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集団で学ぶことは必要なのだろうか? [2019年03月26日(Tue)]

民間で、学びの場を行なっていて気になるのは、参加人数の規模の問題である。個別対応がいいですか?少人数がいいですか?20人程度までがいいですか?
 私たちは、ある程度の集団で学び合うことが大事だと思っています。自分では自分に気がつけません。おおむね、多くの教員も管理責任者も「裸の王様」です。つまり、自分だけが自分に気づいていないことの方が多いのです。一緒に学び合う子ども、働く仲間の方が私の方を知っていたりします。
 自分を教えてもらうには、周りの人の力を借りるしかありません。だから集団で学び合うことが必要です。私たち自身も、子どもからたくさんの意見をもらうことが必要です。教育は一方通行でしかないと思っている人もいます。教える側は、学ぶ必要なんかなんだと。周りが合わせくれるまで待っている人もいます。それでは、学び合いは行われません。
 ここまで書いておわかりなように、集団で学ぶ1番の利益は、子どもと関わる大人の側に来ています。せっかくの学びを生かす大人が少ないことが子どもにとっては、大きな問題。ただ、自分自身は学んでゆかないと子どもにとって迷惑な大人にしかなれません。
 また、子ども同士も相互に学び合うには、ある程度の人数が必要だと思っています。私たちは無力であることを理解して、はじめて教育に携われると思います。(ここは大きなポイント)あるがままの自分を大事にしながら。
 
子どもは大人を問うたほうがいい?? [2019年03月25日(Mon)]

私たち大人は、「こどものため」になっていると簡単に思い込んで行動する癖(クセ)があると思います。学校の送り迎え。塾に通わせる。スポーツクラブに通わせる。大会の応援にゆく。全部こどものためと言ってしまいますが。実は大人の満足のためじゃないの?こどもは本当に自分のためになっているとおもっているのか?誰も検証しません。
 これは大人の自己満足ではないか??と思います。
 つまり、私たち大人は簡単に自己満足してしまいます。

これって誰のためなの?と子どもに問われてはじめて大人は気がつきます。いじめの報告書は誰のため。教育委員会が記者会見で謝るのは誰のため?
親が、入学式に夫婦で参加するのは誰のため?

あまりに目的のない自己満足な行為に多くの子どもはあきらめ、呆れます。大人はそんなものです。とも自分の口からは言えない。だから子どもはもっと、自分の視点で大人を問うていいです。それが、大人のためでもあります。
東日本大震災から8年で価値観は戻っている? [2019年03月11日(Mon)]

 東日本大震災から8年がたった。今日は、温泉でまったりとしている。もはや、自分が頑張ればいい、誰かの追い風に乗って、誰かの目的実現に合わせるために、有頂天になるときは終わった。むしろ、これからが福島にとって本当の復興だと思う。製造業を中心とする業態から、サービス、医療・福祉、教育を中心とした被災地の産業構造に転換してゆく必要がある。医療・福祉は相変わらず人手不足という状態が続いている。人材育成も、経営モデルの転換もうまくゆかない。若い女性は福島を後にして、大学などの進学で県外に出た若者が帰ってきても地域に仕事はない。誰もが予想していた事態だが、まだまだ、復興補助金でなんとかなると思っていた人も多い。補助金は、問題の先送りであって解決ではない。これもあたり前の話だ。
 外から来る気まぐれな東北愛好者に合わせて行動しても、鯉のぼりほども上昇気流には乗れない。問われているのは自分だ。深く思う。雰囲気やムードだけでは、経営はできない、被災地と言わないでも買ってもらえるサービスや商品が必要だと思う。もはや、本気の時代で、被災地のハンディーキャップなどはどこにもないと思ったほうがいい。もっと関心を顧客に集めなければ、自分たちの打ち手はどんどん遅くなり、成果は遠くなる。
 かつて、独断の判断と犠牲を強いた私は、本気で顧客をの関心や目的と対話している。バカな独断は、何も産まない。私の顧客は子どもです。あなたの顧客は誰ですか?行政だったりしませんか?一人一人の顔は見えますか?まさに、そこをみない人は未来に目を閉ざしている。原発マネーが復興マネーに変わり、やがてオリンピックマネーになる。その人たちのように日本全国を旅するのか、自分自身の足元見るのか?岐路は、もう過ぎているのかもしれないとも思っている。
犠牲のない社会へ [2019年03月10日(Sun)]

