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加藤拓馬さんの画像
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ごーって [2011年04月28日(Thu)]

「ごーって波が来てね、お父さんの車もっていっちゃったんだよ!
車はあそこで見つかったんだよ」

「えーっとね、すぐにね、○○の方にね、逃げたの!」

小学生になるハッチと幼稚園に通うピッカが興奮気味にわいわいと順に話してくれる。
いつもお揃いの服を着てる仲良し兄弟。
泥の詰まった窓のサンを歯ブラシでごしごし洗う。この作業はピッカが得意。

「怖くなかったの?」と尋ねると、
すっと落ち着いた顔になって声を揃えて言う。

「こわかった」


ピッカは大好きだったおもちゃが流されてしまい、泣いて泣いてどうしようもなかったらしい。
おばさんに尋ねる。
「次、何しましょうか」

「そうねぇ、2人の遊び相手になってやってくれる?・・・とか言っちゃったり。忙しいのに大丈夫かしら」


ハッチとピッカが残ったおもちゃを出してきた。
続・30年ぶり・・・ [2011年04月28日(Thu)]

お待ちかねの休憩タイム。
家具も何もかもぐちゃぐちゃの一室に上がらせてもらって、一服。

お父さん曰く、 
「3月11日は漁に出てた。『気仙沼が大変だってよ!』と教えてもらい慌てて帰ってきたよ。

腸が悪くてな、次帰ってきたときは手術を受ける予定だった」

・・・受けたんですか?

「病院も被災者優先だから、受けられない」


2人の息子さんが帰ってくる。30代か20代後半か。「どうも、お邪魔してます」
力仕事のできる息子さんだが、昼間は職探しに出ている。
もともと水産関係の仕事をしていた。今回の被害で、会社は壊滅状態。

「家も職も失った」

と、厳しい表情で言う。
お母さんが帰ってくる。
「どうも、皆さんありがとうございます〜」

おじいさんが要介護のため、お母さんは付きっ切りらしい。
お母さんも手が空いてない、2人の息子さんも昼間は職探し、自然と家の片付けはお父さん一人。が、そのお父さんも力仕事ができない。

結果、家がいつまで経っても片付かない。
そもそも片付けたところで住めるのかどうかも分からない。
これが被災地。

お母さん曰く、
「今日から、デイサービスが再開したんで、おじいさんを連れていってきます。ホント、再開してくれて助かったわ」

介護施設が営業再開を始めている。

・・・
一方、その施設は避難所でもある。

「デイサービスが再開するから、避難所から避難者は出てってくれってね。
仕方ないから古い家なんとか借りて移ります。ウチのじいさん、チホウが少し入ってるから他の避難所にももう入れなくて。夜とか騒ぐでしょ。迷惑かけたくないしね。じいさんも今回のことで興奮しちゃってて」

と語るおばちゃんにも出会った。

施設の営業再開ひとつとっても、何が良くて悪いのか分からない。

・・・

話を戻す。

「お父さん、明日もまた来ますね」
その日のワークを終え、明日のアポをとる。
だいぶ庭もキレイになった。
「○時から仕事で秋田に行くから、それまでお願いしますわ」

秋田?
「漁ですか?でも、お父さん身体悪いんでしょ!?」


「仕方ねぇさ」
30年ぶり・・・ [2011年04月27日(Wed)]

「そういえば先日の余震、大丈夫でした〜?」

家電をえっちらおっちら片付けながら、家のお父さんと余震話。

4月7日の余震、ここは震度6強だった。4月5日に復旧したばかりの電気がぱっと消え、被災地が再びどん底に落とされた瞬間だった。私たちキャンパーにとっても、ことの重大さを身をもって思い知らされた瞬間であった。


「あぁ、おれぁ避難所にいてよ。揺れたときは母ちゃんに抱きつかれたんだ」

・・・おぉ


「30年ぶりだったな」


ぷっ。・・・へ〜うれしかった?


「・・・うれしかったな。次はねぇかな」

普段はむすっとしてて気難しいお父さんと、大盛り上がり。


冷蔵庫が重い。中のものが全部腐って異臭を放つ。「ちょ、お父さんも手伝って!」
はいはい、と言いながらお父さんも入る。が、力が入らない様子。
「腸に病気もってて力仕事できねぇのさ」
あ、そうなんですか!知らなくてすみません・・・

・・・

「お父さーん、立派な置物みたいなのありますよ!」
「あぁ、なげてくれ」

こっちでは、「捨てる」ことを「なげる」という。関西で「ほかす」というのと同じ感じ。
最初は意味不明で戸惑った。「こんな重いもん投げれるか!」と内心思ったりしたもんだ。

