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[活動の近況はこちら]
一般社団法人まるオフィス maru-office.com
まるオフィスは気仙沼・唐桑のまちづくり団体です。
おんつぁんだなぁ [2016年11月12日(Sat)]

気仙沼地元の消防士ゆーすけ先輩と、移住女子でかわいい後輩のさちをの2週間にわたる結婚式が終わった。
ウチに帰って、息子の夜泣きの泣き声を聞きながら、「つなかん」の今井竜介さんのこのブログを読んでたら、ポロポロ泣けてきた。

唐桑御殿つなかん『ありのまま記』:http://moriyasuisan.com/1478/

ソファにもたれながら。酔って涙流して。

おんつぁん(おっさん)だなぁ。

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と、打ち上げの席で、太鼓の先生に言われた。 [2016年11月06日(Sun)]

唐桑の伝統芸能「松圃虎舞」太鼓。
宮城県代表で盛岡へ。


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(地元紙「三陸新報」。一番手前に写ってるのが私。
今ではからくわ丸の多くの移住者が参加している)


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(ホントに宮城県代表!会場スタッフに「宮城さ〜ん」と呼ばれる。笑)


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(虎舞のホープよしき&学生インターン生“ちびっこズ”と)


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太鼓を始めて5年半。

「自分の娘にはな、ゼニこ稼げねぇ気仙沼に戻ってくるより、仙台や東京で稼げ。って語ってたんだけど、こうやって移住者がさ、唐桑さ来てけて、考え方がちょっとずつ変わったんだよなぁ。
今は娘たちに対してな、いいから、ここでできねぇ仕事でねぇなら、地元さ帰ってこぉって思う。
親の考え方があんたたちさ通して変わってきてんのさ」

と、打ち上げの席で、太鼓の先生に言われた。

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はじまりのおわり〜経営未来塾卒塾式〜その2 [2016年10月30日(Sun)]

2016年5月。りょうたとさらの結婚式で東京へ。

その3次会。
さらの同級生のしゅんとあぐらをかいて乾杯する。
さらもしゅんも唐桑出身。2011年、高校3年生のとき、私たちFIWCの活動に参加してくれていた。
自分たちも被災した高校生。それにも関わらず、ガレキ撤去のボランティアによく来てくれた。
しゅんの恋愛相談も受けたし、バカ話もよくした。
1年経って、しゅんは進学のため仙台に出た。そのまま仙台で就職した。
たまに帰省した際は、決まって私の好物の喜久福をお土産にホーム(拠点のプレハブ)に顔を出してくれるのだった。

仙台に出てから4年が経った。
「おれ、唐桑に戻ることにしました」
3次会の居酒屋でしゅんが言う。おぉ、そうか。
「唐桑に戻るキッカケは、たくまさん、あなたです」
え。耳を疑う。
「ずっとぼくの地元で昔も今も変わらず活動しているたくまさんたちを見ていました。
おれは仙台で一体何やってんだろうって。ずっと思ってたんです」
しゅんは酔っていた。
「当時18歳のぼくは、たくまさんに出会って変わりました」
口調は少し震えているがしっかりとしている。

「ぼくは、唐桑に帰って、18歳のぼくに出会いたいんです」

感動した。
人生には「歯を食いしばってここまでやってきてよかったな」と思える瞬間が、たまにやってくる。
頭をうなだれて、それを噛み締めた。私も酔っていた。
そうか。ありがとう。

---

2016年10月16日。
第5期経営未来塾卒塾式。

8分間、志を伝えるスピーチをする。半年間の集大成として。
正直に言うと、こんなに話していて私自身が気持ちよかったスピーチは初めての経験だった。

「地域"協"育」をはじめます。
その原体験にある、厳しく優しい唐桑半島の集落コミュニティ。
ここは「被災地」ではなく、ここは社会の最前線でした。
そして、私は移住者ですが、移住者だからこそできることがあります。
それは、地元へのUターン者を生むことです。
地域協育プロジェクト「じもと◯◯ゼミ(まるゼミ)」を立ち上げ、Uターン率を上げます。
私は、Uターン、Iターンを生み、気仙沼を持続可能なまちにします。
そしてそれは、日本中のロールモデルになります。

