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からくわ丸活動ブログ「唐桑航海日誌」
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春の写真その2 [2013年05月23日(Thu)]

つづき

P4272311light.jpg

4月27日、集まろう唐桑音楽祭。
ついに、宿地区の打囃子と松圃地区の虎舞の夢の共演が実現。紺色の衣装が宿、赤が松圃のメンバー。
(私は舞台上の松圃側で叩いています。)
前半は宿が叩き、後半は松圃が叩く。そして、気仙沼みなと祭りで定番の「みしおね」を協奏。
やはり音を重ねると迫力が違う。
地区の「音」ではない。これが唐桑の「音」だ。
太鼓の演舞は地元でも安定の人気を誇る。いろんな方から好評をいただいた。これは次の共演に期待がかかる。

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4月29日、山菜採り。唐桑の某所で地元のおんちゃんと。
わらび、たらっぽ、しどけ、こごみ!どれもこれも定番の調理方法が決まっていて、美味。
この時期は山には山菜ハンターが続出する。みんな春の味を求めて山に繰り出す。
多少のセシウムはご愛嬌。
山のふもとの沢で水を汲み、その場でごくごく飲める。そしてはしゃぎすぎてパンツまでびしょびしょ。
帰宅したらば、わらびのつぼみをとって下ごしらえ…は女性に任せて、夜には花見という名目で山菜パーティー。

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5月3日、カゼの開口。馬場浜にて。
ウニのことをこっちではカゼという。ついにこの季節がやってきた。
早朝数時間だけのウニ漁の解禁だ。
写真では一隻しか写ってないが、このような通称、船外機と呼ばれる小舟を出して、箱メガネを口でくわえて、海を覗き込む。そしてカギのついた数メートルもある長い棒で海底のウニをひょいっと取るのだ。
それは達人芸だという。
年に何度もないウニ漁に浜の漁師の腕は鳴る。ちなみに今回は出荷用ではなく、自家消費用。
唐桑のご近所さんにウニが出回る。

春が来て、気持ちのせいか海の色は黒みのないすがすがしい、でも深い、青色を演出する。
山の緑も杉林以外はなんとも言えない黄緑色に染まる。落葉樹林の見どころだ。
見てるこっちまで春の到来を祝福したくなる。

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5月10日、勝手に命名「唐桑御殿の日」。5=ゴ、10=テン。
からくわ丸の創立記念日だ。1周年を迎えた。
その日に郭晃彰が訪唐して、ワークショップを開いた。テーマは「おらいの御殿」プロジェクト。
かつもとさんがホームに来てくれた。
プロジェクトの詳細は後日明らかにする。

いつの間にやら仲間は増え、素敵な1周年を迎えることができた。
からくわ丸の地元メンバー、通称「ルーキーズ」から祝福の一升瓶が事務局に贈呈された。
P5102674light.jpg

2代目代表じゅんちゃんと。

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5月19日、津本の山にて。地元メンバーとこんこんと、たけのこ堀り。
たけのこ堀り、改め、たけのこ駆除については昨年の記事で紹介している。
(参照記事:「月日は百代の過客にして」http://blog.canpan.info/entoki/archive/120
昨年のこの時期にたけのこ堀りに行ったきりだったので、タケノコバスターの師匠でもある三浦さんとは実に1年ぶりの再会。犬のちょーすけも元気。ぐるっと1年経ったな、とここでも感じる。
掘ったたけのこは、ワカメと一緒に姫路の実家に送った。

---

春だ!
最高気温も安定して20度を超えるようになった。厳しい東北の冬が終わった。
こんなに春のありがたみを感じたことがかつてあっただろうか。
虫が出る!
冬に敷いた砂利の間から雑草が顔を出す。
たんぽぽの綿毛が一斉に舞う。
ふきがどんどんおがる(成長して伸びる)。

気づけばこの遠東記では季節について言及することが多い。
それが本来の感性なのかもしれない。
いつからこんな自然大好き系男子になったのか。可笑しくなる。

つい先日の休みの日。
することもなく、かと言ってPCを開くのもやんたくなって(嫌になって)、畑でばあばと一緒にブロッコリーの処理をする。最後に残ったおいしそうなところだけ摘んで、あとは引っこ抜く。
「あとは残してても、めくせぇ(見た目が悪い)から」と、ばあば。
そっちの畑でじいじはトマトの自家製ミニハウスを黙々と建てている。
「口出しすっと文句語られっから、一緒にやらないのよ」と語るばあば。
そのうち、まきちゃんが来て、かぼちゃんが来て。最後はハウスのまわりに集まって、あーだこーだとじいじに嫌味を言いながら歓談。