水牛の立派な角。
裏の板に「○○丸乗船 ニュージーランドにて 昭和○年」
と墨でかいてあった。津波の潮で汚れてしまっている。
ニュージーランドで買ったお土産だった。遠洋漁業の漁師さんは、インターナショナルだ。

「これ、本当に捨てちゃうんですか?」
「あぁ、かまわん。欲しかったら、持って帰れ」
「でも、相当立派なものですよ」


「忘れたいんだ。それを見ると、今回の被害を思い出す。もっていたくないんだ。

悪い思い出だ。忘れたいんだ」
ボラセン開業? [2011年04月25日(Mon)]

地元紙の河北新報の方とツナガリができ、つくったチラシを500部、新聞と一緒に配達してもらう。同時に、気仙沼の震災に関するチラシにも記事として載る。



こんなカンジ。我ながら絵心あり。文章はモグちゃん担当。
「協力」として、高松園、第二高松園の名前を入れる。

こちらは記事。




「こんなに配って大丈夫なの?」
と500部印刷に協力して頂いた高松園の園長が心配そうに言う。
「どうせそんなに電話なんてかかってこないですよ〜」
と軽く返す。


が。


「あの〜、ボランティアのカトウさんですか?
私、唐桑の○○に住んでいるんですけども・・・」

毎日、最低1件は電話がかかってくる。
気仙沼市街からもかかってくる。

気仙沼市街の方には、気仙沼の社協がやっているボランティアセンターを紹介する。唐桑からだと、車を走らせて下見に赴く。

意外にうまくいった。


さらに、
「気仙沼西高の○○です。ボランティアのお手伝いをしたいんですけど・・・」
と地元の高校生からも電話が!ボランティア参加志望まで来た。

今、唐桑で一緒に屋内の掃除などをやってもらっている。
今後も部活の休みの日などは参加してくれるそうだ。
自分の家も被災して大変な状況なのに、ありがたい。



「はい、加藤です!あ、お電話ありがとうございます。はい・・・はい・・・依頼内容はどういったものでしょうか?・・・あ、もちろん無料ですよ。・・・家の周りのガレキ撤去ですか。なるほど、では一度伺って見させてもらってもいいですか?・・・はい、GWには作業できるかと思います」


気仙沼市のボランティアセンターは、素人には危険という判断で唐桑町には一切ボランティアの派遣をしていない状況だ。

みなみが、段ボールに「ワーク依頼一覧表」を書いて、寝泊りしている部屋に貼った。
もうすぐ2枚目突入。

素人ボランティアによる、素人ボランティアセンター開業だ。
辛い [2011年04月25日(Mon)]

タカタ(陸前高田市)の惨状を見て数日後くらいだったか。
ガレキガレキガレキの毎日で、肉体的というよりいよいよ精神的に辛くなる。

その日、少し酔う。
馬場さんにぐったりもたれかかり、
「じいじ、オレ辛い」
とこぼす。

「“辛い”なんて言うもんじゃないよ。ここに住んでる人は、みんなその言葉を出さずに頑張ってるんだからさ」

馬場さんは優しくそう言った。



気仙沼に赴く前日。4月4日。本部の関西にいる柳川さんから激励の電話をもらう。

「震災復興支援の活動において、一番重要なことは何やと思う?」

・・・被災者のニーズを見失わないこと、でしょうか。

「“自分をもつ”こと。

被災地に行って、被災者と同じような心持ちになってしまうボランティアは多い。

阪神のときもそうだった。避難所の階段とかで雑魚寝してて、風呂も入らずに・・・ボクが(そのボランティア仲間の)様子を見に行ったときは、誰がボランティアで誰が被災者なのか分からなかった。

そのときは、強制的に(本部がある)奈良に連れて帰って、休憩させた。まず風呂に入れたな。

自分のペースをちゃんと持つこと。
そのために、朝、顔を洗う。歯を磨く、ヒゲを剃る、そういった自分の身体に関するルーティーンを欠かせないこと。
ちゃんと休憩をとること」


最近は、夢にもガレキの山が出てくる。
真夜中にボランティアの振りをした窃盗団に襲われる夢。

一旦、東京に帰って頭を冷やそうと思った。
5月1日 [2011年04月25日(Mon)]