…私はある青年に出会いました。彼は震災当時、高校生でした。

スピーチの最後に、上のしゅんの話を出した。この上半期で最も嬉しかった言葉だったから。
しゅんも会場に来ていた。顔はできるだけ見ないようにした。
康彦さんも来てくれた。康彦さんの顔もできるだけ見ないようにした。
スピーチが止まりかねないから。ただでさえ自分の話に酔い、感極まっているのだ。
こうやもいる。スマホをかざすえまもいる。みっぽも。ひでき先生が手を振ってる。間に合ったみたいだ。みほと東太もいる。

スピーチが終わってひと呼吸すると、最前列の事務局の森さんが両目をぐっと押さえている。糟谷さんの目も真っ赤だ。驚く。
段から降り、アイリスオーヤマの大山社長や市長ら前列の方々にお辞儀をする。
トーマツの谷藤さんががっちり握手してくれる。新日本監査法人の有倉さんとがっちり握手する。水橋さんはじめメンター陣の方は見ないようにした。目が限界だった。

席に戻ると、つらつらと涙が流れた。よかった。なんとかここまでもってくれた。
つらつらと溢れる涙は、同じく唐桑を拠点とする歩さんのスピーチまで続いた。

休憩時間、ISLの片岡さんに「ここまでやってくれるとは思ってなかった。最高だった」と声をかけてもらう。

よし。
ここからだ。これは、はじまりのおわりだ。

---

以上2回に渡る長い記事でしたが、これは自身の備忘録。

卒塾式間際は本当に精神的にも体力的にも崖っぷちが続いた。
明け方、寝ぼけてむくりと起き上がり、仕事の夢を見ていたのだろう、正座して誰かにひたすら謝る私。それを息子の夜泣きだと勘違いして、妻がとんとんとあやす。そんな地獄絵図が繰り広げられていた(笑)。妻も夜泣きで参っていた。

そんな経営未来塾が終わったのだ。すがすがしくも寂しい気持ちがどんより。「塾ロス」「メンターロス」にかかる。
そんな冗談を言ってるうちに、早半月が経った。
…が、すべてがいきなり上手く回り始める訳もない。
卒塾式の懇親会の挨拶で市長がこう言った。「雲外蒼天、という言葉を開講式で贈りました。みなさん、どうですか!今日一日限りかもしれませんが、雲外蒼天、今日は楽しみましょう(笑)」
まさにその言葉のとおり、翌日からすぐさままた雲の中にすっぽり入ってしまった。

雲の上には雲がある、ということだ。
このまま天まで突っ切るしかない。

---

本当に多くの監査法人のメンターのみなさん、市役所の事務局のみなさん、企画をしてくださったみなさんに育てられました。
そして、私が事業構想書、事業構想書、じぎょーこーそーしょ、じぎょーこーそー…と半年間言い続けてろくに仕事をしなかった分、文句を一度も言わずに黙ってそれをカバーしてくれた弊社のスタッフに、最大限の謝意を伝えたいです。

本当にありがとうございました。
この下半期から還していきます。
はじまりのおわり〜経営未来塾卒塾式〜その1 [2016年10月17日(Mon)]

2016年夏。
「あのー、たくまさん、今度10月に弁論大会があるんで聞きに来てくれませんか?学校代表に選ばれたんです」
地元の中高生向け漁師体験「すなどり先生」が終わり、片付けをしてるときだった。
唐桑中学校3年生の子がそう話しかけてくれた。よくすなどり先生に参加してくれる子だ。
おー、いくいく!何についてスピーチするの?
「…」
ちょっと恥ずかしそうにし始める。
「…本人の前で言うのは恥ずかしいんですが、たくまさんたちとの出会いで私の視野が広がったっていう…」