えいかとかずみが「たくまーーー鬼ごっこしよ!」と走ってくる。鬼ごっこは勘弁してくれ。
畑の一角に案内される。
「ここがえいかの畑なの!じいじが柵を立ててくれたの。」
へー!何植えるの?
「トマト!」
小学3年生になった2人は、ごろごろとネコ(一輪車)を押してくる。
家の裏で摘んできた八重桜とたんぽぽの花が載っている。
それをえいかが自分の畑の隅に誇らしげにそっと飾った。
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春の写真その1 [2013年05月16日(Thu)]

5月のGWが終わって1週間以上経つというのに、まだ寒い日がちらほら。
月曜の朝の気温は一桁で、夕方には吐く息が白かった。やっぱり東北は信じられない。
と思えば、火曜の気温は20度前後まで上がっている。
火曜は全国的に異常な暑さで、真夏日を記録するところが続出。
水曜、木曜はまた肌寒い。

体調管理が非常に難しい季節、その真っ只中。

この春の写真を振り返りたい。

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4月上旬、荒れる馬場の浜。
こんなに荒れたのを近くで見たのは初めて。地元の人も驚いていた。ビールの泡のように、海が真っ白になる。雲の上みたい。防波堤にぶち当たり、何メートルも空に飛び上がる波。波しぶきは霧のように辺りに漂い、ひやっと潮の匂いに包まれる。

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4月下旬、大沢漁港にて。
唐桑公民館・小原木公民館の企画で、毎年行われている鮭の稚魚の放流だ。
対象は、唐桑小学校2年生14名と小原木小学校1・2年生10名。

「ぇ?これで2学年なんですか?」と驚く。小原木の1年生は4名、2年生は6名しかいない。
そもそも1学年14名の唐桑小学校も少ない。
合併の話が出ている両校のお友達が対面。

地域の漁師さんの協力で、鮭の稚魚をバケツにもらい、それを手で海に放す。
私は去年も参加したのだが、今年の稚魚は去年より大きく数センチの赤ちゃんたちだった。
「かえってきてねぇぇーーー」
「ぜぇったいーからくわにかえってきてねぇぇーーー」
子どもたちがそう鮭に向かって叫ぶ。
なんと微笑ましい光景だろうか。

しかし、子どもたちがあまりにも浅瀬に放すものだがら鮭たちも泳ぐこともできずにぴちぴちしている。波の力で再び浜に打ち上げられる鮭も。それを子どもたちが「帰ってきてね」と叫びながら誤って踏んづける始末。
こりゃ、鮭もたまったもんじゃない。私たち大人の密かな役目は、そういう鮭の救出だ。

将来、また大沢漁港に帰ってくる鮭たち。そして、ここでまた子を産む訳だ。
私が痛感するのは、絶対唐桑に帰ってきてほしいのはあなたたちですよ、ってこと。

ただでさえ少ないこの子どもたちのうち一体何人が、ここ小原木そして唐桑に残るのだろうか、もしくは帰ってくるのだろうか。

うわーっと海に向かって叫ぶ子どもたちに向かって逆に叫びたくなる。
「お前らも絶対に帰ってこいよーー」

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同じく4月下旬、市民会館にて。
東京と1ヶ月近くもずれが出る桜の開花。
ある地元住民の熱望で数年ぶりに復活した、市民会館の夜桜ライトアップだ。
うっとりした。やっぱ桜はいい。日本オリジナルの感覚。
ちなみに、八重桜は今日もまだ咲いている。そろそろ散りそう。
この前、ふぁんちゃんが東京から来てびっくりしてた。
「まだ桜がある!」

つづく
続・松圃虎舞 [2013年04月21日(Sun)]

約2年前に書いた記事の続き、という位置づけで「続・松圃虎舞」。
(参照記事:「松圃虎舞」http://blog.canpan.info/entoki/archive/61

あれから2年間、松圃地区の伝統芸能である松圃虎舞で、太鼓を叩き続けてきた。
大太鼓を叩くようになり、それもいつの間にか最前列のセンターに立たせててもらうようになった。
どこかで「よそものなのに本当にいいのか」と申し訳ない気持ちがありながら。

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虎舞保存会のみんなで一関まで遠征に行ったり、唐桑中学校の還暦祝いで叩かせてもらったり、まるさんで呑んだり、この伝統芸能がいろんな人をつないでくれる。
そこで出逢った、ゆーきゃんやこうがは今やからくわ丸のメンバーとして一緒に活動中。
くによしやいつこ、しょうこも昨年度は一緒に参加してくれた。

