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World as one family by Workcamp [2013年03月31日(Sun)]

旅は、常に陽と陰を伴う。

学生時代のワークキャンプもそうだった。
その最中は、いろんな楽しいことと辛いことが混じっているのだが、それでも最後を迎えると「あぁ、旅をしてよかったなぁ」という漠然とした優しい気持ちに包まれる。
しかし、旅を終えて帰って独り寝慣れたはずの布団の中に入ると、急にノスタルジックななんとも虚しい気持ちに襲われる。それが辛くて辛くて。

旅はこの耐えきれない虚しさ無しには完結しない。それが嫌で、旅なんてもうしたくないと思ったこともしばしばある。

---

長い旅が今日終わった。
実に365日。1年という長い旅だった。
ろくに素性も知らない4人との共同生活が始まり、たくさん怒って、わめいて、精神ぶっ壊して、それと同じくらい支え合って、いい仲間に出逢ったなぁとか感慨深くなって、また怒って。1年間、バカみたいにそれを繰り返した。

今日、最後の常駐を終え、しょうことえまがそれぞれ復学するためにそれぞれの帰るべき場所に帰った。

---

いつこ、くによし、しょうこ、えま、本当にありがとう。
こんな自分についてきてくれたあなたたちは、私のたからものです。
とりあえずの一区切りとして、私の人生を変えた言葉のひとつを贈ります。

「World as one family by Workcamp」
(ワークキャンプが世界をひとつの家族にする)

ワークキャンプとは、何かひとつの目標に向かって一緒に汗をかきかき作業(ワーク)をして、一緒に共同生活(キャンプ)を営むこと。
そんなワークキャンプは、そこでたまたま出逢った他人をまるで自分の家族のような存在に昇華します。
そんなワークキャンプが、世界中で展開されたとき。世界中の若者がワークキャンプを通じてひとつの家族になるかもしれない。戦争がなくなるかもしれない。
私はこの言葉を2008年に知って、私の夢は第一歩を踏み出しました。
いつか、そんな社会をつくれるかもしれない。

ジョン・レノンの「imagine」の歌詞が大好きな人たちが、そこからヒントを得て、中国でのワークキャンプ活動のスローガンとして生み出した言葉です。私の尊敬する、たいらん、りょうすけさんたちです。

この1年も、いわばワークキャンプでした。
今なら少し分かってもらえるでしょうか。
こんな活動、ジコマンだギゼンだ、そんな批判はこれからも絶えません。
でも、唐桑で培った関係、地元住民との関係、活動仲間との関係も絶えません。

だから結局、人に執着するしかないんです。
人ありきの自分ですから。
諦めるのは簡単。だったら最終手段でいいでしょう。
これから出逢う仲間を含めて、仲間を何より大切にしてください。

zuttokazoku.JPG


その意味を込めて、先日これを贈りました。
いつか、社会を少しでもよくするような仕事を、一緒にやりましょう。
もうすぐ春 [2013年03月21日(Thu)]

2012年3月、FIWC唐桑キャンプが幕を閉じて、いつこ、えま、くによし、しょうこという4人が1年間の常駐を始めた。
いつこは大学を卒業してやってきた。
えま、くによし、しょうこは大学をそれぞれ休学してやってきた。

紆余曲折ありながら、8人で5月に「からくわ丸」を立ち上げた。
上の4人と、かじさん、べっち、ゆーきゃん、そして私。

いつの間にやら仲間は増え、一方で東京の後方支援隊の郭とケンカ別れし、
苦しみながらもからくわ丸の活動を拡大していった。

厳しい冬はピークを迎え、郭とも復縁し、年が変わった。
今年の目標とする漢字一字を毎年決めるのだが、2012年は「躍」だった。
飛躍、活躍の年にできただろうか。

2013年は「忍」にした。
周りの支えがあって自由奔放に生きてきた自分の青春時代。
新たな生活を前にして、耐え忍ぶことも学ぼうという意気込み。さらなる飛躍のために、じっくりやることも肝要。忍耐のないヤツには何もできない。虎視眈々と粛々と。
別に忍者になりたい訳ではないので誤解のないように。

そして、気づけばまた春が近づいていて、日中の気温が10度を超えるようになり思わず嬉しくなる。
3度目の3.11を迎え、今年は馬場の浜でひとり黙とうを捧げた。
馬場家のテーブルにもばっけが転がる季節になった。ばっけとは、ふきのとうのこと。
それはイコール4人の常駐期間も終わりに近づいたということ。
えま、くによし、しょうこは復学。
いつこは県内に就職。
入れ替わりで、まゆみが3月から常駐を始めた。