---

2013年夏。
「まち歩き」を唐桑の神止集落で実施した。当時、市の地域支援員として企画した。
住民と大学生らと集落をくまなく歩き、発見したものを絵地図とカードに起こしていく。そして、住民を集めて発表会を開く、というものだ。
この夏から地元の唐桑中学校の生徒数名にも参加してもらって実施することができた。
その発表会に、その集落の小学校6年生の女の子がおばあちゃんに連れられてやってきた。
その子はとても興味深く自分の集落の絵地図を見て、ここはこうだ、ここはああだ、と指差しては大学生と話していた。
へぇ。小学生が来てくれたんだ、と嬉しくなる。

1年後。
また中学生にも参加してもらってまち歩きを実施した。すると、その子が来ていた。1年生になっていた。
あれ。この子、あのときの。

1年後。
唐中のあべ教頭先生が言う。
「たくまさん、ゆきがね、去年よっぽど楽しかったみたいで、今年はまち歩きやらないのか、やらないのかって言うんですよ」
あべ先生はいつも私の火付け役だった。
そうなんですか、じゃあやらない手はないですね。
そこで「戦後70年」をテーマにNEWまち歩きを企画した。
(当時の記事:「唐桑と戦争A〜生きた教材〜」http://blog.canpan.info/entoki/archive/220
あべ先生の言うとおり、その子はまた来てくれた。

それを機に、あべ先生にお願いしてはちょこちょこ中学生と関わるようになっていく。
移住者と唐中生の座談会。漁師と唐中生の座談会…
その子はいつも中心メンバーだった。気づけば生徒会長になっていた。
「来年のまち歩きは何するんですか?」その子は私に会うたびにそう聞いてきた。

---

2016年10月。
気仙沼・南三陸1市1町の全中学校からひとりずつ代表が集まって、弁論大会が開催された。会場はたまたま唐桑中学校だった。
ひとり5分。魂のこもったスピーチを体育館の壇上でマイクを通して語る。聴衆は開催校である唐中全校生徒と来賓、来客。

その子の番が近づいてくると、来客席に座っている私たちまるオフィスのメンバーも自然に緊張しはじめた。
その子の1人前の鹿折中学校の生徒がスピーチを始めたときだ。
ポケットのケータイがブーブー震えている。見ると市役所の人から。
メールも来ている。
経営未来塾に関してだった。取り急ぎ、メールだけぱっと見る。
すると、経営未来塾卒塾式での事業構想プレゼンターに選ばれました、というメールだった。
塾生19名中4名だけ選ばれるというプレゼンター。
動揺する。
うれしい!!やった!が3割。げ!これじゃまだメンタリングが続くってこと!?勘弁してくれ…が7割。

なんだか動揺が続くなか、司会者がその子の名前を呼び、彼女は壇上に上がった。

あれ。
他人事じゃなくなってきた。
自分も3日後には、壇上に上がり、市長はじめ大勢の市民の前でスピーチとプレゼンをするのだ。

彼女は堂々と語り始めた。
「あーあー。都会っていいなぁ。なんにもないなぁ、唐桑って…。私にとって都会は憧れでした」

都会にずっと憧れていた彼女は、震災復興支援を機にふるさとにやってきた移住者に出会う。
「なんでこの人たちはわざわざこんな何もないところにやってきたんだろう…そう不思議に思いました」
ある移住者は言う。「漁師さんってカッコいいよね!唐桑の人たちってカッコいいよね!」
彼女はショックを受ける。

「悔しい!!私はそう思いました。なんで自分はこの人たちより長くこのまちに住んでいるのに、このまちの人たちのカッコよさに気づけてないんだろう」

震えた。中学生のスピーチに、5分間終始魂が震え、手がわなわなしたのだ。
彼女のスピーチはこう締めくくられた。

「唐桑に限らず、多くの若い人たちが住み慣れたふるさとを離れるのはなぜでしょうか?

『夢を掴むため』だという理由の裏側には私と同じように都会に『楽しさ』を求める思いがどこかにあるのではないかと思います。

でもその誰かの手でつくられた『楽しさ』は
あなたに、何を残すのでしょうか?

ふるさとを知り、ここにしかないものを学ぶ。
そして自分たちの視点で地域の課題に立ち向かい、
ふるさとを魅力的なまちにしていく。

それがこの地で生まれ、ふるさとに育まれた
私たちにしかできない未来を形づくる『楽しさ』だと思うのです。

『唐桑のカッコいい人』!!!