ゆきひろサン、はるしサン、まさとサン、いわぶちサンを始めとする地区の太鼓の先生たちの教えが好き。何がおもしろいかというと、先生それぞれ叩くスタイルが異なるのだ。
ゆきひろサンは、虎のお囃子調に舞うようにリズムを体でとりながら軽快に叩く。
それでも、叩き方が鋭いので、一見軽いバチさばきで私の何倍もいい音を出す。
まさとサンは腰をひいてしっかり固定させて叩く。手の動きが映える。
はるしサン、いわぶちサンは、力強く叩く。「タメ」が重要だと教えてくれるいわぶち先生。
さらにおもしろいのは、この先生方のそれぞれ息子さん、娘さんが(みな地元の中高生)、それぞれ親と同じスタイルなのだ。叩き方がそっくりで、親の背中を見るとはこういうことか!と感嘆する。

松圃の太鼓は、基本の叩き方を統一した上で、それぞれのアレンジを加えていく。
テンポがゆっくりな松圃は、手の動きや身体の動きでも観客を魅了する必要がある。太鼓を叩くというよりは、太鼓とバチを駆使して舞うイメージ。
昔のスタイルはもっとバリエーション豊かだったらしい。叩いている最中にくるっと回る人もいたとか。
「昔は数台しかない大太鼓の取り合いだった」
上手い子どもだけが小太鼓から大太鼓に昇進できる。故にみんな必死に学び、叩き方を鍛えた。「俺のバチさばきを見てくれ」と言わんばかりに。

前回の記事の最後にはるしサンの言葉を引用した。
「自信をもって叩け!俺の音を聞けと言わんばかりに叩け。
ひと打ちひと打ちに魂を込めるんだ」
この言葉が大好き。
その上で「楽しむ」ことが大切だと先生たちは揃って言う。

この2年間で痛感したことがある。

叩き方そのものを覚えるのに苦労した時代は、本番でもとてもとても楽しめるような状況ではなかった。間違えないように打つ、それのみに集中して恐る恐る叩く。ひとりだけ違うところでドンっと叩いたら恥ずかしいではないか。格好うんぬんは二の次。
でも先生たちは「例え間違えても、間違えちゃった…という顔をするな。間違えても堂々としていろ。そしたら誰も間違えただなんて思わないから」と笑いながらアドバイスをくれる。

叩き方が身体に染み付いてきたのは1年経ってからだった。例え練習期間が数ヶ月空こうと、もう身体は忘れない。笛の音を聞けば叩けるようになっていた。
するとどうだろう、次は叩くのが楽しくなってくる。そして細かい足の動き、手の動きで「どう格好よく魅せるか」を自然と研究し始める。上に書いた先生それぞれのスタイルの違いに気づき始める。
いろんな先生のいいところを真似して、ミックスして、「自分の格好いいさばき方」を求めるようになる。

「自信をもって叩け!俺の音を聞けと言わんばかりに叩け。
ひと打ちひと打ちに魂を込めるんだ」

活動も一緒だ、と気づく。

最初は自信がない。学生上がりで社会を知らない自分に自信がない。恐る恐る復興のお手伝いをする。
次の一手が不安。故に楽しくない。
でも、活動の軸が見えてくると自信が生まれる。すると楽しくなってくる。
ひとつひとつの企画に魂を込めよう。
次は魅せ方を研究しよう。
ここはピタっと手を止める。タメる。そして、勢いを付ける。メリとハリ。
腰を落とそう。伸びるところは伸びて、しゃがむところはしゃがもう。

「地域の魅力を再発見する」
「わかものによるまちづくりを推し進める」
これがからくわ丸として、そして自分個人としての復興まちづくり活動の軸。


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4月、春の公演に向けてまた練習が始まった。
子どもたちが集まる。
目を疑う。この数ヶ月練習が無い間に、見ないうちにみんな少し大きくなっている。
3年目が始まった。

太鼓も活動もまだまだ楽しめるのはこれからだ。
2013年4月5日2周年〜新年度ご挨拶〜 [2013年04月05日(Fri)]

2011年4月5日。
ガレキをよけながら、真っ暗な唐桑に入った。
あの日、初めて見た唐桑の星空が忘れられない。停電という悲劇が生んだ奇跡の星空。

2012年4月5日。
朝から、拠点のプレハブでKECKARAの会計の整理をしていた。

2013年4月5日。
朝、市役所に出勤して、昼、気仙沼NPO/NGO連絡会に出席。


気仙沼・唐桑に住み始めて、まるまる2年が経った。
ちょうど1年前のブログにこう書いている。

「先が読める人生もいいが、1年先すら読めない人生も悪くない。
まぁまだ若いからね、と自分で言い聞かす。」

しかし、まさかその1年後に市役所にいるとは…
読めないにもほどがある。

---

まちづくり団体「からくわ丸-Karakuwa Designers League」の代表は3月31日に降りました。
4月1日より、地元唐桑の若者が新代表に就きました。
そして、12名の地元若者メンバーを中心に再スタートを切ります。
からくわ丸は地元団体になります。
私と新たな駐在スタッフ岡崎の2人は事務方のサポートにまわることになりました。
からくわ丸を応援してくださっている方々、引き続き幣団体をよろしくお願いします。


