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雑草よ [2011年08月28日(Sun)]

人が何千年もかけて知恵を絞り、造り上げてきたものが、この世にはたくさんあり、
その集大成が一つの町となる。
そこに人は住み、人らしさを自問自答しながら生きる。

それがある日突然、ぱっと消える。

町も人も。

ナウシカも、未来少年コナンも、そんな始まりだった気がする。

そこに何が残るのか。想像の世界だった。
が、今目の前にそれが広がる。

泣きたくなるような、笑いたくなるような、それは醜なのか、美なのか、死なのか、生なのか。

今、津波が去った町には雑草がびっしり生えている。
人が造った残骸の間を縫うように、雑草が生い茂る。
何を意味するのだろう。

皮肉にも見える。雑草が人をあざ笑うように背を競っている。
同時に、人を励ますように、生の強さを必死にアピールしているようにも見える。

海が澄んできた。
底にはまだ油がびっしり積もっている。ガレキも然り。
だが、その上を小魚の群れが踊るように泳ぐ。

人はどうするのだろう。

眩しすぎるくらい真っ青な野原がどこまでも続く。ここに町があった。人が死んだ。
雑草よ、この光景を前に何を想えというのか。



補足・松圃虎舞 [2011年08月27日(Sat)]

つづき

こんな記事を見つけたので、補足として写す。


松圃虎舞

大太鼓、しめ太鼓が勇ましく打ち鳴らされ、笛の囃しが響き渡る中、15メートルものはしごのてっぺんで、虎が自由自在に舞い踊る。ブランコ下がり、猿こ下がりの大演技…。

言い伝えは、250年前にさか上る。松圃の漁船が戻らないため家族が御崎神社に祈願したところ、虎猫が現われる。この猫が山門の松の上で沖を眺めていると、男衆は無事帰ってきたのだという。人々は虎猫は神の使いであるとして、虎猫を御崎神社に奉納したのがはじまりと伝えられる。

勇敢な太鼓の音は、あたかも漁船を呼び戻すかのように力強い響きである。

(『'88唐桑臨海劇場』より)


この「臨海劇場」の名を覚えていてほしい。
いずれまた登場する名だ。
松圃虎舞 [2011年08月25日(Thu)]

花堂監督に連れられ、松圃(まつばたけ)地区の太鼓の練習を見学する。
それが、そもそもの始まりだった。7月8日のこと。

松圃虎舞。虎が舞い、そのバックで太鼓を鳴らす。唐桑の伝統芸能の一つ。
松圃は、被災の少ない地区で太鼓などは無事だった。



お母さんや中学生以上が大太鼓を、小学生らが小太鼓を叩く。ベテランのお父さん、お母さんは笛を吹く。

---

故郷の英賀保(姫路市)を思い出す。
小学生時代から、毎年、播州の秋祭りの前は必ず太鼓の練習に通った。
屋台(やたい・やっさ)には、大太鼓を中心に4人の叩き手(内2人はブイさし)が乗り、英賀神社を目指す。他町の屋台と練り合う。英賀神社の宮入、宮中、宮出の乗り子が花形だった。
関東の神輿のようなものだが、オレらから言わすとあれはオモチャのようなものだ。迫力はあんなものじゃない。
太鼓の練習には、必ず町内の恐いおっさんが指導役でいて、いつも練習はびくびくだったが、楽しかった。

---

「人の話は聞くぅ!」
先生役のお父さんが大声を出す。わらわらと雑談する子供たちがぴたっと前を向く。
懐かしさがこみ上げる。
私は誰よりも太鼓の音が好きだ。音が心の臓を揺らす。

練習は、火曜と金曜の夜7時から。
いつの間にか、毎週通うようになった。最初は脇で見様見真似で手を動かす。バチが置いてあったので、バチをとる。
そのうち、地元のおばちゃんが、後ろから「ハマってきな(一緒に叩いておいで)」と背中を押す。手前の小太鼓が空いていたので、申し訳なさそうに入っていく。心の中は大興奮だ。