春は別れと出会いの季節で、それがまたなんとも言えない葛藤と期待を生む。

お世話になっている小松家に、また新たな命が生まれた。
お名前は「奏絵(かなえ)」ちゃん。
聞くと、名付け親は4月から唐桑小学校に入学するぴっか。お兄ちゃんになった。
「なんでも叶えてくれるように。もう津波が来ないことを叶えてくれるの」

今日はまた雪がちらついた。三寒四温。もう少しもう少し。
ちょうど昨年の今頃、くにあきさんに言われた言葉を頭の中で繰り返す。
「ここらの冬は厳しいから。春が近づくと自然と人の気持ちも上を向く」
雪の話と山の話 [2013年02月07日(Thu)]

どうでもいい話。

唐桑は太平洋沿岸ってことで、雪の日は決して多い訳ではない。
それでも、たまに雪が降るたびに気づくことがある。毎回、雪の種類が違うのだ。
「あぁ、この雪は湿っぽいねぇ」とか「この雪は積もるよぉ」とか地元の人は言う。
豪雪地域では、種類によって雪の名前がいろいろある、ということを思い出す。
また、雪の降らない赤道付近の国々では、「雪」を示す言葉がそもそもないらしい。
おもしろい。

言葉の話。
そう考えると世の中は言葉ありきじゃない。言葉は後付けのツールに過ぎないってことを知る。
言葉はあくまで物事を分類して他人と共有するための道具だ。ということは、地域によって風土が異なり、風土によって物事の分類の仕方も異なるので、言葉も自然に変わってくる。勝手に納得。

先日、信州(長野)の中野を訪れた。
まちづくり先進事例の視察のための訪問だった。
東西を荘厳な山脈に囲まれ、「北信五岳」と呼ばれる2000メートル級の5つの山がどしっと構えている。頭5つ抜きんでているので、何やらこっちを向いて5人で会話しているようだ。
「ほー、これが山脈か」と播磨平野で育った私は感嘆しっぱなし。ともすれば怖ろしい。山岳信仰という言葉を思い出す。
唐桑が恵みの海、恐怖の海に対して畏敬の念を抱くと同様、ここでは山々が畏敬の対象になったのだろう。「信仰」は「恐怖」、「恐怖」は「無知」に因る。確かにこんなデカイ山は計り知れない存在だ。

私たちが訪問した出川さんと車内で話した他愛のない話。
信州の人が他の地域に赴くと、「山がないんですねぇ」と言う。その地域の人は驚いて「見ての通り、山ならたくさんあるじゃないですか」と返す。
「信州の人にとっては2000メートル級のものが“山”であって、数百メートルのものは“丘”って呼ぶんだ」と笑いながら教えてくれる。
なるほど、唐桑の早馬山などは、彼らにとっては「丘」でしかなのか、とおかしくなった。
ちなみに唐桑で「おか」という言葉は、海に対しての陸地のことを指す。(“陸”は“おか”とも読む。)
漁師たちは、引退後加工会社など陸地で働くことを「おかで稼ぐ」という。
唐桑の人にとっての「やま」の概念は、信州の人にとって「おか」という概念。
唐桑の人にとっての「おか」の概念は、信州の人には無い概念。なぜなら信州という海無し国に、海に対しての陸地を指す道具(言葉)はそもそも不要。

地方を巡る醍醐味のひとつは、言葉だ。
明治以降社会の均一化を目指し造られた「標準語・共通語」、それが100年かけて定着した今の社会。
言葉は絶対的なものではなく、そもそも相対的な風土そのものだ。
今年もよろしくお願いします [2013年01月10日(Thu)]

おめでとうとは決して言わなかった2012年正月から1年。
今年はたくさん言いました。

あけましておめでとうございます。

5日のイベントに来てくださった皆さん、ありがとうございます。
計86名。スタッフ併せて100名が一堂に会しました。
みんなで「唐桑」に思いを巡らした2時間。
唐桑はまだまだこれからです!そう思える1日でした。

近々HPで報告書をアップします。

今年も唐桑で奮闘します。
よろしくお願い致します。

2013.1.1
加藤拓馬
唐桑は“人間”の生きる場所 [2012年12月12日(Wed)]

結城登美雄さんに初めてお会いした。
東北における地元学の第一人者だ。
この方、実は知る人ぞ知る「臨海劇場」「まちづくりカンパニー」の仕掛け人。

両企画のごくごく簡単な紹介は、ちょうど一年前に書いてある。
参考記事:
伝説のカンパニー(秋のまとめシリーズ2)
https://blog.canpan.info/entoki/archive/95