そう呼ばれることが私の目指すこれからの生き方です!」

拍手喝采。
彼女は最優秀賞を受賞した。

新しい世代の新しいふるさと観が、そこにはあった。

パチン。
スイッチが入った。

よぉし。これは返さなきゃな。
次はオレが魂のスピーチで聞く人たちを震えさせる番だ。

卒塾式は3日後だった。

つづく
真夜中の会談「挑戦宣言 -唐桑から学校が無くなる-」 [2016年09月30日(Fri)]

深夜に2人で「ホーム」にいる。
まちづくりサークル「からくわ丸」の拠点のプレハブ小屋だ。

現在からくわ丸の代表を務める地元の青年は夜分の呼び出しに快く応えてくれた。
テーブルに卒業アルバムを広げる。
2001年唐桑町立唐桑中学校卒業アルバム。

「東京、仙台、東京、仙台、地元、仙台…」指でなぞる。
その横でノートに「正」の字を書いていく私。

数字が出揃って2人はため息を吐いた。
「数字にすっとエグいな」
次はパソコンを開いてノートの数字をエクセルに落としていく。

全同級生 100%(68名)
気仙沼市在住 29%
うち唐桑町在住 22%
市外在住 71%

18歳で出郷組 91%
ずっと地元組 9%

出郷組のうち唐桑にUターン率 15%
気仙沼にJターン 8%
出郷したまま 77%

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注目したのはUターン率15%。7人に1人しか還ってきていないことになる。

見えてきた。
5年半、唐桑でさんざん地元の人に世話になって、今人生を賭してやりたいと思えること。
市主催「経営未来塾」でさんざん半年間問われてきた結果、見えてきたもの。

先日、唐桑の小中学生数を調べてぞっとした。
2012年450名いた小中学生は、2016年300名しかいない。
毎年40名弱が減っている。毎年1クラス分の子どもが減っている。

唐桑地域の小中学校児童数_2016.08.jpg

このままじゃ唐桑中学校が無くなる。
それをなんとか阻止したい。

ある先生に聞いた。「デッドラインは全校生徒60名だろう」
中学生ひと学年20名が合併のデッドラインだとすれば、今の小学2年生が初めて20名を切って16名ほどしかいなので4年後にはすでに王手がかかる。
唐桑・中井・小原木、小学校3校併せて16名だ。
今の小6で40名以上いるのに、だ。この数年で急変しはじめている。

たった5年後には合併の話が現実のものとなる。
このままじゃ10年後には唐桑に学校が無くなる。

---

「一町一中」もしくは「一市一高」。
これはそのまちが存続するために非常に重要な条件だ。
まず子育て世代の移住者(Iターン者)が見込めなくなる。
移住の大きな要因は「ここで自分の子どもを育てたい」と思ってもらうことだ。それなのに、そのまちに学校がないとなるとかなり深手だ。

まさか自分の子どもも唐中生になるもんだとばかり思っていたが、どうやらこのままでは無理らしい。
鹿折中との合併は目の前にあった。

これは人口減少対策ではない。
人口消滅対策だ。

唐桑を魅力あるまちにして、唐桑中学校を存続させ、唐桑を持続可能なまちにして、そのノウハウをいろんな地域に輸出することで気仙沼から東北、社会全体に貢献する。
そのための施策に挑戦したい。
見えてきた。まるオフィスやからくわ丸のみんなと挑戦したいこと。

大震災を機にこのまちにやってきた若造が、今このまちと挑戦したいこと。

---

明日、10月1日「気仙沼市移住・定住支援センター MINATO」が開所します。
気仙沼市からの委託を受けた私たち一般社団法人まるオフィスがそこを運営することとなりました。
これからセンター長として気仙沼のために働けることに感謝です。

「地域協育」と「移住定住推進」。
まるオフィスはこの2本柱で「気仙沼モデル」をつくります。
10月16日の経営未来塾の卒塾式ではその宣言をします。

そしたら、まずは山陰の雄・岩本悠氏という方に会いたいです。
夜食 [2016年08月28日(Sun)]