7月末になった。
虎舞は、半造の星祭りと只越荘の祭りに出演が決まっていた。
星祭りには行けないが、30日の只越荘の祭りには行ける。
その前日の練習だった。「お兄さんも出るでしょ?衣装合わせるから、こっち来て」
お母さんに声をかけられる。

小太鼓に「お兄さん」とシールが貼ってあった。



心躍る。その日、夜2時まで拠点(プレハブ)で練習する。なかなか覚えるのが大変。
当日。小太鼓の衣装。
身長差で逆にもう目立つ目立つ。小学生の中に交じっているので当然だ。




只越荘の祭りが無事終わり、8月13日の「がんばっつぉー唐桑・夏祭り」が近づいてきた。
松圃虎舞保存会の会長に、出演依頼を提出する。

さよと一緒に練習に行き続ける。

---

私の小太鼓には先生がいた。私の前でいつも叩いている小学生。リズムをとるのが上手い。
彼を見ながら、練習した。が、なかなかシャイボーイであまり話したことはなかった。幼稚園児の弟も小太鼓を叩いている。顔はそっくり。

彼が今回、津波で母親を亡くしたことを知ったのは、だいぶ後のことだった。

あの日、「幼稚園に息子を迎えに行く」と言って唐桑に戻ってきた彼の母親は、周りが止めるのを聞かずに、唐桑の入口、只越で消息を絶った。

---

8月の上旬、練習に人があまりいなかったため、空いていた大太鼓を叩き始める。
最初は、全くコミュニケーションがなかったお父さんたちとも、徐々に話せるようになった。
行ったり行かなかったりではダメだ。練習は皆勤じゃないと。それが功を奏した。
休憩時間には、あれやこれやとお父さんたちに囲まれ個人レッスンを受ける。
「覚えがいいねぇ、若いねぇ」
「お兄さん」から「加藤くん」になった。

特に熱心に教えてくれた梶原さんが満面の笑みで語る。
「何が嬉しいって、興味をもってくれたことだ。そこが一番嬉しい」
「当日は、虎が梯子を登る様子を見ててくれ。命綱なんてないよ。あれは逆に邪魔なんだ」
虎舞について、あれこれと話を聞かせてくれる。

大昔、漁に出た船がいつまで経っても帰ってこなかった。
皆で無事帰還を祈願していたとき、不意に虎に似た猫が姿を現す。その後、船が帰ってきた。そんな伝説が虎舞の始まり。

気仙沼では太鼓が盛んで、毎年気仙沼漁港である港まつりでは、各地区が太鼓を持ち寄り、海岸に太鼓1000台並べて一斉に叩くと言う。信じがたいので、一度見てみたい。残念ながら今年はない。

---

「がんばっつぉー唐桑・夏祭り」がいよいよ近づく。
虎舞の梯子を積む4トントラックの手配、当日の配置などなどを練習後に一緒に打ち合わせする。

いつの間にか大太鼓としての出演が決まっていた。
「おめでとう!次は大太鼓だ」と梶原さん。
「大太鼓に早々と昇格ねぇ」とお母さんたちにイジられる。
大太鼓は大変だ。覚える量が多い。体力も使う。汗がだらだら出る。

練習後の個人レッスンは9時まで続く。
「自信をもって叩け!俺の音を聞けと言わんばかりに叩け。
ひと打ちひと打ちに魂を込めるんだ」
徒然なるままにリーダー論 [2011年08月24日(Wed)]

Gakuvoでボランティアに来ていたある学生と話す。中国人だった。
「カリスマとは」について、彼は興奮気味に語る。

「相手に理想を与えられる人、それがカリスマなんですよ!」

なるほど、と思う。確かにそうかもしれない。単に周りを引っ張るなら簡単だ。でも、それじゃいずれついてこなくなる。みんなに期待と理想を持ってもらうようにもっていかないと。
「もってもらうようにもっていく」って変な日本語…

