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ミックスジュース [2011年07月28日(Thu)]

ある地元の人H氏が、こんなことを言う。

「今、唐桑には3種類の人間が住んでいます。

避難所にいる人、仮設住宅にいる人、在宅の人。

震災から4か月が経ち、その3者の意識が全く違ってきている」

在宅の人というのは、家が無事で、もしくは家を借りて在宅避難を続けてきた人たちのことだ。
かつての「皆で力を合わせて乗り切ろう」という意識は薄れている気がする。
これは唐桑の批判などではない。どの被災地でも共通の課題であろう。昔の記事にも同じようなことを書いた。

---

「奇妙な平穏」

とH氏は称する。在宅の人(以下、在宅)の間では、震災前の平穏さが徐々に戻りつつある。今までの生活が戻りつつある。が、H氏は言う。
「町に出ればこれだけのガレキがまだ目の前に広がっているんだ。その中での平穏さは、なんだか奇妙だ。おかしい。なぜ普通でいられるんだ」
この人は在宅を批判する。
「もう“我関セズ”の状態だ」
避難所や仮設へ気持ちが向いていないらしい。

H氏は、家が高台にあって無事だった。いわゆる在宅の人だ。

Y氏も在宅の人だ。
「震災直後から、俺は言ってきた。『物資は避難所へ回せ』
俺らは草食ってでも生きようと思った」

世間の注目が当然のように集まらないのが、在宅避難者だった。
しかし、少し想像すると在宅には避難所にない悲惨さがあったことが見えてくる。

酷いところでは数か月、水も電気もままならない状態が続き、
支援物資やボランティアは当然避難所が優先される。
かと言って、在宅の人は避難所に行けないのだ!
家が無事だった人が行くと、なんとも言えない空気に襲われる。「一度物資をもらいに行ったが、白い目で見られるのが嫌で、もう行かなくなった」と語る在宅のおばさん。申し訳ない気持ちになるらしい。
在宅が復興について何を語っても、避難所の人に言われるのは、「(お前は)家あるじゃん」「家残ったからそんなこと語れるんだ」。ひんしゅくすら買う。
Y氏は言う。「おらい(俺ら)が語ったって(言ったって)ダメだ」

物資がないからと言って、近所で買い物できるところはない。
スーパーもショップも流されてないのだ。残ったショップの中には、物価を数倍に上げたところもあると聞く。
どの家も蓄えを削って削って、発電機もしくは薪で寒さを凌いできた。

在宅と言っても、2種類に分けられる。壊滅地区での在宅と、被害が皆無だった地区の在宅。
Y氏は前者だ。家の周りには、もう何もない。
ガレキの山以外、本当に何もない。Y氏の家のみ、ぽつんと高台に残された。
残された家に、もうコミュニティはない。ご近所に、人がいなくなってしまった。これは老人にとってはかなりキツイ。話相手は虫かネコしかいない、と聞くこともある。在宅での孤独死もこれからあり得る。

さらに在宅の悪夢は続く。
被災した親戚が多い人には、その親戚たちから大量にモノが運び込まれる。
避難所や仮設住宅には、私物を置くスペースがない。結果、在宅の親戚を頼る。
「もう私の家はゴミだらけよ」
気仙沼で、半分ヒステリックになった在宅のおばさんに出会う。
「無事だった家具から、救援物資から、みーんな私の家に運び込まれたわ。挙句、その親戚たちの面倒も見ているわ。今月は葬式だらけよ…」
ぼろぼろだった。

トドメはこれ。H氏が言う。
「在宅は、り災証明が出ないんだ」
今、被災地では当然のように、り災証明一枚で何もかも優遇される。必要なことだ。
しかし、同じくらい被害に遭っている人たちでも「家が残った」というこの一点で、それが発行されない。これは、かなり痛い。

話を戻す。
H氏は在宅を批判する。
「もう“我関セズ”の状態だ」
しかし、その気持ちも分かる。今まで在宅の人たちは、支援も届かない中で、時にはひんしゅくを買いながら、歯を食いしばって、震災前の生活を取り戻しつつある。
H氏も、それを十二分に分かっている。だから、やりきれない気持ちになる。町が3つに割れてしまっているのに、どうしようもできない。

ボランティアにも頼らず自分の力でやってきたという“プライド”と、流された人や家への“同情”が複雑に折り重なって、

在宅は避難所と距離を置いた。

駄文はつづく
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コメント
ブログいつも読ませていただいております。今は離れていますが、高校までの18年間唐桑で暮らしておりました。現在も家族は唐桑にいます。家族もまた家が残り、在宅で複雑な想いを抱えています。唐桑の現状を理解し、長期的な支援をしていただいていること、本当に感謝しております。ありがとうございます。
Posted by: 唐桑出身のものです。  at 2011年07月30日(Sat) 00:15