そして…
この4月1日より、小生は晴れて気仙沼にてお勤めすることと相成りました。

気仙沼市役所 震災復興・企画部地域づくり推進課
地域支援員 担い手育成支援事業担当 (嘱託職員)

ということです。
…要するに、まちづくりを今後担っていくのは地域の若手であり、その若手とともに復興そしてまちづくりを考えていこうじゃありませんか!という今の私にはうってつけの業務です。
新生からくわ丸のサポートはじめ、これからは気仙沼全市に目を向け、活動に邁進する所存です。

市役所の慎太郎さんという方との出逢いがそうさせてくれました。

馬場さんはじめ唐桑・気仙沼の地元の方々、そして気仙沼で出会った支援者の方々、応援してくれる方々、全ての出会いがつながります。
「貴方は人運に恵まれていますね」とよく言っていただけます。
しかし私は、「よき出逢い」とは足でかせぐものだと思っています。降って湧いたような「出逢い」などありません。
これからも飽くことなく、出逢いに貪欲でありたいと思います。

今まで「就職もしないで…」と心配してくださった地元の方々、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。

---

ちょうど1年前のブログにこう書いている。

「私は1年後、どこで何をしているのでしょうか。
今はなんとなく見えます。きっと、ここらへんで相変わらず唐桑の人と呑んでいるのでしょう。」

予報は当たった。今日も拠点のプレハブで唐桑の若者とくだらない話をしながら呑んでいる。
そして1年後もきっと。

(参照記事:「1年経って」http://blog.canpan.info/entoki/archive/114
【重大発表】からくわ丸のじゅいじゅいラジオ!! [2013年04月02日(Tue)]

からくわ丸のブログから転記します!全国で聞けますので、よろしくお願いします。

“唐桑航海日誌”
http://blog.canpan.info/karakuwamaru

(以下)

なんと、この度からくわ丸がラジオ番組をはじめることになりました!
その名も…

からくわ丸のじゅいじゅいラジオ

けせんぬまさいがいエフエム
【隔週水曜日!夜10時10分〜!】

気仙沼市唐桑地区の情報をゆる〜く伝える楽しいラジオです。
唐桑生まれのDJネウとDJドンコがぐだぐだパーソナリティ初登板!!
アドリブトーク炸裂でリスナーの方がハラハラします。
ごめんなさい。
イベント情報から唐桑の季節の魅力アピール、素敵なゲスト登場などなど
フリートークとミュージックで唐桑を発信中―
【隔週水曜日!夜10時10分〜!】
※からくわ丸による完全手作り番組です。
当番組における放送事故および失言などについては一切その責任を負い…ます。


ということです。さて気になる初回放送は…

4月3日
夜10時10分〜10時40分


けせんぬまさいがいエフエム
http://www.km-saigaifm.com/


↑ここにアクセスして、トップページから「サイマルラジオ」へ。
けせんぬまさいがいエフエムの「放送を聴く」をクリック!

以上です。ぜひ、みなさん聞いてくださいね。
感想・DJへの質問メールやお問い合わせは、
info@karakuwamaru.net
です。よろしくお願いしま〜す。

事務局長たくま
World as one family by Workcamp [2013年03月31日(Sun)]

旅は、常に陽と陰を伴う。

学生時代のワークキャンプもそうだった。
その最中は、いろんな楽しいことと辛いことが混じっているのだが、それでも最後を迎えると「あぁ、旅をしてよかったなぁ」という漠然とした優しい気持ちに包まれる。
しかし、旅を終えて帰って独り寝慣れたはずの布団の中に入ると、急にノスタルジックななんとも虚しい気持ちに襲われる。それが辛くて辛くて。

旅はこの耐えきれない虚しさ無しには完結しない。それが嫌で、旅なんてもうしたくないと思ったこともしばしばある。

---

長い旅が今日終わった。
実に365日。1年という長い旅だった。
ろくに素性も知らない4人との共同生活が始まり、たくさん怒って、わめいて、精神ぶっ壊して、それと同じくらい支え合って、いい仲間に出逢ったなぁとか感慨深くなって、また怒って。1年間、バカみたいにそれを繰り返した。