西尾雄志先生はかつて言う。
「カリスマ性だけではダメだ。もう一つ、誰よりも地道に働き、謙虚な姿勢であることが必要。その両方が必要。原田燎太郎はそれをもっている」

活動の姿勢に関して、彼は言う。
「成果を急いじゃいけない。俺らがやっている活動は、成果が出づらいものだ。
歴史上の偉人は、たいてい死後に評価を受けている。俺らの活動もそんなもの」

だからこそ、それが逆にやりがいに繋がっていると語る。

吉田亮輔のリーダー3箇条がある。
「“大きな目標を掲げる”。これもリーダーの仕事の一つ。唐桑でも考えないとね。
あとは、“いつでも笑みを”、“責任をきちっととる”だったろ?」

どれもこれも私に足りないところだ。
腹くくってどしっと腰を据えたい。小さい成果、評価に踊らずに。
それでいて、もっともっと地道に働こう。

笑顔を絶やさずに。
カキのお話し [2011年08月22日(Mon)]

あるカキ養殖の生産者が言う。
「ボランティアはホントにありがてぇ」
いやいや、そんなたいしたことしてないっす、と言いながら缶を傾ける。

---

最近はカキ養殖のお手伝いが増えた。
「種ばさみ」と言って、ロープに一定の間隔でホタテの貝殻を挟んでいく。ホタテの貝にカキの赤ちゃんが、いくつかくっついているのだ。そのロープを海に垂らすこととなる。
種ばさみは単純作業なので、素人でもできる。普段はパートを雇うとか。

震災の影響で、種ばさみが数か月遅れで始まった。カキの赤ん坊が成長しきってしまう前に、海に入れなくてはいけないので、種ばさみは遅くとも8月までと言われている。

唐桑と言えばカキ。
カキ養殖は、波が静かな内海(うちうみ)で行われる。唐桑半島の西海岸のことだ。
今、種ばさみをやらなければ、先の収入がなくなる。海のガレキが減ると、生産者は急げ急げと数か月前から慌てて種ばさみを開始した。
が、人がいない。雇うカネもない。

そこで、ボランティアにヘルプを出した。ボランティア側も、ガレキ撤去作業が徐々に減りつつあった時期なので、喜んで受けた。漁業体験にもなる。

そこに、唐桑ボランティア団がストップをかける。
「それはボランティアのすることなのか。生産活動のお手伝いは、慎重にやるべきだ。
そもそもパートさんの雇用を奪うことになり兼ねない」
私は当初慎重派だった。
週一の唐桑ボランティア団の定例会とは別に、カキ養殖について話し合う「分科会」が開かれる。RQを中心に、ボランティア団体が集まる。
が、時すでに遅く、地元内でひんしゅくの売り買いが始まっていた。
「○○さんは、どこそこのボランティアを使って、養殖を始めてるらしい…カネあるはずなのに」

まずい。ボランティアの存在が、生産者同士、地元の人同士の関係悪化に一役買っている。

唐桑ボランティア団内で、調整が必要だ。
お手伝いの要請を断るのは簡単だ。だが、現実問題として今人手が足りない。雇えない。
断るのではなくて、うまいことやりたい…

まず漁協に話を通し、カキの生産者にボランティアの存在を周知してもらう。それにより、どの生産者もボランティアの手を借りれる環境づくりを目指す。機会の平等。
ボランティアに偏りが出なければ、どの生産者にも人を出せれば、ひんしゅくはなくなる。
RQが漁協に行く。次に、私も一緒に生産者へのあいさつ回りに行く。

それから、数か月が経った。

---

今は、カキ養殖のお手伝いを4件請け負っている。依頼の声は今のところ偏りなく拾えている。それだけ周知されたか。

RQと唐ボラ団の事務局で人数を調整して、できるだけ毎日、各生産者のもとにボランティアを出している。
各生産者と各ボランティアの間に、仲介として唐ボラ団が入る形となった。うまくいった。

