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変化は、人から見えるもの [2019年01月07日(Mon)]

 子どもは、大人を本当によくみています。私に対して一番辛辣な意見をいうのは子どもです。それは、ありがたくもあり、自分の分身を見せられているようでもあるので、子どもを通じて私自身が自分を理解することもあります。
 人が変化するというのは、知識の問題ではありません。道具の問題でもありません。行動の問題です。あのひとの変化わその人の発言や行為によってしか表せません。自分がいくらいいことを言っていても、行動が伴わない人、結果を出そうと工夫をしない人は、そこまでだと思われてしまいます。
 教育を通じて、行動が変化してゆくことが学びの成果です。たくさんの学び方がありますので、どれがベストかどうかはわかりません。ただ、教育実践の中で学び方の公開を意外とされていないこと、(これはフリースクールも同じです)は大きな反省です。私たちは日々何を気づいてどんな実践から行動を変えているのか?もっとオープンにしてゆくと、そこに議論が生まれます。
 公教育かフリースクールか?子どもへのアプローチを考えると、そこはあまり議論しなくてもいいところです。まずは、変化を見せることは、教育に携わる者の責任だとも思います。
フリースクールは「学校」である [2019年01月05日(Sat)]

2019年
明けましておめでとうございます。今年も全国の学校外で学ぶ子どもたち、不登校の子どもにとって幸せな1年であることを心から祈っております。
 *さて、さっそくですが、私はぼーっと正月のテレビを見ていたところすっごいことに気がつきました。それは、フリースクールを学校ではないと言っていたことの誤りです。なんでこんなにわかりやすい言葉を避けていたのか?理由は簡単で、自分が学校が嫌いだからです。学校じゃないと言った瞬間に、なんだこれはわかりにくい面倒臭いところだなあ、と思われたに違いありません。本当は、学校と重なる部分もあります。だからあえて学校ではないというよりは、学校であると言った方が大勢の人の共感を得ることができたのです。この20年間、もっと多くの子どもたちと出会えたかもしれないのに、なんてもったいないことをしてしまったのだろう。「つまらない、意地やこだわりを早く捨てないと」というのは私の口癖でもありました。危うく私も、昭和の博物館の中に収蔵されるところでした。(苦笑)
 *学校は、大勢の子どもに学びを提供しました。
 *学校は、貧しい子ども達を労働から解放し、学びの機会を与えました。
 *学校は、身分や出自の違いを超えて、学ぶことへの平等な機会を提供しました。
 *学校は、子どもたちに丈夫な体と栄養を与えてくれました。
 *学校は、好きなだけ本を読む空間や大勢の人と知り合う機会さえも提供しました

上に書いた学校を私は決して否定していません。むしろ、学校は必要な場所だったのです。問題は、学校に対する周囲の期待が高まりすぎた事と、先生方や行政が期待に応え過ぎようとしたことにあると思います。
 私は、学校を否定しません。むしろ、学校本来の姿をもう一度考えるために、フリースクールを20年前につくったのです。私がつくったのは、教育基本法にのっとった1条校ではないですが、学校なんです。
 さまざまな理由から、いままでの学校に通いたくない子どもが、自分にとって組み立てやすい学びのある学校です。ただこの学校は、学びさえも自分でつくることが出来るので、先生を選ぶ自由も、あえて先生につかない自由もあります。テストを増やして競争をしない代わりに、徹底的に話をします。憂さ晴らしにゲームもしますが、憂さがなければ、自分でギターを弾いてご機嫌な時間を創り出します。やりたくないことを無理にやりませんが、必要であればやりたくないことも行います。
 自分で考える時間をたくさんとっていいので、無理に他人に合わせたくないときは、家で自分で学んでもいいのです。倫理的に許されないことは、教師も生徒も守ります。個人情報も保護され、ジェンダーや性的マイノリティーへの配慮もされます。
 私たちは、そんな学校なんです。この事で少し、みなさんとの距離が近くなればいいなあと思います。
争えば伸びるという幻想 [2018年12月20日(Thu)]

 とにかく、努力したり、頑張ることが好きな私たちの上の世代からの妄想に、私たちは悩まされています。努力をしてもそれはいつも続く事ではありません。特別なことは、特別の時間しか続きません。要は、努力しない時間で行なっている事が、成果なんだと思います。私たちは、日常の中に成果があります。
 日常をいかに楽しくするかが大事で、お祭りや、飲み会、花火に頼らなくてもいいような日々の毎日の送り方が大事のではないかなあと思います。私は、大して勤勉ではありませんが、今日も大勢の人に囲まれながら日々を過ごしています。
 誰かの思いをどこかでつなげられることが大事なんだと思います。終わりなき日常を楽しく生きてゆきたいと思うこの頃です。
答えを出すのは環境ではなく、自分です [2018年12月18日(Tue)]