今日、最後の常駐を終え、しょうことえまがそれぞれ復学するためにそれぞれの帰るべき場所に帰った。

---

いつこ、くによし、しょうこ、えま、本当にありがとう。
こんな自分についてきてくれたあなたたちは、私のたからものです。
とりあえずの一区切りとして、私の人生を変えた言葉のひとつを贈ります。

「World as one family by Workcamp」
(ワークキャンプが世界をひとつの家族にする)

ワークキャンプとは、何かひとつの目標に向かって一緒に汗をかきかき作業(ワーク)をして、一緒に共同生活(キャンプ)を営むこと。
そんなワークキャンプは、そこでたまたま出逢った他人をまるで自分の家族のような存在に昇華します。
そんなワークキャンプが、世界中で展開されたとき。世界中の若者がワークキャンプを通じてひとつの家族になるかもしれない。戦争がなくなるかもしれない。
私はこの言葉を2008年に知って、私の夢は第一歩を踏み出しました。
いつか、そんな社会をつくれるかもしれない。

ジョン・レノンの「imagine」の歌詞が大好きな人たちが、そこからヒントを得て、中国でのワークキャンプ活動のスローガンとして生み出した言葉です。私の尊敬する、たいらん、りょうすけさんたちです。

この1年も、いわばワークキャンプでした。
今なら少し分かってもらえるでしょうか。
こんな活動、ジコマンだギゼンだ、そんな批判はこれからも絶えません。
でも、唐桑で培った関係、地元住民との関係、活動仲間との関係も絶えません。

だから結局、人に執着するしかないんです。
人ありきの自分ですから。
諦めるのは簡単。だったら最終手段でいいでしょう。
これから出逢う仲間を含めて、仲間を何より大切にしてください。

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その意味を込めて、先日これを贈りました。
いつか、社会を少しでもよくするような仕事を、一緒にやりましょう。
「ボランティア活動からまちづくり活動へ」(後編) [2013年03月27日(Wed)]

(つづき)

「地元学」という手法を知ったのもこの時期だった。地元学とはその名の通り、「地元から学ぶ」作業で、熊本県の水俣のまちおこしに取り組んだ吉本哲郎さんは地元学について「“ないものねだり”から“あるものさがし”へ」という言葉で説明する。高齢化、過疎化が進む地方の現状として、「自分たちの地元には何にもない」と嘆き、衰退をやむなきこととしている田舎が多い。そこで吉本さんが呼びかけているのは、住民が自ら地元を歩いて調べ、地元に「あるもの」を探そうという取り組みだった。「ここにしかないもの」「どこにでもあるもの」「困っているもの」「余っているもの」「捨てているもの」全部が地元に「あるもの」だ。住民は住んでいるからこそ、意外と地元のことは知らなかったりする。そこでポイントがある。よそものを上手く使うことだ。上にも書いたが、外部の客観的な視点を導入することこそ、まちの魅力を掘り起こす手っとり早い方法なのだ。

唐桑もまた震災前から高齢化と過疎化が深刻な場所だった。地元学を本で知り、吉本さんに会い、私の唐桑での見様見真似の地元学が始まった。「まち歩き」というプロジェクト名で、地元住民と大学生がグループを組んで、まちを散策する。すぐに成果なんて出ない。「歩いてどうするんだ?」とよく問われる。課題は多い。地道な戦いが始まった。

4月には住民票を移し、晴れて気仙沼市民に仲間入り。5月には、まちづくりのための新体制に移行すべく、数名の常駐メンバーと地元住民と「からくわ丸」という団体を立ち上げた。漁師町である唐桑を大きな船に見立てて、からくわ丸は出航した。リアス式海岸に恵まれ、海の幸も山の幸もある豊かな自然、半島という地理的閉鎖性が生んだ独自の文化、昔から続く家々が織り成す集落の連帯意識。唐桑には日本に誇れるものがたくさんある。地元学の「あるものさがし」こそ、これからの長い長い復興のベースになるものだと考えた。



私たちは現在、とあるプレハブ小屋を拠点に活動しているのだが、夏ころからか、地元の若者たちが夜な夜な集まるようになった。同じ20代だ。彼らと話すうちに、「外から来たヤツらが一生懸命ウチの地元でやっている。同年代のオレらが何もしない訳にはいかない。何か活動に協力したい」と言ってくれるようになり、今では同じからくわ丸としてまち歩きに参加してくれたりする。

