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続々・ミックスジュース [2011年07月31日(Sun)]

つづき

唐桑を語る上で欠かせないのは、12に分かれた行政地区。
しかし、ここでの滞在を続けていると、目に見えない境界線が見えてくる。

唐桑はもう少しおおざっぱに分けると3つに分かれる。
半島の付け根にあたる、大沢、舘(たて)、只越(ただこし)。以上、小原木小学校学区。
半島の中央部の、石浜、宿(しゅく)、舞根(もうね)、中、鮪立(しびたち)。以上、唐桑小学校学区。
半島の先端に位置する、小鯖、中井、松圃(まつばたけ)、崎浜。以上、中井小学校学区。

さらに大きく分けると2つに分かれる。
唐桑町は南北の村が合併してできた町だった。
北の3区、旧小原木村。南の9区、旧唐桑村。

壊滅的被害を受けたのが、その内の半分、北から大沢、只越、宿、舞根、鮪立、小鯖。
半島の先端の方は、高台に家が多いため被害は少なかった。かつての大津波で高台に移転した家が多かったとか…

次は細かく見てみよう。12地区の中にも、1区、2区、3区と分かれている。
それぞれ行政区長さんがいて、その中から地区代表として自治会長さんが選出される。

この12地区は、かつて部落として成り立っていた。そして、部落同士の仲は良好とはいえないものも多い。伝統的なコミュニティはライバル同士だった。都会にはない、田舎特有のもの。

震災から、3ヵ月、4ヵ月が経ち、その部落コミュニティが回復しつつある。
「ウチはウチ。ヨソはヨソ」
結果、よく耳にするのは地区ごとの連携のなさ。軋轢。

舞根で集団移転の期成同盟会が設立すると、大沢で同様の期成同盟ができる。
鮪立でもそのウワサが。

---

集団移転計画の期成同盟会とは、正式名称「○○地区防災集団移転促進事業期成同盟会」。
名前だけ見ると、どこか遠くに皆で引っ越してしまうイメージだが、そうではない。
集団移転の根にある想いは、「もう一度、みんなでこの地区で暮らそう」というもの。新たな住み家も定まらないまま、地区を離れてしまう人も少なくない。その「人の流出」を防ぐために、地区のすぐ近くの高台に皆でまとまって移転しよう、という愛郷の復興プランがこの集団移転計画である。

しかし、この集団移転には莫大な費用がかかるため、難航している。
そもそも集団移転に関する現行の法律は、平地から平地への移転を想定したものであるため、今回の高台への移転は、法律が想定した以上の費用が結局、市にかかる。

---

要するに、地区ごとの期成同盟会の声では、市に陳情するには到底小さすぎるのではないか、というのが私の意見。
しかし、各地区がまとまって市に物申すという気配は今のところない。私の知る限りではの話だが。
さらに、舞根の期成同盟は、舞根2区(あっち舞根)だけで進められた話で、1区(こっち舞根)は聞いてないという。結果、1区でも期成同盟会を立ち上げなければという意見も出る。
大沢地区の期成同盟会設立総会に出席したが、やはり唐桑町としての動きではなさそうだ。大沢の将来をどうするか、に焦点が当てられる。
鮪立の話を他地区の人に聞くと、「あそこは大物政治家がいるから、そのうち何とかしてくれるんじゃない?」と、あっけらかんと言う。

被害が少ない地区と、壊滅の地区との温度差も激しい。
前々回の記事に書いた、在宅と避難所みたいな関係だ。距離を感じる。

自治会長の寄り合いにも顔を出したことがあるのだが、自治会長さんが12人いない。聞くと、小原木の3区は別でやっているからいないという。びっくりした。

決めつけている訳ではない。もちろんいろんな考え方の人が地区の中にいる。何度も何度も言うが、これは私が話を聞く限りの情報だ。

---

仮設住宅には、それぞれ新たに自治会がつくられる。
小原木小仮設住宅は、入居者のほとんどが大沢地区の方だったため、すんなり自治会長が選出された。大沢の結束は強い。
しかし一方で、旧唐桑小跡地や福祉の里の仮設住宅は、大規模な上、複数地区の方々が入居しているため、一向にトップに立つ人間(自治会長)が出てこない。
自治会が立たねば、まとまった仮設運営や支援がしづらい。孤独死、自殺防止に欠かせない、仮設住宅でのコミュニティ再形成など、はるか先の話になる。