今回、震災復興支援に携わり、ボランティアの役割は行政や福祉の補完なのだと痛感した。
そのボランティアが、無作為に生産活動に手を出せば、「タダの労働力」に成り下がる。それだけでなく、地元の雇用も奪う。危険だ。

復興支援にマニュアルはまだない。だから、何がいいのか悪いのか手探り状態が続く。

カキの一件は、当初唐ボラ団の中では結構な問題になり、正直関わりたくなかった。
それでも、あのとき、断らないでやってよかった。RQ星野さんはじめ、生産者を紹介してくれた畠山新聞さん、一緒にやってきたボランティア、受け入れてくれた生産者の皆さんに感謝。

---

あるカキ養殖の生産者が言う。
「ボランティアはホントにありがてぇ」
いやいや、そんなたいしたことしてないっす、と言いながら、どうありがたいのか気になって仕方なかった。
タダの労働力としてありがたいのか、パートの穴を埋めたからか、それとも…
それとも…の後に賭けたかった。耳を傾ける。

「ボランティアさんがいるとさ、“会話”が生まれるのさ。
おらい(俺ら)だけで作業やってても、話すことなんてねぇ。あるとすれば、暗い話さ。家内も普段はあの通り明るいけどさ、家に入ると『これからどうしていけばいいんだ』って暗くなる」

「ボランティアさんは、みんな最後に『逆に私たちが元気もらいました』って語って帰っていく。
でも、そうでねぇ。やっぱり元気もらってんのは、オラほ(俺たちの方)なんだ」

…うん。うん。私は噛みしめるように、この話を聞いた。聞いてよかった。

その夜は、カキの生産者が一堂に会していた。
「んじゃ、お先に失礼しまーす」と言って、小舟に乗り、ブイーンっと闇に消える漁師さん。
新鮮。電車でもタクシーでもなく、船で家路につく。

真っ暗な茂みの中でじょぼじょぼ音を立てる。
「加藤くんかぇ」
横で同じように突っ立ってたのは、さっき話を聞かせてくれた彼。
「下の名前で呼んでください」と返す。
「若ぇのに、いい眼をしてるな」
漁師さんはときどき、相手の眼を褒める。郭くんもそうだった。

立ち話をしていると、彼が不意に言う。
「宮城県の中で、一番日の出が早いのはここ唐桑だ」
唐桑は、宮城の最北端と同時に最東端でもある。
「おお、確かに」

「宮城の(復興の)日の出は唐桑から!

俺は唐桑に誇りをもっている」
地盤沈下 [2011年08月20日(Sat)]

がたがたがたと車が揺れる。運転してても体が右へ左へ。
かさ上げした道は、舗装されることはなく今も土と砂利の道だ。

被災地の課題は、もちろんいろいろある。
が、今後一番深刻な問題になるのは、実は津波被害ではなく、大地震による地盤沈下だと考える。

数十センチ以上、町が沈んでいる。
町は一日に2回、満潮時に海に呑まれることとなる。そこに大潮の時期が重なると、さらに水位が上がる。
海岸沿いの道路は、海の中。曲がり角のガードレールが海に浮かんでいる。
なので土砂を積み上げ、その脇を石で固める。
雨風でだんだん土砂が削られると、また土を盛る。延々とその繰り返しだ。

鮪立(しびたち)地区は特に深刻だ。
干潮時と満潮時のビフォーアフターを見てみよう。

干潮時―


満潮時―


こちらは、かさ上げした道すら呑まれてしまっている。この先の家は孤立状態。車は錆びを覚悟しないといけない。

干潮時―


満潮時―


最近、更なるかさ上げが図られた。

続いて、陸前高田市。海岸近くの野球場が海に浮かんでいる。驚く。
陸前高田は、海岸線が大きく変わってしまった。松原は全て海に沈んだ。



---

問題は、ここから。
誰もが考えている家屋の再建だが、それが今できない。
行政が町全体のかさ上げを行うとのウワサは出ているが、それがどうもはっきりしないのだ。

山を切り崩し、町全体のかさ上げを行う場合、今個人が家をポツポツと建てられると計画が進まない。せっかく新築したのに、取り壊しになるのもアホらしい。
実際、陸前高田では家の再建に対し、市からストップが出た例が以前あった。