唐桑に来てもうすぐ2年。紆余曲折を経ながら、ふらふらと進んできた道だった。しかし、そこで新しい夢が生まれた。この唐桑、そして気仙沼で、3つの“もの”が集まって、まちおこしをする。それを他の市町村にも広げて、これから日本中で続出するであろう地方の課題の先進事例のひとつにすることである。

私の部屋には一枚の写真が飾ってある。中国で、私に「人とのつながり」の難しさと大切さを教えてくれた村人の写真である。彼はもう世を去ったが、今も昔も微笑んで、こちらを見てくれている。

おわり
「ボランティア活動からまちづくり活動へ」(前編) [2013年03月26日(Tue)]

第三章も終わりにすることにした。
最後に、私がどういう人なのか、一度も自己紹介をしたことがなかったので、年末に書いたとある文章を転記することにした。
4月から新しい活動が始まる。

---

「ボランティア活動からまちづくり活動へ」


今思うと私の20年そこそこの人生は、大震災が付きものである。

1989年兵庫で生まれ、神戸で育った。小学校入学前に、阪神・淡路大震災を経験。自宅のアパートは無事だったが、まちはとても住めるような状態ではなくなった。震災直後に同県の姫路の母の実家に移住、そのまま姫路で小中高時代を過ごした。「故郷はどこですか」と尋ねられると姫路ですと答えるのだが、今でもどこか引っ掛かりが残る。今はもう足も運ばない神戸の魚崎という町がちらっと頭をよぎる。震災は私から神戸を奪った、なんとなくそんな気がしていた。

2007年に早稲田大学に入学。在学中は中国でハンセン病問題に関する活動、いわゆる海外ボランティアに没頭した。2011年、大学を卒業する直前に東日本大震災を経験。卒業後東北に移住し、現在まで気仙沼市唐桑町という小さなまちで復興支援活動を続けている。

「復興支援活動を続けている」と書いたが、この1年半の中で活動の内容は大きく変化した。それがタイトルにある「ボランティア活動からまちづくり活動へ」。今、被災地の現場では、外部のマンパワーによる緊急支援が必要なフェーズは終わり、住民主導による長期的な復興まちづくりが求められている。

その辺を詳しく掘り下げる前に、東北入りした経緯から書いていきたい。



大学時代は、年に2回長期休みを利用して中国に通った。「ハンセン病回復村」と呼ばれる村に赴き、「ワークキャンプ」を開催した。ハンセン病回復村とは、もともとハンセン病に罹り、差別や偏見を受け半強制的に隔離された患者たちの療養施設だった。しかし、病から回復した後も差別、偏見は残り、故郷に帰ることができず、「回復者」として人里離れたこの施設に留まる。施設とは名ばかりで、老朽の進んだ家屋にひっそりと住み続けることを余儀なくされている。高齢化も進んでいる。これが回復村の現状であり、世界中に同様の状況は見られる。一方ワークキャンプとは、労働作業(ワーク)を通して、道の舗装、トイレの建設などなど村のインフラ整備を行いながら、村で2週間程度村人と共同生活(キャンプ)を行う活動だ。私たちの活動は、日中の大学生が10〜20名ほど集まり共同でキャンプを開催する。このワークキャンプが私にとって非常に魅かれるものだった。何か小難しいことをする訳ではない。昼間は働き、夜は村人とパーティを開きゆっくり話す。インフラの整備だけでなく、病を恐れ誰も近寄らなかった村が徐々に地域に開かれていくのが目に見えて分かる。さらに辛い過去をもつ村人の生き様から、私たちのような裕福で無知な学生が学ぶことは多い。またキャンプを通して、村人と大学生は家族のような関係になる。「人とのつながり」を、身をもって体感する活動だった。ハンセン病回復者、健常者、中国人、日本人、そんなカテゴリーがどうでもよくなる瞬間とでも言おうか。国、民族、宗教、いろんなカテゴリーで紛争を繰り返す世界に、ワークキャンプを広めたら、おもしろいことが起きるんじゃないか、そんなバカでかい夢をもつようになった。

同時に、「ボランティア」という言葉に疑問を持った。ボランティアという言葉の響きには、どうしても「弱者のために尽くす自己犠牲」という意味合いを感じてしまう。しかし、人生の大先輩である村人は弱者だろうか。これは自己犠牲だろうか。そうではないとしても、この活動は誰のためのものなのだろうか。「村人のため」だとするとどこかで「偽善」と感じ、では「自分のため」と割り切ると「自己満足」じゃないのかと感じて、ぐるぐる悩んだ時期もあった。同じような悩みを抱える学生ボランティアは少なくない。