いただきものが悪くなるといけないから、と夜食に用意したのが…うに茶漬け。

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これはバチあたるなーと思いながら食べる夜食が美味い、とな。

お高いお店で綺麗に盛られて出てくる逸品はお金で買えるけど、
「ぁ、あいつ食わなきゃ!」とパッとこさえるうに茶漬けは買えない。

そーゆーことなんだよな。
唐桑に住んでる価値っちゅーか、
やめられない理由っちゅーか、
そういうのが半島の日常にぱらぱら散りばめられてて。

なんだろうこの「用意されていない贅沢」。
その価値を見える化するのが自分の仕事のやりがいなんだけどね、
とりあえずこれ美味いなぁーとか言いながら、

経営未来塾は佳境に入ったワケでした。
地元から電話が来る [2016年08月26日(Fri)]

「これだよ、これ」
こうや、しゅんくん、えまと事務所で深夜まで議論を繰り返す。
10回20回の悶々として鬱々とした議論の末、光が差す議論が1回やってくる。
気仙沼の漁業の衰退の正体とは。日本の高度経済成長とは何だったのか。
本当に「昔はよかった」のか。どうしても今唐桑でもがく志を問うとそんなテーマに及ぶ。
「そうだよ。おれたちはこれだ」
がっと視野が広がる瞬間がたまにやってくる。ほんの少しずつ前に進んでいる。
あと少しだ。あと少しで何かが見えてきそうだ。見えるに決まってる。

暗いトンネルの中でそう言って前方をにらみつける。

---

地元・姫路の先輩から電話が来る。地元のまつりが危ない。
私の地区のヤッサ(屋台…関東でいう神輿の巨大なヤツ)が若者不足/担ぎ手不足でもう上がらないという。
「(毎年やばいねんけど)今年はホンマにやばいわ。地のもんの力が必要やねん…なんとか、まつりのときだけ帰ってこれへんか」

「播州の秋まつり」と言えば、自分のアイデンティティと言っても過言じゃない。
英賀の秋まつりが小さいころから本当に好きで好きで、小学生のころは太鼓の叩き手として担がれ(小5に宮入のブイサシに選抜されたのが乗り子のピーク。確か卒業文集にも書いたくらい。)、中学生からはヤッサのかぎ手として担いだ。大人になってからも時間が合えば帰って担いだ。(震災後も唐桑の兄ちゃんを同伴して参戦したりもした。)
中高一貫の私学に通った私にとって、この秋まつりは自分を「英賀の人間」たらしめた唯一のものだった。がらがらの声で「よぉぉやさぁぁ」と叫ぶことが、元来根なし草の自分の精一杯の根っこだった。
播州の熱はこの1年に1回の秋まつりに詰まっていて、それは日本中どこにも負けない「地元の誇り」でもある。
(日本で一番ガラが悪い自信がある、とか、デカさが違いすぎて関東の神輿がおもちゃに見える、とか、語り出したら止まらない。)

仕事が追いつかない。おどおどする心持の反動で、仲間への態度がねじれ曲がる。
家族との時間も最近不十分だ。
くんばんちゃんもまた入院する。みんないよいよ歳をとってきた。
「地域に自分ゴトを!」と虚しく叫びながら、地元のまつりの火が消えそうなのを傍観することしかできない。
いったい東北でなにをやってんねん、おれは。
家路につく。ただただ呆然として、ハンドルを握る力も沸かない。
久々に維新志士に逢った [2016年08月17日(Wed)]

最近、久々に維新志士に逢った。
「これが幕末だったら、たくまも刺されてるわな!」
かっかっかっと笑う。
東北弁の志士。東北にもいたんだ。眼が見開く。

「都会と地方をかきまぜる!と俺は寝言を言い続けてきたが、唐桑はそれを実現していた!
いやぁ…こりゃしつこくないとできないことだ。そのしぶとさの源はなんですかっ!」
嬉々として杯を仰ぐ男。

ひとつ上の先輩たちがつくった時代より「1cm上を目指す」ことが、今の時代に生きる我々の使命だと語る。
歴史とはそうやって紡がれる。
本気でそれを目指した人間がその功績を刻む。