東日本大震災から8年。おそらくあそこから私の人生は、加速度的な蛇行をはじめたような気がする。市民活動団体として「今やらないで、どうする」!!と自らを鼓舞しながら、自己犠牲を強いる世界に入ってしまったからだ。
 今だから言えるが、全くもって、この自己犠牲には私自身にとって意味がなかった。常に、前のめりなので、人とケンカはするし、イライラする日々が続く。自分を犠牲にしているから家族にも良くないし、妻や子どもへの信用もまるでなし。
 何が成果だったのか?自分をさておいて、大勢のボランティア、企業の人たちの自己実現のお手伝いは、たくさんしたかもしれない。でも、それは自分の目的にはかなったことではないので、自己犠牲の山を作っただけで終わり。
 私たち市民活動を行う人間は、社会課題の解決に汗は流しても、自己犠牲を行う団体ではない。ボランティアを奉仕と訳したのは大間違いで、私たちは無償の奉仕好きでもない。私たちは、自分を犠牲に成果を出したり、人に優しくなんかできない普通の人間なんです。
 震災から9年を迎えるにあたり、もう東北も我々、市民団体もいい加減に犠牲になるのはやめましょう。もはや、自分をすり減らすことはしない。これからは、自分にできる課題解決を楽しみながら、やりたい。もはや、震災後ではない。
 犠牲の中に何も生まれない、そんなことを知った8年間だった。気づけてよかった。
助けあって、共に育つことこそ教育 [2019年03月08日(Fri)]

どうして子どもは思うように育たないのでしょう?どうして子どもは、親のことを理解してくれないのでしょう!よく聞くお話です。
 自分のことを伝えるのに、大人は一生懸命です。子どもを動かそうとすることに、精一杯になっています。でも、大切なのは子どもの興味、関心のあり方です。子どもは、自分を肯定してくれない大人には非常に無関心です。大人の関心のありかのズレと、子どものあきらめが、お互いのすれ違いをおこしてしまいます。
 大人がもっと子どもの関心に心を向ければ、何かが変わります。理解された感情がしっかりと芽生え、自己と他者への関心が深まります。子どもを本気で変えたいのなら、まず大人からかかわることが大事ですよ。
寄りそうという視点 [2019年03月02日(Sat)]

つなぐの死からはや2ヶ月が経とうとしている。いまだに、弔問を受けることも多い。
弔意を表していただくことも多い。また、その逆もある。世の中というのはかくも人の死にさえも、様々なことを言いたがるものだと思う。
教育に携わるものというよりは、一遺族として、息子のいじめの事件に関わった方々はたくさんいるがしっかりと私や息子や家族の声を聞こうとする人は少なく、「どうせ大げさに」とか「お前の子どもや教育にも問題がある」ということを平気で言う人もいる。
人間力があまりにもどうか?と思われる人には反論する気もおきない。むしろ反論する気もない。そんな人は誰にでも、一見正しいことを言って終わっているだけなんだろうと思う。私たちは、正しいことなどは必要ではない、事実を知りたい。息子のために事実を語る人を求めているだけなのだ。事実を調べる手がかりがあれば、いかようにでも対応しようと思う。
寄りそうと言うことは、個人の尊厳をしっかりと認めながら、生きとし生きるものとして、その生を一緒に語ると言うことだと思う。生きることも語らず、外で噂を語る人が生きるについての尊厳をどれくらい傷つけるものなのか、わかりもしないのだろうと思う。
人は、意外と寄りそうことなどはできないものだとあらためて感じている。我が身に置き換えてもいまは自分のことでいっぱいである。とはいえ仕事もせざるを得ない。息子は、そんな父親を俯瞰しながら、相変わらず色んなことに手をだしてと笑っているかもしれない。父は、お前の笑い声さえも聞けない。なんという因果かと我が身を思う。
幸せをつくることができない教育とは [2019年02月28日(Thu)]