仲間が報告会を企画してくれました。
ただいま、報告会のPPTの準備中です。
5月1日はGWキャンプ中ですが、1日だけ帰京して報告させて頂きます。

以下、詳細です。


----------

5/1(日) 13:00〜
『拓〜加藤拓馬を支える会』
被災地復興のための現地駐在に向けた決起集会のお知らせ

-----


◇はじめに
震災発生から一ヶ月強が経ちました。
この間、学生時代から社会問題の現場で活動してきた私たちは、議論を重ねてきました。

今すぐに現地に入るべきでない。
復興には時間がかかるから、今は焦らず地盤を固めるべき。

さまざまな意見がありましたが、
拓馬が悩んだ先に出した答えは、『これまでの経験を生かさないと、これまでが嘘になる』ということでした。

拓馬はハンセン病、私は薬害エイズの問題を学んできました。
語弊のある発言かと思いますが、両者はともに社会においては、ある種片がついたとされています。
そんな中で、私たちが数多くの当事者の方から聞いてきたのは、
『同じことを繰り返して欲しくない』『自分たちの経験を生かして欲しい』という言葉でした。

拓馬は現地に駐在し、そこで生きる人に寄り添い、共に生活を営みながら、
『被災者主役、被災地主役』の復興支援に取り組む決意をし、第一歩を踏み出しました。

皆さまの暖かいご支援とご協力、宜しくお願いします。


◇加藤拓馬の紹介
1989年生まれ、兵庫県出身。幼少期に阪神淡路大震災を経験。
早大進学後は、中国広東省のハンセン病快復村での活動に従事する。
中国での活動を波及させるべく、単身エジプトの快復村を回った経験も持つ。
『ワークキャンプでアジア、そして世界を結ぶ』を命題に掲げ、活動を展開。
今春ベンチャー企業への就職を果たしたが、入社と同時に無期限の休職へ突入。
現在は宮城県気仙沼唐桑町にて瓦礫処理に勤しむ。

*ワークキャンプとは
共同生活をベースとした労働奉仕ボランティア。
加藤はトイレやキッチンの建設、道路の舗装などを現地学生と共に行ってきた。
その効果はインフラ整備など目に見える効果に留まらず、ハンセン病への差別・偏見の是正にも及ぶとの見解もある。

*加藤拓馬のブログ『遠東記』
https://blog.canpan.info/entoki/


◇出陣式兼活動報告会
日時:5/1(日) 13:00〜15:00
場所:早稲田奉仕園6ABCホール(最大収容72名)

-加藤拓馬より、現地での活動報告
-活動における基本方針や考え方
-今後の展開に関して
-ホール参加者を交えたディスカッション

*
今月から、FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)の活動の一環で、
宮城県気仙沼にある『唐桑』という地区で、活動を展開しています。

今後の活動拠点や詳細な内容などは未定ですが、
彼が必要とされるところ、彼の経験や能力を最大限発揮できる現場で、
ワークキャンプを基盤とした活動を展開する予定です。


◇『拓〜加藤拓馬を支える会』のお知らせ
無期限休職中の加藤拓馬を支えるために、カンパのご協力を宜しくお願いします。
報告会当日ももちろん受け付けさせて頂きますが、振込みでのカンパも歓迎です。
今回だけに限らず、末永く支援のほど、宜しくお願いします。

ゆうちょ銀行 店名008 普通貯金4495032
『拓〜加藤拓馬を支える会』  *拓は『ヒラク』と読みます。


◇お問い合わせ
ご参加頂ける方は、事前に以下の連絡先までご連絡ください。
また今回は不参加の場合でも、今後の活動情報などお送りさせて頂けるようでしたら、
お気軽にお問い合わせくださいませ。

『拓〜加藤拓馬を支える会』
事務局 郭晃彰 (かくてるあき)
電話番号:090-2521-1987
メールアドレス:teruaki07@gmail.com
一時帰京 [2011年04月25日(Mon)]

一時帰京しました。
28日にまた現地入りします。

書きたい記事がたくさん貯まっているので、東京にいる間に更新します。
あまり時間がないので、帰京の際は会いたいと言ってくれた人、今回は会えないかもしれません。申し訳ないです。

引き続き、遠東記を読んで下さると嬉しいです。
入学式 [2011年04月22日(Fri)]

気づけば4月も下旬。
今日は、唐桑3小学校の入学式。桜が咲いている。

東北では、本当に4月中旬下旬に桜が咲くのか・・・と驚いた。頭で分かっていても、驚く。
桜が咲くころに入学式ができる、というのはここでは不思議な状況。

馬場さんのやんちゃ孫娘も小学校入学。
おめでとう。

昨日ワークしたお宅の子(ハッチ)も今日入学。
1階が浸水してしまったお宅だったので、1階部分の掃除を手伝う。窓拭き、床拭き。
休憩時間。

「ランドセル見る!?」

とハッチが言う。
わーー、と拍手。新品ランドセル。1年生なので、黄色いカバーのついたツヤツヤした黒ランドセル。小さい体にはまだ大きい。おめでとう。


被災地で、子どもたちがストレスを抱えていることは間違いない。
大人たちより見えづらいストレス。




1995年4月。
英賀保小学校に入学。

被災地神戸を離れ、母の実家がある姫路に住むことになった。
幼稚園の仲のよかった友だちはもちろんバラバラ。
何が何かよく分からないまま、新生活がスタートした。
播州弁(姫路のめっちゃ汚い言葉)が慣れなかった。
やたら、姫路のじいちゃんばあちゃんが「ぴっかぴっかの1年生!」と言ってくれた気がする。