「うちの子は、周りに左右されやすいので、フリースクールの学習環境はどんなものか教えて下さい」と言われることが保護者からの質問で多くあります。フリースクールの学習環境は、実に相互に影響を複雑におよぼしています。自分にとっていいことは真似すればいいし、おもしろがればいいです。つまらなかったら、流してしまってもいいんです。
 問題は、自分が全てを判断すること。誰かのせいにしたり、逃げたりしないことです。自分で引き受ける自分の人生があればそれでいいんです。あとは、常にチャレンジあるのみ!
潜在的な不登校は30万人(中学校で) [2018年12月13日(Thu)]

実際学校に行っていない子どもは中学校で年間10万人。潜在的な不登校は、どれくらいいるのだろうか?日本財団が行った調査結果(2018年12月12日発表)によれば全国の中学生325万人中、学校に行きたくない子どもは約1割の33万人ほどいると言います。
 不登校を減らすという視点から、これまで学校側では、学校にとにかくかかわらせようとしてきました。しかし結果から言えば、潜在的な不登校には全くアプローチできていないといううことがわかります。学校に行きたくない理由のトップは「疲れる」、そのほか「朝起きれない」「テストを受けたくない」が続きます。
 学びたい場所の回答のトップは「自分の好きなことを突き詰めることができる」場所としている。多くの卒業後の若者たちの回答に多い。
 不登校の子どもは勉強嫌いでも、怠け者でも、無気力で病んだ存在でもない。彼らが地域や家族に支えられながら、生きて大人になっている。行政も学校もこの自助努力に甘え続けていいのかと思うのだ。
自由に妄想している時間 [2018年12月08日(Sat)]

若者は就職活動に一生懸命です。どうしてこんなに組織に所属したがるのだろうか?ふと考えます。
1、組織にいると安心できる(給与、待遇)
2、自分自身で考えることが少なくても、組織で支えてもらえる
3、生活に困ることがない

 これからの社会で就社したり、組織に従属させられることは、もはや消えて無くなると思います。人の人生を受け入れる会社なんて存在しなくなります。誰もがその人の人生を引き受けることなんてできないからです。
 個人が自分の考えやセンスで自由に生きる社会になります。

ちょっと前置きが長くなりましたが、そこで大事なのは妄想力。自分の責任で自由に考え、行動してゆく力がとても大事です。ちなみに私は、毎朝、朝にあるとしわせな気持ちでいろんな夢を見ていました。
起業する人間のほとんどは、直感と妄想力だけは研ぎ澄まされています。ここだよね。
大事なことは、妄想をすることも楽しい、仕事をすることも楽しい。決して苦行ではないということです。
不登校という選択 [2018年12月07日(Fri)]

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不登校は非常に消極的な生き方だと思われています。実際、残念ながら、物言わず、学校を去るこどもを異常視する視線を変えることはできません。どう言っても、異常だと思う人の価値観は変えられません。
 私は、不登校も選択だと思います。学校に行かない選択をするこどもがいるという事実です。問題なのは、この選択をするのが精神的に異常であるとか、容認できないという人たちです。こどもをいつまでも判断力のない未熟な存在だと思いたい大人が、たくさんいることに驚きもします。
 こどもは、自分の魂が殺されるのは叶わないと思うらしいです。学校に行くも地獄家にいるのも地獄。どうすればいいのかと途方にくれるこどもたち。私は、「むしろ学校に行かないことを選んだのです」と積極的に発言したほうが社会も理解しやすいのではないだろうかと思います。
 少なくとも、大人が思うよりもこどもには、何かを選ぶ目があるのだと信じて欲しい。正解を探すだけの学校に、あまり意味はありません。正解は、人生の中にあるのであり、正解かどうかよりも、今を幸せに生きるほうがいいと思って子供達は不登校になっています。こどもは、考えた末の不登校です。何も考えない大人が、他人の人生にとやかく口を挟むのは、いかがなものかなあ。
 こどもだからとバカにしちゃいけないと思います。人は、年齢で価値が決まるわけでも、学校で価値が決まるわけでもありません。
公平と平等が人を傷つける [2018年12月06日(Thu)]