---

唐桑がまとまらない。
何とかならないのか、地元の人に聞く。「そら、無理だね」と答えが返ってくる。

平時、地区ごとや村ごとのコミュニティは必要なものだ。そのために、地区ごとの軋轢は必要悪だ。田舎ならどこにでもある、古き良きライバル関係だと私は思う。仮にその軋轢が解消され、まっ平らになってしまったら、各々のアイデンティティが薄れる。都市の人間がそのいい例だ。

が、今は非常時だ。有事だ。せめて、唐桑町という単位でまとまっていかないと、復興が進まない。
12地区に分かれ、さらに在宅、仮設、避難所の3つに分かれる。モザイク模様だ。

そんな話を毎日のように聞く。
課題は聞くけれども、それに対する解決策を語る人はいない。
だんだん自分も悔しくなってくる。

「唐桑町として、足並みの揃った復興プランの提示」
これをいつしか夢見るようになった。

毎日ガレキ撤去をやっていた男が、ここまで深く浸かってしまった。
先日の活動報告会で、「地域の軋轢に悩むなんて、もったいない。他でもっと力を使ってほしい」と、報告会に来てくれた人に言われた。
でも、決して楽しくはないが、決して無駄なことではない。
唐桑が好きになった。出会ったひとりひとりが好きだ。
だからこそ、マクロな眼で唐桑を見たときに、復興を邪魔する課題だらけなのが我慢できない。
私はどの地区にもどの部落にも所属していない。唐桑に入った一ボランティアだ。
だからこそ、できることが絶対にあると信じている。こんな時だからこそ。

私は活動対象として唐桑にこだわるつもりはない。唐桑に来たのは偶然だった。
ただ、遠東記でも一度書いたが、この小さな唐桑で何かできなければ、結局のところ、震災復興うんぬんに関してデカイことをやろうとしたって所詮は失敗する。

今まで大学時代、中国でもそうやって活動してきた。

どれだけ、目の前を大切にできるかにかかっている。何事もそうだ。復興もそうだ。
今はもう少し唐桑で、もがいてみたい。

久々に自分のノートを開くと、こんなことを書いたことを思い出す。

『6月30日 唐桑にて

人に会った。
会って、会って、会って…

まだ会い足りないとは思うが、
一旦ここで次のフェーズに移りたい。

“出会った人を、つなぐ作業”

オレにしかできない作業があるとすれば、コレだ。』
続・ミックスジュース [2011年07月29日(Fri)]

つづき

これは私がいろいろな人の話を聞いて、ミキサーにかけて、自分なりに伝えやすいように砕いて混ぜたものである。
誰が悪いとか、誰を批判したいとか、そういう意図はない。あくまでミックスジュースだ。
意図も文章も分かりづらいが勘弁してほしい。

---

「上から目線みたいなものを感じるんだよな」
そう言うのは仮設住宅の人。
そろそろ少年野球チームにしろ、PTAのイベントにしろ、学校行事にしろ、再開し始めている。
その状況下で、仮設住宅に住むある人は「(在宅の人が多くいる)元あったコミュニティに入りづらい」と、こぼす。その原因が上のセリフに表れている。
話を聞いていると、どうやら被害妄想ではなさそうだ。

---

ボランティアにも問題があったのではないか。支援をもっと公平にできれば、在宅にも目を向けれたら、この在宅と仮設、避難所の軋轢は軽減できたはずだ。

軽減するどころが、ボランティアの支援が、ギャップを深めた。自覚せねばならない。

---

課題はこれだけではない。

次は「地区ごとの軋轢」が、そこに重くのしかかる。

これだけは、ブログに書く気になれなかった。
唐桑の人もこの記事を読んでくれているから。何より唐桑が好きだから。
でも、きっと必要だから怖れずゆっくり書いていく。


つづく
ミックスジュース [2011年07月28日(Thu)]