神戸市東灘区震度7。
阪神淡路大震災のとき、私も幼稚園児だったことを思えば・・・
震災直後に小学生になったことを思えば・・・
こいつらを見ていると、いろいろ考えてしまう。


あの頃の記憶は消えないものだ。
薄〜いけど決して消えないキズとなる。子どもの心にも。

・・・

5日、ここ気仙沼に来たときは夜だった。
唐桑に向かう際、道に迷ってしまい廃墟と化した市街地に入ってしまった。
家屋部分が倒壊し、屋根だけとなった家が並ぶ。
信号機はだらんと垂れ下がり、建物がまるで踊り出すように道路を侵す。
そんな光景が急に目の前に現れた。

とっさに思った。

「神戸だ」

ぐっと何かに締め付けられる。
アパートの横の全壊した家、あの公園の横の家は家ごと飛び出しており、近くのマンションは1階部分が半分押し潰され・・・
故郷になるはずだった神戸の魚崎の景色が急に思い出される。恐怖でしかない。

・・・

がんばれ、ガキんちょ!!
負けんなよーーー
入学おめでとう!ぴかぴかの1年生!
GW唐桑ワークキャンプ [2011年04月18日(Mon)]

日本全国からキャンパー募集中です!

http://fiwc.jp/bbs/board.cgi?mode=res&no=245

こちらから、詳細・応募をどうぞ。
〆切は、4月23日です。
大切なこと [2011年04月17日(Sun)]

私はFIWC(http://fiwc.jp/)という団体の活動で現地に来ている。

第1陣は、もう3月下旬からここ唐桑町に入っている。
私は4月5日〜の第3陣で来た。GWまで約1週間交代でメンバー(陣)が入れ替わる。

お世話になっている知的障害者施設の園長が言う。風土の話。
「東北の人は奥手の人が多い。良くも悪くも、よそ者に対して閉鎖的なんです。その分、地域の団結力は強い。唐桑もそうです。地理的にも閉鎖的ですから」

唐桑町は、宮城県の北端にある小さな半島。もともと気仙沼市からは独立していた。今は合併している。
しかし気仙沼市街からも、長いトンネルを抜けなければいけない。山と海に囲まれた半島なのだ。

今、人口7〜8000人の唐桑に入っているのは、FIWC含めたった3つのNPO。気仙沼ではボランティアセンターが機能しているが、唐桑にはそこからのボランティアは入ってこない。

「自分のことは自分でやる。よそ者の手は借りたくない」そう思っている地元の人も少なくないとか。
風土とか言う言葉はあまり好きじゃない。風土うんぬん論で、多様な人たちの性格を一元化した挙句、人を見誤る場合が多いから。
しかしながら土地柄というものはあるらしい。


第1陣、第2陣のメンバーは現地に馴染んでもらうために苦労したとか。
「お前らにできることはない!」と現地の人に言われたこともあるとか。

私たち第3陣以降に対しては、印象として意外と自然に町の人は心を開いてくれる。
このブログにも記録しているように、私たちにワークを依頼する人も出てきたし、個人的に仲のいい町の人もだいぶ増えた。

「少しずつ変わってるんですよ」
と園長は言う。

「以前来てくれたボランティアの皆さん(FIWC第2陣のメンバー)が、日曜日に地域の人と一緒に、公共の場のガレキ撤去、水道(溝)の掃除、廃車の引き上げなんかをやってくれました。
午前の作業を終え、地域の人はくたくたになって、休んでいた。でも、午後も黙々と彼らボランティアが掃除してくれてね。最後まできっちりやってくれたんですよ。それを見た地域の人がね、心動かされたそうですよ。そこからかな。「彼らなら」と信用し始めたのは。ありがたいですね」

先陣のメンバーに心から感謝。

今は第4陣のメンバーと共に寝泊りしている。
第5陣がもうすぐ来る。

地域の人との関係が、復興支援には欠かせない。
一方、信頼関係なんて、一瞬で崩れ去ってしまうものでもある。なので、彼ら先陣が築いてきた関係、私たちが引き継いだ関係、それをしっかり大切にしたい。

言ってしまえば小さな漁師町。
でも、ここで何かできなければ、ここで人間関係を大切にできなければ、
もっと大きなことをやっても所詮は失敗すると思う。
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