私の結論はこうだった。「あなたのため」と「私のため」、そもそも何で二択しかないんだ。これは「あなたと私の関係性」に資するものだ。あなたのためでもあり、私のためでもある、つまりあなたと私の「関係」を大事にするための活動。恋愛に似ているかもしれない。そう考えると「偽善」という言葉も「自己満足」という言葉も頭から消えた。誰かを「助ける」活動ではなく、誰かと「出会う」活動になった。そして言うまでもなく、これが現在の東北での活動の根底にある。



卒業が近づき、就職先の内定は得たものの、上記の「夢」があったので会社には長く留まらないだろうと考えていた。そんなタイミングで震災がやってきた。被災した方々には申し訳ないのだが、ここから何かが始まる気がした。大きなうねりとともに社会が変わる気がした。すると震災の次の日に、大学時代の先輩から「現場に行くぞ」とメールが来た。結局、半月の間悩みに悩んで、4月5日にワークキャンプ団体FIWC(フレンズ国際ワークキャンプ)の一員として気仙沼市唐桑町に入った。出社することはなかった。唐桑というまちはハンセン病と縁がある場所で、私たちを受け入れてくれる地元住民がいた。こうしてそのお宅を拠点として震災復旧ワークキャンプが始まった。私自身、唐桑は初めての土地だった。

夏までは、ひたすら瓦礫撤去をする毎日だった。災害ボランティアセンターの手の届かない地区だったため、自分たちでニーズを収集し、やってくるボランティアとのマッチングを図り、やがて唐桑のボランティアネットワーク「唐桑ボランティア団」を立ち上げるに至った。口コミとチラシで活動は広まり、あらゆるニーズが集まってきた。そのときは夏が終わると東京に帰ろうと考えていた。しかし、数ヵ月の住み込みでやっているからこそ聞こえてくる「地元住民の本音」がある。それは「ボランティアしてくれてありがとう。きっと唐桑は復興するよ」と言った綺麗なものではなく、震災から時間が経てば経つほど悪化していくコミュニティの現状だった。

ストレスがピークに達している避難所、先の見えない仮設住宅、そして支援が届かない在宅避難者。「もう唐桑から離れたい」「今、唐桑には3種類の人間が住んでいてバラバラになっている。避難所、仮設、在宅だ」田舎ならではの強固なコミュニティにひびが入り、住民の心は路頭に迷っているという風な印象を受けた。そこで、こんな言葉を知る。「まちづくりに必要な3つの“もの”がある。客観的な視点に立てる“よそもの”、次世代を担う“わかもの”、そしてがむしゃらに突き進める“ばかもの”」自分にはその3者の要素があるじゃないか。ここで帰るのはもったいない。結果、ボランティアが激減した夏以降も滞在は続いた。



どうにかして住民に前向きになれる話題を提供したい。もっと唐桑を好きになってほしい。子どもたちから故郷を奪っちゃいけない。神戸のまちがまた頭をよぎる。

こうして瓦礫の片づけが落ち着き始めた秋ころから、まちの魅力的なヒト・モノを取り上げた雑誌を制作することにした。そして、カンパと地元商店からの広告費でフリーペーパー「からくわ未来予報誌KECKARAけっから。」が完成した。「けっから」とは土地の言葉で「(タダで)あげるから」の意。そして、その1ページ目に大きくこう書いた。「夢みてぇな話、語っぺし」。唐桑に今足りないのは、物資でもカネでもなく、夢だと思った。

年が明け、気づけば一緒に活動について考える地元住民が増えていた。私の活動の悩み相談相手も地元の人になっていた。そしてまた3月11日を迎えた。「震災で失ったものは大きいが、“出会い”があった」そう言ってくれる地元の数名と一緒に静かに献杯した。これはもっと長期に渡って活動をやっていける。一方的な「支援」は長く続かない。これからは地元とよそものの「協働」なんだ。そして、上がってくるニーズに応えるだけの「復興支援活動」ではなく、これからはコミュニティの活性化に重点を置いた「復興まちづくり活動」にしていこう。東北の厳しい冬が終わりに近づいていた。

(つづく)
もうすぐ春 [2013年03月21日(Thu)]

2012年3月、FIWC唐桑キャンプが幕を閉じて、いつこ、えま、くによし、しょうこという4人が1年間の常駐を始めた。
いつこは大学を卒業してやってきた。
えま、くによし、しょうこは大学をそれぞれ休学してやってきた。