ある地元の人H氏が、こんなことを言う。

「今、唐桑には3種類の人間が住んでいます。

避難所にいる人、仮設住宅にいる人、在宅の人。

震災から4か月が経ち、その3者の意識が全く違ってきている」

在宅の人というのは、家が無事で、もしくは家を借りて在宅避難を続けてきた人たちのことだ。
かつての「皆で力を合わせて乗り切ろう」という意識は薄れている気がする。
これは唐桑の批判などではない。どの被災地でも共通の課題であろう。昔の記事にも同じようなことを書いた。

---

「奇妙な平穏」

とH氏は称する。在宅の人(以下、在宅)の間では、震災前の平穏さが徐々に戻りつつある。今までの生活が戻りつつある。が、H氏は言う。
「町に出ればこれだけのガレキがまだ目の前に広がっているんだ。その中での平穏さは、なんだか奇妙だ。おかしい。なぜ普通でいられるんだ」
この人は在宅を批判する。
「もう“我関セズ”の状態だ」
避難所や仮設へ気持ちが向いていないらしい。

H氏は、家が高台にあって無事だった。いわゆる在宅の人だ。

Y氏も在宅の人だ。
「震災直後から、俺は言ってきた。『物資は避難所へ回せ』
俺らは草食ってでも生きようと思った」

世間の注目が当然のように集まらないのが、在宅避難者だった。
しかし、少し想像すると在宅には避難所にない悲惨さがあったことが見えてくる。

酷いところでは数か月、水も電気もままならない状態が続き、
支援物資やボランティアは当然避難所が優先される。
かと言って、在宅の人は避難所に行けないのだ!
家が無事だった人が行くと、なんとも言えない空気に襲われる。「一度物資をもらいに行ったが、白い目で見られるのが嫌で、もう行かなくなった」と語る在宅のおばさん。申し訳ない気持ちになるらしい。
在宅が復興について何を語っても、避難所の人に言われるのは、「(お前は)家あるじゃん」「家残ったからそんなこと語れるんだ」。ひんしゅくすら買う。
Y氏は言う。「おらい(俺ら)が語ったって(言ったって)ダメだ」

物資がないからと言って、近所で買い物できるところはない。
スーパーもショップも流されてないのだ。残ったショップの中には、物価を数倍に上げたところもあると聞く。
どの家も蓄えを削って削って、発電機もしくは薪で寒さを凌いできた。

在宅と言っても、2種類に分けられる。壊滅地区での在宅と、被害が皆無だった地区の在宅。
Y氏は前者だ。家の周りには、もう何もない。
ガレキの山以外、本当に何もない。Y氏の家のみ、ぽつんと高台に残された。
残された家に、もうコミュニティはない。ご近所に、人がいなくなってしまった。これは老人にとってはかなりキツイ。話相手は虫かネコしかいない、と聞くこともある。在宅での孤独死もこれからあり得る。

さらに在宅の悪夢は続く。
被災した親戚が多い人には、その親戚たちから大量にモノが運び込まれる。
避難所や仮設住宅には、私物を置くスペースがない。結果、在宅の親戚を頼る。
「もう私の家はゴミだらけよ」
気仙沼で、半分ヒステリックになった在宅のおばさんに出会う。
「無事だった家具から、救援物資から、みーんな私の家に運び込まれたわ。挙句、その親戚たちの面倒も見ているわ。今月は葬式だらけよ…」
ぼろぼろだった。

トドメはこれ。H氏が言う。
「在宅は、り災証明が出ないんだ」
今、被災地では当然のように、り災証明一枚で何もかも優遇される。必要なことだ。
しかし、同じくらい被害に遭っている人たちでも「家が残った」というこの一点で、それが発行されない。これは、かなり痛い。

