照記事:「ツナカン物語」「続・ツナカン物語」
「ピックアップ唐桑人(からっと)」というコーナーで、魅力あふれる同じ地元人を紹介して、元気になってもらおうというもの。

その時々に唐桑にいるFIWCのメンバーと、打ち合わせが重ねられる。
特に、亮太と老ちゃんが協力してくれる。

表紙は人物がいいか、風景がいいか。
人物だと、インパクトはあるが、その人物のカラーが付いてしまう。風景だと、無色だがインパクトに欠ける。
じゃあ、間をとって人物の絵にしよう。そうだ、「子どもの描いた唐桑の絵」にしよう。

ジェイには、ああだのこうだの注文を付けまくる。私は自分の納得のいくデザインじゃないと、許せない性格。が、私の注文以上にジェイのデザインは美しかった。

こうして11月20日を迎えた。
復興感謝祭を見に来たFIWCのメンバー、カジさん、ベッチが配布を手伝ってくれた。

KECKARAはこうして唐桑に、出た。

夢のコミュニティ誌(秋のまとめシリーズ4) [2011年12月26日(Mon)]

9月下旬に上京して、活動報告、講演、会社訪問、そして兵庫の実家に一時帰省、それを1週間強で済ました。

東京で、相方の郭晃彰に本を紹介される。「今のお前にはコレだ!」
それを読みながら新幹線で唐桑へ向かった。
著・山崎亮『コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる』という本。各地で町づくりのサポートをしてきた著者の活動紹介だった。
その一つに登場した地元紹介用の冊子。外部からの学生がその地元の魅力を探り、紹介するというものだった。外部の学生がすることによって、地元の人が普段気付かない魅力を発掘できる。それを地元の人と共同作業でやる。

「ほぅ。フリーペーパーか。これならできるかな」

早速10月1日、企画書を書いてメンバーに見せる。
「地図はやめた。雑誌にする」
地図よりもやっぱり文章の方が、より繊細に唐桑の夢を描くことができる。
当初のタイトルは「からくわ未来予想図」を改良して「からくわ未来予報誌」。

実は、唐桑の魅力を紹介する冊子は「まちづくりカンパニー」がやっていたこと。それは前の記事で紹介した。(参照記事:「伝説のカンパニー」
考えれば考えるほど、これだ!と思った。これなら、雑誌で高台移転のことを紹介して「モチベーションの維持」というサポートができる。それぞれの地区のことを紹介して、高台移転の横のつながりができるかもしれない。
唐桑の魅力的な人物を紹介して、少しでも「震災のグチ」から「前向きになれる話題」を増やしていきたい。
復興に欠かせないのは子どもたち。子どもたちを取り上げて、より斬新で率直な復興への意見を聞き出そう…
そんなコンテンツ案がぽんぽんっと出てきた。

年末が活動の終わりだと見定めていたので、年内に2回ほど発行することを目標にした。
最初の発行は、11月20日。

例年、唐桑では「カキ祭り」というカキのPR祭りがあった。しかし、今年はカキが流されて無い。そこで地元の実行委員が代替イベントとして「復興感謝祭」を企画していた。それが11月20日だった。
それに合せて配布しよう。

---

亮太に「ねぇ、なんかいい雑誌のタイトルない?」と相談する。「からくわ」の「から」を入れたいよねぇ。「ピリから」?「激から」?
10月4日。体調を崩して、休んだ。
ぼーっとしながら風呂に入る。「…から、けっから…けっから!」
「“けっから”にします!」風呂から上がって、宣言。
「けっから?」

「けっから」は「あげるから、くれるから」という意。こっちでは、「くれる」が「ける」に縮まる。
無料で配るフリーペーパーにふさわしいタイトルだ。
「これ、タダでけっから読んでけらいん〜」お風呂の神様がいたー。

なんせ形から入らないとやる気の起きない性分。タイトルがまず重要。
「KEKKARA」…「kk」は英語表記では「ck」になるらしい。それじゃ、「KECKARA」か。

こうして、「からくわ未来予報誌KECKARAけっから。」が誕生した。
編集会議を繰り返すようになる。

つづく
からくわ未来予想図(秋のまとめシリーズ3) [2011年12月23日(Fri)]