仮設にいようと、新築できる財をもつ人はもちろんいる。しかし、計画が見えてこないため、行動に移せない。かさ上げするのか、海岸沿いから離れて集団移転に乗り出すのか。

おもしろい案を耳にする。
「○○地区が集団移転のために山を切り崩す。その土砂を、△△地区のかさ上げに使う。両方にとって、得だ」

さて、どうなるのか。
いつ、再び我が家に落ち着けるのか。

いつまで、土砂の道に揺られるのだろうか。
死ぬのを恐れて [2011年08月18日(Thu)]

遠東記再開。

夏祭りを企画し始めて数か月。その祭りがどたばたと終わった。
一区切りがついた。

祭りのことをブログに書く前に、いろいろと書きたくて書けてなかったことを時系列に書いていくこととする。

---

活動はこれから変化を余儀なくされる。
FIWC唐桑キャンプも、唐桑ボランティア団も。
課題は山積しており、悩みも尽きない。それでも、ここまでやってきた。

今まで相手にしてきたのはガレキだった。でも、いつの間にか、相手は「ガレキ」ではなく「人の心」になっていた。単純ではない。正直、挫ける。それでも、ここまでやってきた。

だから、それをまず誇ることにした。
謙虚さを忘れずに、同時に誇りも忘れずに。その両立が大切。
そうじゃないと「人の心」なんて相手にできない。

親父によく言われた。
「人間、自信を失ったらダメになる。なんでも肥やしだと思え」

やればやるほど責任は増え、潰れそうになる。手の届かないところまで、手を伸ばそうとするのが自分のよくないところだ。
それが嫌になる。

---

毎日、車を出して唐桑を行ったり来たりするのだが、その日は「たまにはラジオもいいか」とラジオを聞いて一人、鮪立から宿へ向けて走っていた。
懐かしい曲が流れていた。“おもひでぽろぽろ”の曲だった。
ゆっくり流れる歌声、その歌詞に聞き入る。
そこではっとする。おもわず眼がぐっと見開く感じ。


―挫けるのを 恐れて
躍らない きみのこころ

醒めるのを 恐れて
チャンス逃す きみの夢

奪われるのが 嫌さに
与えない こころ

死ぬのを 恐れて
生きることができない―

(都はるみ「愛は花、君はその種子」より)


人間を描いていた。人間は矛盾だらけだ。今の自分だった。
よく生きたくて、なんとかしたくて、周りに流されるように生きることが耐えられなくて、生きることに嫌気がさしていた。
人に好かれたくて、愛されたくて、嫌われるのが怖くて、人が嫌いになっていた。
ボランティア然り、唐桑然り。

大沢のみきおサンは言う。
「寒いと皆集まって、身を寄せ合い火をおこす。でも、火が大きくなると皆逃げるんだ」

---

何かを怖れて何もしないのは、もう止めにした。
寒いなら、火をおこすまでだ。逃げられることを怖れて、火をおこさないのは馬鹿だ。
分かりきったような言い草で語り、何もしない大人たちがいる。そんなものには屈しない。


唐桑に来る前、いつだったか、原田燎太郎に言われた。
「たくまはサメだ。サメは止まると酸素が入ってこなくて死ぬんだ。止まると死ぬんだ」

まだまだ死ねない。そのために、止まらないことにした。

---

「ここらは、お盆が明けるともう秋だ」

地元の人はそう言う。
秋が来た。
遠東記は続く。
7月14日が来て [2011年08月03日(Wed)]