私が唐桑に魅かれた大きな理由のひとつだ。「このまちはおもしろい!」そう一年前に思った。

「結城マジック」という言葉を当時カンパニーに関わっていた住民は使う。
「みんな結城さんにだまされたんだなぁ」と嬉しそうに語る人が多い。

「俺のオリジナルはない。3000人のじじばばに会っただけ。たったそれだけ。
でも、それが大事。
ここ(唐桑)を次の世代が生きていける場にする。

ここは“人間”の生きる場所だ」

結城さんは唐桑のファン代表だ。
つながりはまたひとつ増えた。

結城さんと.JPG
Civic Forceとの協働 [2012年12月06日(Thu)]

現在私が活動中の任意団体からくわ丸-Karakuwa Designers Leagueは、公益社団法人Civic Forceとの協働が進行中です。

今メインでやっている活動が紹介されています。どうぞご覧ください。


「まち歩き」で見える地域の魅力――NPOパートナー協働事業
http://www.civic-force.org/activity/activity-987.php


"よそもの・わかもの・ばかもの"の力――NPOパートナー協働事業
http://www.civic-force.org/activity/activity-989.php


Civic ForceのNPOパートナー協働事業についてはコチラです。事業計画書上がってます。
http://www.civic-force.org/emergency/higashinihon/npo/part04/
RE:START [2012年12月05日(Wed)]

郭晃彰との協働が再開。

これで、外部とのネットワークづくりが再開する。
今回の上京は、いつものように数日だったが非常に濃いものになった。

拓のメンツや、大輔さん、FIWCの先輩たちに会い、ネットワークやつながり・縁の“わくわく”を思い出した。
西尾さん、たいらんと丸2日飲んで、原点の“わくわく”を思い出した。
Qiaoの後輩に会い、これからの“わくわく”を感じた。
吉本さんの話を聞いて、改めてまちづくりに“わくわく”を覚えた。

わくわく―
Gakuvoの外海さんがよく口にする言葉。
一番単純な部類の言葉なのに、いろんな意味が詰まっている。


目標は1月頭にからくわ丸の活動報告会を開くこと。
それまでに、現在活動中の「からくわ丸-Karakuwa Designers League」の事業内容や、その成り立ちなどを整理して書いていきたい。

からくわ丸の普段の動きは、活動ブログで。
「唐桑航海日誌」
https://blog.canpan.info/karakuwamaru
最初の友達 [2012年11月11日(Sun)]

今日、幼なじみのお葬式にいってきた。23歳の若さだ。
生まれてから阪神大震災が起こるまで、神戸の魚崎で一緒に過ごした。
母は言う。「あなたの人生の最初の友達ですから」

8か月に及ぶ闘病生活を耐え抜いた。
ひとまずゆっくり休んでください、と伝えたい。

彼が遺した言葉がある。


「希望という骨にしがみつく闘犬のように」



私は死ぬまで生きることにした。
“いつだって今が大事だからね” [2012年11月08日(Thu)]

ずっと私の活動を応援してくれている岡山の矢部夫妻からお手紙が届いた。
后代さんの達筆な字でこう書かれてあった。一部抜粋させてください。

---

たくまも来年以降のことを案じる気持も解かるけど、
いつだって今が大事だからね。

今何がやれるか?
やりたいか?
やっているのか?

仲間が増えたんだから、思い切りやって下さい。
そのうち又会いましょう。呉々も風邪などに気をつけて。

---

ぶるっと心が震える。いつだって后代さんはお見通しだ。
今を単なる通過点としてしか見てない、いや、ないがしろにしている自分が、あわてて顔を隠す。

今、本当に思いっ切りやってるか?
続・月日は百代の過客にして [2012年09月03日(Mon)]

「月日は百代の過客にして、行きかう年も又旅人なり。」

今まではろくに味わいもしなかった、かの松尾さんの名コピー。今になって、しみじみいいポエムだなぁと思ったりする。老けた。
「月日っちゅうもんは、ずーっと旅してる旅人みたいなもんで、行ったり来たりする年もまた旅人みたいなもんやなぁ…」きっと関西弁ではなかっただろうけど、きっと松尾さんはある時しみじみと思ったのだろう。
こういうスーパーな歌人や俳人という人種は、現代でいうと最強コピーライターといったところか。パロディが上手で、音のリズムは完璧。(「百代之過客」とかも李白の詩からの引用。)ぜひ、松尾さんに唐桑のコピーとか考えてもらいたい。
何の話だ。

---

つづき

トロトロっとした山菜にやみつきになり始めたころに山菜の時期が終わり、
6月末(旧暦5月5日)にご節句を迎える。
全てが初めてで、全てに驚く。
まず、菖蒲(ショウブ)とヨモギの葉を玄関の屋根から垂らす。
菖蒲湯に入る人もいる。
とりあえず餅をついて食べる。
そして、鯉のぼりをまた上げる。
…印象に残っているのはこれくらいか。
「正月でもあるまいし」とか思いながら初夏の餅を頂く。
「(ホンモノは)やっぱり旧暦なんだよね。新歴の5月5日じゃ、菖蒲もヨモギもまだ大きくなってないからね」という地元の人。
唐桑半島の背骨である県道を走っていると、数えきれない鯉が目に飛び込んでくる。よそ見運転で危ない思いをしたくらい、鮮やかな鯉たちが唐桑の空を泳いでいるのだ。
さらに、唐桑の鯉のぼりはレベルが高い。
写真 (52).JPG