本日晴天ナレドモ風メッチャ寒イ。

もう少し、秋のことを思い出して書いていく。秋のまとめシリーズ3弾。

---

畠山新聞は朝仕事を終え、私の部屋に寄っていく。
「たくまー、畠山さん来たよ」亮太の声で目覚める。
「7時か。ひゃー、新聞屋は早ぇなぁ」とかぼやきながら部屋を出ると、本人が眼の前にいるもんだから、笑ってごまかす。
そして高台移転の話を聞く。聞けば聞くほど、地権や道路建設が絡んでくる。

いよいよ私も取り憑かれ、「大沢と舞根2区はいわば唐桑の薩摩と長州や。ここが結びつかんと唐桑は一つにならんねん」とかメンバーにくどくど語る。事実、両区は昔、唐桑水源問題で揉めている。
「幕府は市役所よ。うん。天皇は何か分かる?“予算”や。結局、予算の奪い合いになるで。だからこそ薩長は…」
亮太はこの私の意味不明な幕末トークにぽかんとしている。
そんな晩夏だった。

同時に、いちボランティアの私ができることなど一つもないという非力感に満ち満ちてきた。
私はせいぜい情報を集めて、プレハブでイジイジしているだけだ。

---

「地図を描こう」
次なる思い付きだった。9月6日に「からくわ未来予想図プロジェクト」という企画書を書く。
キーワードは「復興の可視化」。
結局私は高台移転にハマった(参加した)ところで、3、40年唐桑にいる覚悟はない。だったら、どんなサポートができる?

大沢集団移転の期成同盟会会長がこう言ったことがある。「移転計画が実現するまでの間、地元住民の意識を冷めさせず、気持ちを引っ張り続けなければならない」これが課題だと。
同時に大沢では「模型復元 記憶の街ワークショップ」というプロジェクトが外部の学生によって行われていた。(私の解釈で勝手に説明すると、)被災前の大沢の町を発泡スチロールの模型で再現し、町づくりをよりリアリティにイメージしてもらうというものだ。

ここから、ヒントを得た。
「高台移転と言っても、地権の話ばかりでリアリティがない。もっと現実味の帯びた将来図をイメージしてもらえば、老若男女、誰でも復興へのモチベーションが上がるはず」

モチベーションを上げることが、私にできるサポートだ。そのために、よりミクロな視点で、よりリアルな10年後の唐桑の地図を描く。そして、それをポスターにして、仮設に貼って回ろう。そしたらいつでも誰でも見れるし、いつまでも気持ちを持ち続けられる。そう考えた。

そこで、声をかけた男がいる。
堀之内ジェイ。日系アメリカ人で、Gakuvo(日本財団学生ボランティアセンター)の現地引率スタッフである。Gakuvoの学生を引き連れ、春から唐桑を出たり入ったりしていた。彼の本職はデザイナー・絵描き。
彼に、地図を描いてもらおう。彼も快く引き受けてくれた。

試しに自分で描いてみよう。自分のノートに、宿浦舞根、小原木3区の絵を描く。

しかし、難しいもんだ。ここに住宅地、ここは工場。ここの山は切り崩す。ここの道路はこう通る…
う〜ん、何をどう描いても、誰かしらから突っ込まれるぞ。ここの地主は誰だろう。ここの住民は本当にこれを望んでいるのか…

ミクロさとリアリティを求めれば求めるほど、非現実な作業になっていった。

「ダメだこりゃ」公開できるもんじゃねぇ。
悶々としながら、一度上京することとなった。
伝説のカンパニー(秋のまとめシリーズ2) [2011年12月16日(Fri)]

「若いヤツらで何かできるんだ。それを年寄に見せてやろう」

佐藤元町長(唐桑町最後の町長)が言う。ここから始まった。

---

9月も近付き、すっかり夏が退いたころ、馬場さんから興味深い話を聞く。
「臨海劇場」という劇場、そして「まちづくりカンパニー」という会社の話だ。

そこで、佐藤元町長のところへ亮太と話を聞きに行った。「昔のことを語るのが最近イヤになってきた」と言われつつ、喫茶GIGIでいろいろと語ってくれる。

20数年前、バブル末期。私が生まれたころ。唐桑で「遠洋漁業がダメになりつつある」時期。
自分たちの町を見直すために、唐桑の若手が立ち上がった。
その名も「臨海劇場」。小鯖の港で、大漁旗を縫い合わせテントをつくり、そこで劇を披露した。テーマは漁。200〜300人が集まり、年配の方は昔の唐桑の漁を思い出し、涙を流したという。
そこで主役を演じていたのが、なんと馬場さん。
盛況だった臨海劇場を数年やった後、実行委員は、夏だけのイベントという一過性でない形を模索した。