7月14日、晴れ。
特別な日だった。

仮設住宅の入居説明会があった。
入居先は、福祉の里(追加分)、中井小、漁火パークの3ヶ所。
仮設住宅へ入居するためには、まず抽選があり、結果発表があり、当選者は入居説明会を待つことになる。説明会では部屋のカギを渡される。イコール、入居開始。

今回は、小原木中の避難所以外、全ての避難所の方が入居する。

ちなみに、唐桑最後の仮設住宅(小原木中校庭)も、8月3日に説明会があるという。
そこから数日中には、最後の避難所も閉鎖予定。唐桑に避難所がなくなるのだ。

唐桑住民の仮設は、唐桑内で収まった。これは本当によかった。
一方、気仙沼市街では場所が足りず、千厩などの内陸部(岩手県)に仮設を設けるという…

---

避難所が閉鎖される。

私たちがお世話になってきた、高松園の避難所もこの日閉鎖となった。
説明会は朝10時からで、それが終了するお昼頃を見計らって私たちは高松園に行った。



胸がぐっと締め付けられる。
キレイに片付けられていた。
みんなの布団、救急箱や虫よけセット、トムのおもちゃ、たいようのカードゲーム、こうせいのマンガ、とみおサンが座っていた椅子、FIWCからの寄せ書きの旗…
柱にかかったカレンダーには、14日だけに丸がしてあって、「10:00〜」とだけ書いてあった。
みんな、この日を待っていたのだ。

なのに、私は喜べなかった。

---

お昼を食べる。
おっちゃんが、安っちいタグのついた仮設のカギをちらちらさせて言う。
「なんだい、こんな動物小屋みたいなカギ渡しやがって」
相変わらず愚痴と笑いが絶えないこの雰囲気が、嫌いではない。
部屋番号を聞いてまわると、みんなご近所だった。近くにまとまるよう配置してくれたみたいだ。
「○○さんトコと○○さん、○○さん、おらいは、一列の棟さ」
おー、よかった!

高松園の園長が入ってきて、「みなさん、本当にお疲れ様でした」とお辞儀する。
「高松園さんには本当にお世話になりました」

急にバタバタし始める。各自、車に荷物を乗せ始める。仮設住宅への引っ越し。親戚が来てくれる人もいる。
「ねぇ、みんなでこうやって集まることなんて、もうないんじゃない?」
と、おばちゃんに聞くと「そうだねぇ」と返される。
「ねぇ、これからちゃんと自炊できるの?」
と、聞くと「とりあえず今晩は軽く済ませようかねぇ」と返ってくる。

高松園に行けば皆に会える、ということはもうない。
仮設に行けばもちろん会えるけど、みんなで並んで飯を食うこともない。
喜ばしいことだし、重要な一歩なんだけど、勝手に感傷に浸る。

---

4ヵ月。3月11日から7月14日まで。
ここで、雑魚寝で生活してきた人たちがいる。
私たちはそれを細やかに想像しなくちゃいけない。とてつもなく、しんどいことだ。

こういうときは、なんて言えばいいんだろう。
「4ヵ月お疲れ様でした?入居おめでとう?これからがんばって?」
私は、とりあえずこの避難所に「ありがとうございました」を言いたい。
この避難所で出会った人も多い。学んだことも多い。
私たちの唐桑での活動は、この高松園から始まったのだ。

---

午後3〜4時ころに県道を走っていると、ぽっちゃりした小学生が炎天下のもと、えっちらおっちら一人で下校しているのを発見する。暑すぎるのか、うつむき加減だ。
高松園で知り合った小学生。
学校が再開したのが確か4月下旬だったから、それまでは毎日お昼に高松園で顔を合わせていた。たまに、キャッチボール、サッカー、フリスビーもした。

今は福祉の里の仮設住宅に住んでいる。学校から帰るには坂の多い県道をひたすら歩く。まだ慣れない通学路だろう。
車を停める。
「おいっす。乗ってく?」
「あ。乗っけて」

ツナガリは続いていくんだ。