このように、2本の竹を使って鯉を揚げる家が多い。これだと、風が吹かない日でも鯉がだらりとポールに纏わりつくことはない。そして風が吹けば2本目の竹もくるくる回るので、より自由に鯉が舞うのだ。なるほど、こっちがホンモノの5月5日なんだなと感心する。

7月を迎えようという頃、町がそわそわし始める。「いよいよだねぇ」といった感じだろうか。皆が口にするのは「カゼの開口(開港)」。
ウニ(カゼという)漁の解禁だ。漁協が乱獲防止のため、解禁日を決めて行う。年に何回もない。しかも早朝の数時間だ。しかし今年は震災の影響か、獲っても出荷用にはできないそうだ。それでも、腕が鳴る漁師は少なくない。箱メガネをもって海に繰り出す。

夏だ。
東北の梅雨は遅くやってきて、なかなか明けない。海風はべたべたする。
終日波の音が聞こえるほど海の近くにある馬場のアパートは湿気で悲惨なことに。
夜は夏の風物詩、漁火(いさりび)が煌々と海を照らす。
漁火とは、イカ漁のために船が発する灯り。水平線にだいたい等間隔に並ぶ強い光。とても幻想的だ。まるで、海の向こうに大都市があるような錯覚を覚える。
「あれがアメリカの西海岸の都市だったらおもしろいのに」とか思ってみたりする。

いよいよ気仙沼も30度を超え始める。ここからは仕事に忙殺。地域のお祭りのラッシュ。ボランティアの受け入れも激化。それでも、休みの日はこっそり海に飛び込んで、差し入れのスイカを食べて、去年は味わえなかった夏を満喫した。
「みなと祭り」では、気仙沼名物「はまらいんや」を楽しむ。「はまらいんや」とは「join us!!」の意味。市民がそれぞれグループを組んでエントリーするイベントで、「はまらいんや」という統一の音頭に思い思いの振り付けをつけ、それをただひたすら路上を行ったり来たりしながら大人数で踊りまくる、という体力勝負のクレイジーイベント。私たちは見学のつもりで行ったのだが、唐中グループのお母さん方に「はまらいん!!」と誘われ、そのまま中学生と走って踊って…
祭りとは本来こういうもんだ。決まった振り付けをひたすら繰り返し、自分を周りと同化させながら昇華させていく。イスラームのスーフィズムを思い出す。そんなことを考えてるヤツも自分くらいか。

ところで、温暖化現象とはウソではない。
私にとって最大の東北の魅力、それは「Gがいないこと」だった。Gとは、生物の大先輩ゴキブリ。
しかし、ここ数年で一気にGが北上している。(たぶん。)唐桑にも本格的にGが進出してきたのだ。地元住民にとりあえずGの恐ろしさをレクチャーする。

ご先祖様が帰ってきて、忙しいお盆を迎える。そして16日には盆舟でお送りする。「盆を過ぎれば秋」がセオリーの唐桑。夜は一気に過ごしやすくなり、22〜24度くらいまで落ちる。Tシャツ一枚でとても心地いい気温。あぁ今年もあっという間の夏だった…と感慨深くなる。唐桑に残暑はない…

はずだった。
「異常だ」
8月末に、みなが口を揃える。今年、昼間の気温が落ちないのだ。
去年の記憶では、9月に入るころはもう肌寒いくらいだったはずが、今年はまだ30度近く上がる日が連日続く。
まぁもっと酷い東京のことを思うと全然マシなのだが、とにかくこっちの今年の残暑は異常だ。そもそも残暑があることが異常なのだ。
温暖化とは極化である、というのを聞いた。このままだと、また今年の冬も異常な寒さになりかねないという予想。
去年のことを思い出す。「本当に越冬できるのだろうか」と真剣に考えたくらい寒かった。
暑いのは嫌だが、このまま年末に向けて気温が急降下していくのも怖い。

今日もじめじめした暑さ。でも、ふと空を見上げるときれいなウロコ雲が並ぶ。空はすっかり模様替えしたようだ。
こうやって季節のことに思いを馳せ、ふーっとたばこをふかす時間は好きだ。日本っぽいなと思う。
月日は百代の過客とは、よく言ったもんだ。と偉そうに感心するのだ。
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