「人間は(近代に入り)海は危ないもの、土は汚いものとして遠ざけた」
海を排除し、土を排除し、それで人はどうやって生きていくっていうんだ。そこに現代の「負」の根っこがあると言う。

「東北食べる通信」の高橋博之さん。この人には「思想」がある。
自分に足りないものだ。
「近代を生んだ『資本主義』も一種の文化あるいは宗教として1000年後の歴史家は位置づけると思うんです。拙い持論ですが。
だとすれば、高橋さんがやろうとしていることは…そうですねぇ…維新なんてもんじゃない。宗教改革のような壮大なことかもしれません」

「失われた20年」が指し示す先は、海と生き、土と生きるここ「イナカ」だ。

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お食い初め大作戦 [2016年08月15日(Mon)]

「親ばか記」第2弾。

妻の一言からはじまった。
「ねぇ、お食い初めの魚ね。(一般的に使われる)鯛を新鮮館に見に行ったらね、こんな大きいのしかなくてね。いいサイズのお祝い用の鯛がネットなら売ってるらしいんだけど」

ほう。最近、唐桑で地域経営だの地産地"食"だの謳っているのに、家の眼の前に海が広がってるのに、ネットで買うのもなぁ。

「なぬ。よし、父が魚を獲ってこようぞ」
(訳:父が魚を獲ってくる方にお願いしてきます)

こうして「お食い初め大作戦」が開始。
お食い初め(おくいぞめ)。生後100日の儀式で、赤飯、オカシラ付きの魚などなどお膳を準備して食べさせるマネをする。

---

数日後、とある小船の漁師さんに頼む。
「13日?揚げるよ〜。おめぇの頼みだもの。いいさ。5時にこぉ。」
交渉完了。

8月13日。久方ぶりの休日。
船外機にて小鯖5時出航。
根網(刺し網の種類)を揚げる。唐桑半島と大島に囲まれた内湾なので波は穏やか。
機械で網をぐりぐり揚げるのを横で見ているだけ。たまに海水をバケツで汲んで網にかける。
タナゴGET!ネウ(アイナメ)GET!
っしゃー!さっそく目的達成!
上機嫌。

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「次はカレイ網いくぞ」
へい。
御崎沖へ移動。半島の先っちょから離れていく。水平線が眼前に広がる。
内湾とは全然波が違う。大ぉぉきな波がゆぅぅっくり押し寄せる。ぐぐぐっと船体が持ち上がる。朝陽が強すぎて、酔いそうになる。
大海原にぽつんと一艘。なんだか寂しい。

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カレイ網(刺し網の種類)を揚げる。さっきよりだいぶ網の量があるらしい。
「生きてた!ほれ、入れろ!」生きたヒラメがかかってた場合、甕に移すのが私の役目。巨大ヒラメと格闘。
「魚の持ち方がシロウトだぁ」
へい!

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網にかかったまま死んでしまった魚はいくら鮮度がいいとは言え、10分の1ほどの値にしかならないそうだ。
だから家でおかずにするか、おすそ分け用になる。
死んだ魚には小さくて丸々としたエビのような虫がわらわらと群がっている。
「シムシっていうんだ、こいつぁ」
「"死蟲"ですか」
「漢字は分かんねぇけどシムシって語るんだ」
海水でキレイに洗い流す。
次は錆び切った鍋ぶたが網にかかっている。「5年前のものだ。震災直後は網揚げるのもおっかなかったなぁ」

チャイムが半島全体から鳴り響く。朝6時だ。
半島が唄っている。

網を揚げ終わると次は、網を繰る作業が始まる。その場で繰って、また海底に仕掛けて帰るのだ。
それがなんとも地味な作業で。しかも手伝えることがないと見た。
船のトモ(後部)にぐったりしゃがみこんで、座って粛々と作業をしている漁師の背中をぼーっと見ながら、世間話をする。
エンジンは切れている。ぐぐぐっと持ち上がる板子一枚の上に載った私と漁師。
7時を過ぎている。
「なぁ。何週間も漂流するっつーのは気が狂うだろうなぁ。陸(オカ)もなんも見えねぇでなぁ」
うぷ。酔ってきた。あくびも止まんねぇ。相づちが消え、頭ががくりとなる。