 いつ頃なのかはわかりませんが、学校にゆくと「〇〇大会スキー優勝〇〇さん」「東京大学合格〇〇さん」という横断幕や看板が掲げられています。現在、「不登校の子どもと〇〇を取り組んでいます」「ホームスクーリング◯名」過去の「いじめの経験を生かした取り組み」を行っているという表記はどこにもありません。
 学校の名誉は「生徒の評価」にあると考えている学校がほとんどです。いじめとか、不登校とか、の問題はとりあえずやっていますよ。という扱いをされているところが多いです。いじめ不登校対策でも、生徒とともに教師が学ぶ、いじめが起きないとはどんな条件か?生徒が自ら考える学びを行なっている学校は、ほとんどといってありません。
 ほぼ、生徒の脳に知識をインストールするような学びで終わってしまっています。つまり「いじめはダメ」という知識を覚えさせる学習が成果だと思っています。人権や人格や学校の役割、集団で学ぶいいところ、自分で考え表現する大事さを生かし切れていません。これでは、容易にいじめは再発します。
 学校が守るのは命、学校が輝かせるのも命。それを行うことが最低の要件なのに、それでは先生は評価されないから、せっせと子どもたちを焦らせて、走らせる。勉強させる。おそらくオリンピックに出るような人や東大に入る学生は、その学校からではなくとも東大に入り、オリンピックに出るのです。自分が指導したいと言いたいのは勝手ですが、本当に先生たちを必要としているのは、活躍できない子どもです。
 人から受けた「愛」によって、輝ける子どもです。先生は、一人の人間で不完全であってもいいですが、子どもと学びあうことだけは、忘れてはいけないと思います。そこが見えないとすれば、自分でスポーツクラブを経営されるのも一案ですね。
ジブンの人生を全うすること [2019年02月26日(Tue)]

 2月17日は、寺子屋方丈舎の第2回理事会でした。新任の理事が長男綱弘(つなぐ)のお別れの会以来糖質制限をされていると聞き、いたく感激しました。ありがとうございます。私自身も何かジンワリと自分の中に感じます。
 長男の死後、私自身が感じるのは誰もが生きるということに固執したとしても限界があるということです。むしろ、自分の人生をどのように生きたいのか?デザインしたいのか?ということの意味を長男に問われている気がします。親父〜〜〜〜そんな生き方でいいのか?
 私は、自分の人生をどう生きたいのか?子どもが自分にこだわって、生きることができる人生。自分で決めて、行動することを選べない人生が子どもにとって非常に辛い。生きるって「夢がある」「感動するものでありたい」とつくづく思います。
誰にとっても幸せな時間がつづきますように。
教育の目的は、自分が自分であること [2019年02月09日(Sat)]

 教育の目的とは何だろう?と思います。何か活躍することですか?いい学校に入ることですか?
息子の死を経験して言えることは「人が人ととして生きていて良かった。」お互いに認め合えることなんじゃないかと、私は思います。あなたのいうことは認めるけれども、こちらの言うことは排除します。
 これはいいこと、これは間違っていること。と言われると答えが誘導されるような気がします。答えなんかいくらあっても良いんです。自分に気に合わないと責めると言うことがよくないだけです。否定されると人間はせっかくの良い行動もやめてしまいします。意気消沈します。心の火が消えてゆくように。
 軍隊であれば、意気消沈しようが何であろうが、おとなしく言うことを聞けば良い組織だと思います。私たちは、軍隊のような社会を放棄して、それを超える社会をつくるためにこの70数年努力してきました。いろんな社会があったけど、やっぱり軍事政権がよかった!というのでは、戦争で死んでいった人があまりにも浮ばれません。
 生まれてきてよかったと誰しも言えることと。何が違ってもそれで良いと言えることです。お互いに違いを認め合える社会であることです。ここだけは譲れないなあ。
 
善悪はその人の中で決まる [2019年02月01日(Fri)]

 こどもの頃から、ずっと納得いっていないのは、旧会津藩の白虎隊の自刃を美化する風潮です。わずか15、6歳のこどもが戦争にゆくのもどうかと思いますが、そこで国が負けたからと死ぬことを潔い、立派な忠君愛国の士であるとするその発想に、本人の人生の価値への尊重や人権など一欠片も感じなかったのです。
 しかし、スピノザに言わせれば、その地域の考え方や場合によっては個人でも善悪が変化したり、交代したりするという。場合によって、白虎隊を肯定も否定もできる。それは個人の間で成り立つことだと考えれば良いのです。
 要は、思考のOSを変えると、善悪さえもその人の中で決まると。この発想をどのようように読み解くかといえば、価値は多様であり、多元的なので、「正解」や「間違い」などという発想さえも意味がないということになります。
 この自由さを、当時はどのように周りの人が理解したのかはわかりません。しかし、発想は面白い。
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