こうして誕生したのが、「まちづくりカンパニー」。唐桑の町興しを目指す会社だ。今で言う町づくり系NPOに当たるのだが、当時はNPOという概念がなかったため、株式会社とした。
非常に先駆的な活動としか言いようがない。それが唐桑にあった。
しかも、そこにハマって(参加して)いたのが、馬場さん、GIGIのマスター、元町長などなど、現在唐桑では超有名人ばかり。

事業は唐桑の海産物を主としたPR。「お魚クラブ」では仙台まで唐桑の魚を配達した。魚のおろし方講習もやった。「唐桑○○マップ」なる冊子を作成し、唐桑の魅力、浜、技、人物…をそれぞれ紹介した。その他、唐桑のPRを数多くやった。

ゴールは?と聞く。
「競争でない町づくり」と佐藤さんは答える。「日本全国が競争すればどうなるよ」
「ウチはウチ、個人個人でなく、町全体をよくするという意識が町づくりには欠かせない」

しかし、数年で採算が合わなくなってしまったカンパニーは、結局解散する。
「町全体を巻き込んでやれば、もっとよくなっていただろう。商工会とはつながっていたが、行政とはつながっていなかった」と反省を語る。

「発信しか頭になかった。でもこれは“求心”だ」

詳しく調べて、またじっくり紹介したい。来年のタスクだ。

---

カンパニーは知る人ぞ知る、唐桑の伝説。どの人に聞いても、懐かしそうに、どこか楽しげに話してくれる。
「じいじ(馬場さん)、一緒にもう一度カンパニーやりませんか。」
この株式会社という発想、実はNPOブームを越え、近年注目を浴びている「ソーシャル・ビジネス」に近い。
「いやもう、俺らは一線を退いた人間だから」と馬場さんに断られる。

でも、そこに馬場さんの夢があった気がしてならない。
いや、ここに「何か」…唐桑のすばらしき復興のキーとなる「何か」が絶対隠されているはずだ。

20年前と今とで、断然に違うのは、インターネット。それを使えば、まちづくりカンパニーが為し得なかったことが可能になるかもしれない。

そんなことを考えながら、秋になった。
同時に高台移転の話も進む。
10月になり、みっぽとみなみが帰り、残ったオレと亮太は最後の「ガレキ撤去作業」調整の日々へと突っ込む。
ワセェダ [2011年12月15日(Thu)]

久々に、唐桑の小学校1年生ハッチと話す。
一度、このブログにも4月に登場している。(参照記事:「ごーって」

「ねー、大学どこ行ってるの?」
「もう卒業したんだよー」

「どこ行ってたの?」
「早稲田。」

「えー、忘れたの?」
「?」

くくっとお父さんが笑う。
「忘れた」が「忘ぇだ(ワセェダ)」「ワセダ」になまった、と誤解したらしい。
大笑いした。

あれから8ヶ月。ハッチもヒッカも目に見えて大きくなった。

お父さんが息子2人を見ながら言う。
「唐桑の外の人とつながりができるなんて、こいつら幸せだよな。財産になるだろう」
ハンセン病と津波・原発 [2011年12月14日(Wed)]

私のこの活動を語る上で必要不可欠なもの、それは「ハンセン病」だ。

「らい菌」による感染症なのだが、その菌の毒性は極めて弱く、故に感染経路すらはっきりしてない皮膚病だ。それにも関らず、世界中で、紀元前から忌み嫌われてきた病だ。
近年になり、ようやくその治療法が発見された。人類にとって大きな発見だった。
しかし回復した今なお、差別と偏見が続く。

特に近代日本における差別は劣悪だった。国が扇動する形で、患者だけでなく患者の親類までをも徹底的に社会から排除した。旧称「らい病」は今は差別用語である。
人類はその歴史を知る責任がある。おおげさに書いているようだが、こんな言葉では足りない。