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 平等であるとか、公平ということは、私たちに大きな価値であると思ってきました。しかし、反面「平等にしなければならない」といわれることが同調圧力を生んでいることも事実です。
 同じであることが平等なのか?ではなく、機会が平等であることが大事なことだと思います。しかし、参加しない自由も認めないと息苦しさが不登校やその保護者を抑圧することがあります。
 学校の宿題をやらない。運動部に所属しない。髪の色が違う。制服を着ない。この自由を平等や公平の名前の下に、子どもたちは受け入れています。私たちはこれを、権利侵害とはあまり言いません。不登校の子どもが、本当に卒業アルバムに写真を載せたいのか?卒業証書を受け取りに行きたいのか?
 おそらく、NOだと思います。
なぜ、この気持ちをわかってもらえないのか?
学校は誰を大切にしたいのか?
何を大切にしたいのか?

 ここがわかれば、問題を整理をしやすいと思います。子どもにとって苦痛を与えることは学校にとっても目的ではないと思います。大事なのは、子どもの思いを支える学校であってほしいという事です。
 「学校」という組織が、誰の権利を守る組織なのか?誰の学びの意欲を高める場所なのか?この主語を抜きに運営されてはたまらないというのが、子どもの本音だと思います。
 
 


 
 
不登校ですが、息子は朝からデートへゆく [2018年11月24日(Sat)]

この3連休いかがお過ごしですか?
我が家は、それぞれがみんなばらばらな連休です。妻は里帰り、息子は朝からデート。そして私は、フリースクールのスタッフ養成講座で東京に来ています。
 息子は、彼女ができて3ヶ月ぐらいなので毎日がウキウキです。幸せ感がいっぱい。私と1週間口をきかないことはザラです。だけど私は、この子の内面から湧き出てくるような力を感じています。誰かに否定されても、それを受け流すことができる力でもあります。
 私にとって、3年ほど前息子がいじめられて、つらくて毎日夢を見てうなされるような時は、本当に苦しかったことを覚えています。親として、本当にこの子を支えられているのかいつも自問していました。
 今、息子は元気です。これでいいんだと私は思います。本当は何をしたい!、このこころの内面と息子はつながることができたのだと。親として、勝手に落ち込んで、勝手に喜んでいる自分にも気がつきました。
 学校に行かない間に、ひたすら子どもと話をしていて、内面が少し見えた時私は救いを感じました。「なんとかなるよ」という感覚が伝わったからです。同時に、この子は大丈夫だという安心でもあったと思います。息子が親に黙って朝からデートに行く。これでいいのだと、私は思っています。
不登校で子育ての成果は、はかれませんA [2018年11月22日(Thu)]

 野口英世は私の地元会津の生んだ偉人です。アメリカ、ロックフェラー研究所で、黄熱病をはじめ感染症の研究をしました。不登校を語るときはいつも彼のことをお思い出します。最終学歴は高等小学校卒。独学で医学を学びます。今なら信じられない努力の人です。
 彼を支えたのは、母が子を思う思いと、あくなき探究心。借金を踏みたおしながら、周りに支えられた人でもあり、努力の人です。野口の生家は、貧農でした。恵まれなかった彼を母は必死に支えます。野口の母、シカはとくに学問ができた人でもありません。ただひたすらに働き続けた人です。
 このひたすらに、自分に尽くす母を野口はどう思ったのでしょう。おそらく、相当、息苦しかったのではないかと思います。母の一途さは、常に結果を出すように責められているかのようだからです。母に応えることなどは誰もできない。だから野口はアメリカに渡り、ほとんど故郷に帰らなかったのかもしれません。いや、帰れなかったのでしょうかね。
 不登校でも、子どもは努力もしますし、社会で何かをなそうとする勇気を捨てはしません。野口の生き様は、期待に応えることのほうが、学歴がないことよりも苦しかったのかなあと私には思わされます。
 学校に行かないことは一つの結果であって、だから不利なことは何もありません。問題なのは、親が、子どもを遠くから信じて待てるかということです。親にとっては試練ですが、子どもへの信頼以外に何もないのです。野口英世の不屈さは、まさに母譲りだと思います。不屈に子どもを信じて待っている。それでいいのではないですかね。子どもは、社会や自分のために全力を尽くして生きるものです。学校よりも、一生懸命さを応援してあげることが大事だと思います。
 
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