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2017年4月5日〜6周年の備忘録 [2017年04月04日(Tue)]

(なにが復興だ)

馬場の浜を睨みつけた。船が何艘も巨釜沖に見える。
「なにやってんだがなぁ!」
電話の向こうで笑いながら泣いている。
「ぜってぇ見つけてやっからな。な!ぜってぇ見つけっからな。な!」
漁師のやっくんの決意と悲壮に満ちた声を電話越しに聞いて初めてボロボロ涙が出てきた。
まだ春は遠い、斜めの陽が射す昼前のこと。

陽が沈むころ、藤浜に揚がった難破船を囲む人だかりの中で、まもなく2歳になる心波(しんば)はお母さんに抱かれてとても上機嫌で、その笑顔が胸を癒しながら胸を締め付けた。

6年間唐桑にいた。
この4月5日を迎えると丸々6年になる。

震災があって私は唐桑に引き寄せられた訳だが、
私は今回初めて「海が憎い」と感じた。

あまりに大きな悲しみが襲ってきて、私は目をそらした。
曇った海の上に、大きな怪物が立っていた。
まずはえまやさちをはじめ仲間を守ることに決めた。私たちはいずれ必ず一代さんたちの力になるときが来ると思ったから。だから、それまでに自分たちが潰れてしまっては元も子もない。
が、実は仲間を想う自分に自分を酔わしめて、怪物から目をそむけていた。

同時に年度末の仕事の多忙さが自分を救ってくれた。家に帰ってからは何も知らない息子をあやす時間に救われた。

数日後、親分に乗せてもらって半日海の捜索にも出たが、まるで夢の続き。
見つけたい気持ちと見つけたくない気持ちがずっと巡って、飛び回る鳥に目を預けて「海は広いな大きいな」と口ずさむ。だって、水平線が丸い。唐桑半島から金華山までも丸い。

海が憎いと初めて感じました。
「そう言うな」
酔った地元のあるおんちゃんが言う。
「これが海のまちなんだ」
このおんちゃんが涙を流したのはこの6年初めて見た。

「親父を海で亡くした友だちは、ざらにいたさ」
ある地元の先生が語る。

「豊かさを享受するとはこういうことなんだ」

「なぁ。海は、海で、海なんだ」

なんなんだこの人たちの達観は。
一見、他人事。でも他人事だから言えるんじゃない、自分事だからこそ出る自然への尊敬と挫折と諦観。


今回、私はこの漁師まちの真髄を見ました。
豊かさの陰に隠れた悲しみが鎖のようにつながっていました。

それが歴史でした。海にまつわる伝統芸能はじめみんなそうでした。

今日、事故後初めて一代さんに会いました。
私は今回教わったこの「豊かさ」を次の世代に伝えていく決意を、
泥のようになった心情の中に手を突っ込んで掴み出そうとしています。

---

3月23日朝、唐桑沖で海難事故がありました。
盛屋さんという私たちが震災以降ずっとお世話になってきた家です。
今「唐桑御殿つなかん」の今後をみんなで考えていこうとしています。

この記事もひとつの役割と信じて、備忘録として。
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はじめまして。
私は、気仙沼出身で広島在住の宮田と申します。

息子が自閉症のため、震災後すぐに実家に駆けつけることができず、「彼が健常者だったら」と彼が生まれて初めてそう思う自分に苦しんだことが今も忘れられません。

母や妹や友人達が住む故郷気仙沼の力に全くなれない自分なのに、
加藤さんのように外からいらした方々が気仙沼を愛し、
活動されていることに心から感謝し、尊敬するとともに、
陰ながら応援しておりました。

実は、私の亡父も遠洋マグロ漁船の船員で、一年に一度しか帰ってきませんでした。
父の出船は、父が死ぬかもしれないという恐怖心から大嫌いで、
いつも紙テープばかり見て、父を見ることができませんでした。
あまり好きではなかった父でしたが、命と引き替えにマグロをとって私達の暮らしがあると子供の頃から思っていて・・・。
実際、隣の幼なじみのお父さんも船員で、陸では治る病気で洋上で亡くなりました。

でも、でも、私は海が大好きで、何かしら辛くなると、
波が全くなくて気仙沼とは大違いの瀬戸内の海を見に行くのです。

ブログにあった、
「海は、海だべ」
その言葉に私や気仙沼の人々の海に対する心情といいますか、
いえ、海は心ではなく、
血と肉、体の中に蓄積されたものになっていることが表れているなあと、思わずぼろぼろ涙がこぼれてしまいました。

つなかんさん、
本当にお悔やみの言葉もみつかりませんが、
どうぞ、皆様で何とか、何とかこれからの暮らしを
作っていっていただきたいなと、
祈ることしかできませんが・・・。

加藤さんも、ご自愛され、
ご家族もご友人も、会社の方々も、
日々のささやかな幸せと、新しい気仙沼の創造という壮大なチャレンジとが大きく達成されますように、
広島から念を送ります(笑)
Posted by: 宮田 文子  at 2017年04月12日(Wed) 10:47