紆余曲折ありながら、8人で5月に「からくわ丸」を立ち上げた。
上の4人と、かじさん、べっち、ゆーきゃん、そして私。

いつの間にやら仲間は増え、一方で東京の後方支援隊の郭とケンカ別れし、
苦しみながらもからくわ丸の活動を拡大していった。

厳しい冬はピークを迎え、郭とも復縁し、年が変わった。
今年の目標とする漢字一字を毎年決めるのだが、2012年は「躍」だった。
飛躍、活躍の年にできただろうか。

2013年は「忍」にした。
周りの支えがあって自由奔放に生きてきた自分の青春時代。
新たな生活を前にして、耐え忍ぶことも学ぼうという意気込み。さらなる飛躍のために、じっくりやることも肝要。忍耐のないヤツには何もできない。虎視眈々と粛々と。
別に忍者になりたい訳ではないので誤解のないように。

そして、気づけばまた春が近づいていて、日中の気温が10度を超えるようになり思わず嬉しくなる。
3度目の3.11を迎え、今年は馬場の浜でひとり黙とうを捧げた。
馬場家のテーブルにもばっけが転がる季節になった。ばっけとは、ふきのとうのこと。
それはイコール4人の常駐期間も終わりに近づいたということ。
えま、くによし、しょうこは復学。
いつこは県内に就職。
入れ替わりで、まゆみが3月から常駐を始めた。

春は別れと出会いの季節で、それがまたなんとも言えない葛藤と期待を生む。

お世話になっている小松家に、また新たな命が生まれた。
お名前は「奏絵(かなえ)」ちゃん。
聞くと、名付け親は4月から唐桑小学校に入学するぴっか。お兄ちゃんになった。
「なんでも叶えてくれるように。もう津波が来ないことを叶えてくれるの」

今日はまた雪がちらついた。三寒四温。もう少しもう少し。
ちょうど昨年の今頃、くにあきさんに言われた言葉を頭の中で繰り返す。
「ここらの冬は厳しいから。春が近づくと自然と人の気持ちも上を向く」
雪の話と山の話 [2013年02月07日(Thu)]

どうでもいい話。

唐桑は太平洋沿岸ってことで、雪の日は決して多い訳ではない。
それでも、たまに雪が降るたびに気づくことがある。毎回、雪の種類が違うのだ。
「あぁ、この雪は湿っぽいねぇ」とか「この雪は積もるよぉ」とか地元の人は言う。
豪雪地域では、種類によって雪の名前がいろいろある、ということを思い出す。
また、雪の降らない赤道付近の国々では、「雪」を示す言葉がそもそもないらしい。
おもしろい。

言葉の話。
そう考えると世の中は言葉ありきじゃない。言葉は後付けのツールに過ぎないってことを知る。
言葉はあくまで物事を分類して他人と共有するための道具だ。ということは、地域によって風土が異なり、風土によって物事の分類の仕方も異なるので、言葉も自然に変わってくる。勝手に納得。

先日、信州(長野)の中野を訪れた。
まちづくり先進事例の視察のための訪問だった。
東西を荘厳な山脈に囲まれ、「北信五岳」と呼ばれる2000メートル級の5つの山がどしっと構えている。頭5つ抜きんでているので、何やらこっちを向いて5人で会話しているようだ。
「ほー、これが山脈か」と播磨平野で育った私は感嘆しっぱなし。ともすれば怖ろしい。山岳信仰という言葉を思い出す。
唐桑が恵みの海、恐怖の海に対して畏敬の念を抱くと同様、ここでは山々が畏敬の対象になったのだろう。「信仰」は「恐怖」、「恐怖」は「無知」に因る。確かにこんなデカイ山は計り知れない存在だ。

私たちが訪問した出川さんと車内で話した他愛のない話。
信州の人が他の地域に赴くと、「山がないんですねぇ」と言う。その地域の人は驚いて「見ての通り、山ならたくさんあるじゃないですか」と返す。
「信州の人にとっては2000メートル級のものが“山”であって、数百メートルのものは“丘”って呼ぶんだ」と笑いながら教えてくれる。
なるほど、唐桑の早馬山などは、彼らにとっては「丘」でしかなのか、とおかしくなった。
ちなみに唐桑で「おか」という言葉は、海に対しての陸地のことを指す。(“陸”は“おか”とも読む。)
漁師たちは、引退後加工会社など陸地で働くことを「おかで稼ぐ」という。
唐桑の人にとっての「やま」の概念は、信州の人にとって「おか」という概念。
唐桑の人にとっての「おか」の概念は、信州の人には無い概念。なぜなら信州という海無し国に、海に対しての陸地を指す道具(言葉)はそもそも不要。

地方を巡る醍醐味のひとつは、言葉だ。
明治以降社会の均一化を目指し造られた「標準語・共通語」、それが100年かけて定着した今の社会。
言葉は絶対的なものではなく、そもそも相対的な風土そのものだ。
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