話を戻す。
H氏は在宅を批判する。
「もう“我関セズ”の状態だ」
しかし、その気持ちも分かる。今まで在宅の人たちは、支援も届かない中で、時にはひんしゅくを買いながら、歯を食いしばって、震災前の生活を取り戻しつつある。
H氏も、それを十二分に分かっている。だから、やりきれない気持ちになる。町が3つに割れてしまっているのに、どうしようもできない。

ボランティアにも頼らず自分の力でやってきたという“プライド”と、流された人や家への“同情”が複雑に折り重なって、

在宅は避難所と距離を置いた。

駄文はつづく
コミュニティ再構築に大切な“もの” [2011年07月25日(Mon)]

かつて唐桑で知り合った方で、今は唐桑ボランティア団のアドバイザー的役割を果たしてもらっている人がいる。

その人からメールが。題は、「コミュニティ構築に大切なもの」。
そのメールの最後にこんなことが書かれてあった。

---

私の言葉ではありませんがまちづくり業界で有名な言葉をご紹介します。

コミュニティー再構築に大切な「もの」
・よそもの(他の地域の新しい価値観。しがらみの無さ)
・ばかもの(馬鹿になって、○○馬鹿と呼ばれるぐらい、がむしゃらに)
・わかもの(新しい世代の価値観。物理的、体力的に)

このいずれかにならないとコミュニティーの構築、変革はできないのではと
言われています。

皆さんはいずれかの「もの」になれるでしょうか?

---

コミュニティの再構築は、復興を考える上で欠かせない。
唐桑も例外ではない。

日本中のユースの皆さま、皆さんは潜在的にこの3つを兼ね備えています。
私も自分自身にそう言い聞かせて、自分にできることを模索中です。
復興は始まったばかりです。
7月23日 [2011年07月19日(Tue)]

7月の活動報告会のお知らせです。
今回の報告会は、報告よりも共同のディスカッションメインです。
皆様とお会いできるのを楽しみにしてます。以下詳細。

---

皆さま

お世話になっております。
拓運営事務局の郭でございます。

報告会の件です。
場所や時間などまとまりましたので、ご連絡させて頂きます。

7/23(土) 17:30〜20:00
日本財団第2ビル 3階会議室
東京メトロ虎ノ門駅が最寄となります。
http://www.gakuvo.jp/about/access.html

参加費などは無料です。
報告会後は会費制で懇親会を予定しております。

以下にも告知させて頂いた通り、
報告会というよりは、加藤の現地での活動体験や学びをベースにした、
議論の場とさせて頂ければと思います。

この活動のゴールや、現状唐桑が抱える問題点など、
ざっくばらんに話し合える場となればと思っております。

ご参加頂ける方は、私までご連絡のほど、宜しくお願いします。
皆さんにお会いできるのを楽しみにしております。


-------


加藤のBlog『遠東記』はこちら。
https://blog.canpan.info/entoki/

FIWCの活動報告はこちら。
http://fiwc.jp/blog/

拓〜加藤拓馬を支える会のHPはこちら
http://hiraku-project.net/

カンパは下記の口座にお願いします。
ゆうちょ銀行 店名008
店番008 記号10050 普通貯金4495032
『拓〜加藤拓馬を支える会』  *拓は『ヒラク』と読みます。

-------

参加希望者の方は、下記までご連絡ください。
拓運営事務局 担当:郭
mobile:090-2521-1987
mail:teruaki07@gmail.com
がんばっつぉー唐桑 [2011年07月14日(Thu)]

ここ1週間、不思議なことが起きている。

FIWCのさよが、馬場さんとか唐桑の人と相談しながらデザインした「がんばっつぉー唐桑手ぬぐい」。
大漁旗をイメージし、唐桑の名所、折石(おれいし)を入れる。宮城でも気仙沼でもなく、唐桑オリジナル。唐桑の人に元気になってもらいたい、その想いでつくられた。
500円。唐桑で買うと300円。300円だと、ほぼほぼ原価。
ひろみとさよが担当になって売ることに。



