ボランティアの皆様へ [2011年06月30日(Thu)]
大沢地区に、みきおサンがいる。
一度一緒にお茶をして、二度目は一緒に酒を呑んだ。 そしたら、すっかりファンになってしまった。 「生きてんだ。生きてる限りは頭使って論じなきゃいけねぇ。哲学をもて」 地元被災地に対し「いつまで全国からの同情が続くと思う?立ち上がれ!」と警鐘を鳴らすと同時に、 今の現地の状況をこう例える。 「花でも果物でも種を植えなきゃ始まらないだろ?でも今は、種を植える状況でもない。 畑すらまだ整ってない」 私は、ひたすら今は畑を耕しているのかもしれない。 一方で、種をまきたがるボランティアがいる。 「こういう花が被災地に咲くんです!」と企画ばかり立派で、自分の専門を活かしたいのか、立派な種を持って全国からやって来る。 よく耳にする種は、ソーシャルビジネス。 それはそれでいい。支援にもいろいろなやり方があるし、それを否定する気はない。 長期的には地域復興目的の起業、それに伴う雇用は欠かせない。 ただ、地元の人の本音は、(そんな立派な種、植える畑さ、まだねぇっちゃ) まずは地元の人と一緒に畑を耕しましょう。 「トイレに大きな灯りはいらない」 トイレに煌々とした灯りがあって喜ぶ人は少ない。 トイレにはトイレに見合った灯りがある。 私たちボランティアが真っ先に考えなければいけないことだ。 「キレイな字ってどんな字だ」 例え好きの彼が問う。 「…相手に分かる字だ。 相手が読みやすい字が、キレイな字なんですよ」 なるほど。 彼はボランティアについて具体的にうんぬんかんぬん言わないし、批判もしない。 ただ、この一見単純な例え話に、支援の本質が詰まっている気がする。 「一酒百茶。おれはこの言葉が好きだ」 百回茶を飲むより、一回酒を呑んだ方が、腹割って話せるんだ、と言う。 ボランティアも忙しいもんだが、地元の人と一杯やりながらじっくり話してほしい。 --- 見当違いのボランティアに対し、引きつった顔で「ありがたいです」とお礼を言う地元の人。 支援、助けてあげたい、そういった想いがボランティアの前提にある分、地元の人も本音でNOと言えないのが事実だ。それに気付かずご満悦な様子で帰路につくボランティア。 私は、同情と差別は2つの点で共通していると思う。 1つ。カテゴライズ。 この人は、きっと可哀そうな人たちなんだ。そういう風にこちらの都合で決めつけ、個を見ずにカテゴリー化して見る。 それは差別の構造と似ている。「あいつは○○人だから嫌い。あいつは○○病だから嫌い」 個の事例を見ようとしない。 2つ。上から目線。 困っている人たちに対して、何かしてあげたい。その目線は、いじめや差別をする際の目線と奇妙なほど似通っている。 両者紙一重だ。これは、あくまで私の個人的な意見。 だからまず、一人一人を見てほしい。「可哀そうな被災者」でくくると、尊いはずの支援がとんでもないことになる。 --- そんなことを考えながら、みきおサンと呑む。 気づけば二人で一升空けてしまった。 |