詳しくは後々覚悟が決まったタイミングで書いていく。

この「遠東記」というタイトルにも、「唐桑」にも深く関わる。

---

先日、ハンセン病首都圏市民の会に参加してきた。
そこに、あるハンセン病回復者が震災後4月に発した言葉を知った。

「ある日突然、家を失い、家族を失い、友人を失い、故郷を失う…。

状況は違うが、すべて私が体験したこと。

あの人たちの悲しみは、私の悲しみだ。」

(四月 ハンセン病交流集会にて 回復者)

(引用:酒井義一氏作成資料 2011.12.11より)

---

同じだった。
繰り返す。くるくる、くるくると。
壁を越え世界を広げる方法 2011年12月19日@日本財団ビル [2011年12月08日(Thu)]

12月19日に、大先輩方とイベントに出席することになりました。
ぞくぞくするようなゲストばかりです。是非、申し込んで、足を運んでください。

---

壁を越え世界を広げる方法 2011年12月19日@日本財団ビル


日本財団への寄付者の皆さまへの報告会も兼ねた今回のイベントでは、前半に日本財団「夢の貯金箱」で支援した団体による活動紹介、後半にはトークライブ「壁を越えあなたの世界を広げる方法」を行います。

 ゲストとしては、
中国ハンセン病回復者村で活躍するNGO「家−JIA」原田遼太郎氏
JIAを支えるNGO「橋―qiao」を卒業して現在、気仙沼の被災地にてフレンズ国際ワークキャンプ(FIWC)唐桑キャンプで活躍する加藤拓馬氏
ハンセン病回復者組織IDEAジャパンの理事長で「JIA」にも「唐桑キャンプ」にも駆け付けた森元美代治氏
被災地支援のために学生ボランティアを送り出した日本財団学生ボランティアセンター長西尾雄志氏
をお招きする予定です。

 JIA、唐桑キャンプの成功事例を通して、国境の壁、言葉の壁、地域性の壁を越え、人々の中に自ら飛び込み、社会に役立つ生き方について参加者と共に考えます。是非、ご参加ください。

 ※情報保障が必要な場合は、申込フォーム「メッセージ」欄に明記してください。
 ※イベント終了後、懇親会を開催しますので、ご自由にご参加くださいませ。


詳細・申込みはコチラから。
http://kokucheese.com/event/index/23093/

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ゲストの一人、原田燎太郎のブログです。どうぞ。
猪突盲進 https://blog.canpan.info/tynoon/




「ハンセン病首都圏市民の会」年末恒例! リレー・トーク&望年会 [2011年12月08日(Thu)]

12月11日のイベントのお知らせです。
全生園に足を運ぶ機会はなかなかないと思いますので、是非是非、この機にどうぞ。
(私を除いて)貴重なお話が聞けます。

以下、詳細。

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「ハンセン病首都圏市民の会」年末恒例!
リレー・トーク&望年会

リレー・トークのテーマは,「ハンセン病国賠裁判勝訴から10年」「東日本大震災」です。
リレー・トーク(14:00〜16:00)
スピーカー
 テーマ1
「国賠訴訟勝訴から10年――わたしたちが築いたもの,これからの課題」
○神美知宏(こう・みちひろ)さん/全国ハンセン病療養所入所者協議会会長
○森元美代治(もりもと・みよじ)さん/IDEAジャパン理事長

 テーマ2
「ハンセン病問題の学びから東日本大震災の支援活動へ」
○加藤拓馬(かとう・たくま)さん/FIWC唐桑キャンプ現地駐在員
○酒井義一(さかい・よしかず)さん/首都圏市民の会・
      真宗大谷派ボランティア東京チーフ
後半は,「望年会」もありますよ。旧交を温めたり,ちがう世代の人との出会いを楽しんだり……。事務局では,温かい汁物を準備する予定。参加者のみなさんからの「一品もちより」大歓迎です!

2011年12月11日(日)午後2時〜(「望年会」は4時頃から)
場 所:多磨全生園「福祉会館」にて
参加費:「リレー・トーク」は無料。
「望年会」は,一般の方1,000円,学生の方500円をお願いします。
「ハンセン病首都圏市民の会」事務局
担当:黒坂愛衣(くろさか・あい) oae2000@hotmail.com
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