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撃沈した私を連れて内湾に戻った船。「ヒラメが生きてる内に一回、小鯖に戻るぞ」
(おぉ!)
ところが、小鯖に戻ったのはよかったが、洋上で海中に吊るしたばんじょう籠にヒラメを移すと、そそくさとそのまままた沖へ向かった。上陸なんてしません。
(Nooooo-!!)心の中で、岸壁に手を伸ばして叫ぶ。

こうして最後の根網を揚げる作業に入った。
が、さすが内湾。揺れが微量になるとたちまち体調は快復した。
「もう大丈夫なのか」
へい!
ここからは漁師さんと共同作業だった。揚げた網のアバの方をぐいぐい巻き取っていく役目。
途中、網に絡まった昆布やメカブの残骸をひとつひとつ取り払いながら揚げていく。結構大変な作業だ。
「これは全て養殖んヤツらが捨てたものだ。分かるか。こうやって、おれらの網にかかるんだ、全部」

再び小鯖に帰ってきたときには9時前になっていた。計4時間弱の船旅だった。
「船の上でな、つくってしまうんだ。その方が楽だからな」
船の上で、ざっざっと鱗をとって、さっとワタを取り出す。ヒラメは三枚におろす。手際がいい。早い。

「あるもの探し」はいつまでも続けなきゃなぁ、と痛感。まだまだ唐桑も知らないことだらけだ。
なんせ、オカシラ付きGETだぜ。

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---

つづいて「歯固めの石」。
午後、馬場の浜に行って、一人でちょうどいい石を見つけて2、3個拾う。ついでにポケストップになっているため、モンスターボールも2、3個拾う。
海水浴に来ている家族連れに怪しい目で見られる。見るな見るな。

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両家の親から頂いた食器に妻の手料理が飾られ、こうしてお食い初めの準備が整った。
これから唐桑の魚を食って丈夫に育つんだぞー
焼いたタナゴを箸でつついて、口元に持っていった。

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父になり 親ばかになり 初幟 [2016年07月06日(Wed)]

「父になり 親ばかになり 初幟」

姫路の実家から祖母の俳句が届く。
旧暦の端午の節句のころで、唐桑では鯉のぼりがはためくころ。

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さて、はじまりました「遠東記」改め「親ばか記」。

4月26日に長男が誕生。
30日に母子ともに退院し、その日には姫路からわらわらと両親、祖母、一番下の弟が上京。
5月2日に区役所に出生届を提出。
本籍:兵庫県姫路市
生まれたところ:東京都練馬区
住所:宮城県気仙沼市唐桑町
これが江戸時代ならインターナショナルな出生届。
5月4日、義父さんが筆で半紙に名前を記す。

それから1ヶ月後。
6月9日、東京は吉祥寺の武蔵野八幡宮でお宮参り。
翌6月10日、立派なチャイルドシートに揺られて6時間、長男が唐桑に初上陸した。

いらっしゃい、ここが5年前からパパが世話になっているまちなんです。
車を降りると早速、馬場ノ浜の潮風と初対面。これからは毎朝この潮風を浴びるんですよ。
馬場家のみんなとも初対面。えいか姉ちゃんがほのちゃんを抱っこして登場。ひとつ先輩のほのちゃんが興味深そうに顔をのぞき込む。
(実の)おじいちゃんおばあちゃんが近くにいないのは淋しいけど、このまちにはたくさんのじいじ、ばあば、兄ちゃん姉ちゃんがいるんです。一見不思議なことだけど、不思議でもなんでもないんです。
さて、どんな景色を見てどんなことを感じて、貴方は育つんでしょう。
たっぷり外海の荒波にもまれて、できるだけたくさんの先人にたくましく育ててもらいなさい。

「はじめまして、加藤東太(はるた)です」

気づいたら7月になっていた。
休みがあると息子を連れて、挨拶を兼ねてちょこちょこと町内をまわり始めた。

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