それが。
唐桑で大ヒット。
飛ぶように、はけていく。
500部があっという間に完売。追加注文をするも、予約でいっぱい。
ボランティアはもちろん、地元の人も大量に買っていく。私のところにも、電話がかかってくる。
「今日東京に帰るメンバーが欲しいって言うんだ。売ってくれない?」
と他団体から。
地元からは…
「お疲れ様〜あの手ぬぐい、今度11部売ってくれない?配りたいの」
数分後、「あ、やっぱり12部にして!」
さらに…
「おはよう。あの手ぬぐい、200…いや300部くらいちょーだい。こっちではくから。」
300…さらに…
「観光協会からね、あれTシャツにしてくれって声があってね。ほら、大漁旗って元気でるから。欲しい人はたくさんいるよ」

主婦さよサン、デザイナーデビューか。

ボランティアは、これを頭に巻いて、もしくは首に巻いて、作業する。
くにあきサンの家の縁側に掲げられる。須藤スタンドの臨時テントに掲げられる。
がんばっつぉー唐桑!!負けんな!
津波注意報 [2011年07月13日(Wed)]

7月10日。
Gakuvoの学生ボランティアと、鮪立(しびたち)でワーク。

ごごごごごと地鳴りがする。
「あー、長いね」
揺れる。大きくはないが、長い地震。

しばらくして、東京のりょうすけサンからTelが。
「津波注意報が出たから避難してね」

作業していたのは海から数十メートルほどの場所にある全壊の家。

サイレンが鳴り始める。
高台の知り合いのお宅に避難。

停泊していた船が次々と沖に向かう。これが、津波から船を守る「沖出し」。
避難勧告が出される。

静かな昼。
サイレンが鳴り続ける。

不気味の一言に尽きる。
サイレン [2011年07月08日(Fri)]

1ヵ月前くらいだったか。

どこかで火事があり、サイレンが鳴った。

「あーーー」

ワークのお手伝いに来てくれている地元の女子高校生トリオが、急に声をあげる。

「ムリムリムリ。ホントいや」

さっきまで横ではしゃいでいたのに、急に怖がり始める。
肩をすくめて、耳をふさぎ、3人で身を寄せ始める。
挙句、軽いパニックに陥る。

「あーーー」
サイレンが続く。

どうしたん?と尋ねる。

「3月11日のときと同じ音なんです」
続・週末大作戦アルバム [2011年07月07日(Thu)]

つづき

日曜、雨。
この日はGakuvo部隊も鮪立へ投入。IVUSAと併せ70〜80名に上る。


ガレキの運び出し。雨にも関わらず作業は午後まで続く。


ガレキの中から見つかった大漁旗を一斉に雨にさらす。大漁旗は活気の象徴。


Gakuvo別部隊は、例の○ンコ開け。(参照記事「お国の言葉講座」)
Gakuvoの皆さん、ありがとうございました。


新たに到着したFIWCのメンバーには、地元の人からの依頼でフリマのお手伝いをしてもらう。場所は、唐桑唯一のコンビニだったローソン跡地。

計90名のボランティアを受け入れ、現場を紹介し、管理?
地元の反応もよく、とりあえず成功。

やれることはまだまだある。
唐桑ボランティア団事務局を整理して、夏を迎えたい。
とりあえず、一息ついた週明けだった。
週末大作戦アルバム [2011年07月07日(Thu)]

6月25・26日週末大作戦決行。

東京から来る週末ボランティアバスを、唐桑ボランティア団事務局として私の方で受け入れる。
亮太と2人で慌ただしくかつグダグダ準備する。

まず土曜。
IVUSAより50名以上。T-ACTと併せて60名、鮪立(しびたち)へ投入。


ガレキの仕分け作業。


こちらは通称モグラ隊。床をはがし、床下の清掃。


小屋の解体作業。IVUSAの皆さん、ありがとうございました。


T-ACTの皆さんには、八幡神社へ続く石段周りの草刈りを。

一方、Gakuvo(日本財団学生ボランティアセンター)から派遣された日系ユース20名。見慣れない外国人学生に地元の人のテンションは上がる。とちぎVネットと併せて30名を只越(ただこし)へ投入。


側溝の土砂出し。お昼は、地元の人が用意してくれた。

つづく
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