ちょっと甘かった国産材についての考え方 [2006年11月30日(木)]
![]() 今回のエコアパートは、国産材、しかも関東からできるだけ近い(理想的には東京の木材)を使うことを考えている。理由は、 1、木材を切り出してから使うまでの距離が近いほうが、移動に使う石油などのエネルギーが少ない 2、その土地で育った木を使うほうが、気候に合う 3、杉やヒノキの人工林は、畑の野菜と同じで、間引いてあげたり、使ったあとにまた植えたりしたほうが、継続的に活用することができる 4、国産材をつかうことで、山にお金が落ち、山を管理する人が潤うことで、健康な森が維持される 5、安いからといって外国の原生林を切れば、その森が再生できなくなる 6、無垢の木の家は理屈ぬきに居心地がいい など色々あって、ブログでも以前そう書いたが、 「国産材でアパートを建てる = 環境への配慮が住まい手に支持される」 という図式ですませるには、ちょっと浅はかであることを『森のゆくえ・林業と森の豊かさの共存』(浜田久美子 コモンズ)を読んで考えさせられた。 浅はかというのは国産材の問題ではなく、単純に私が背景に潜む課題を理解していなかったからである。実際は、私が思うほど簡単ではないらしい。 持続可能な森林経営までちょっとエリアを広げつつ、なぜ国産材を使うのか、また現在の住まいと木材の関係などについて、山田さんのお知恵を借りつつ問題提起をしたい。 さて、さきほど紹介した本の第7章『山も元気になる家づくり』で指摘していた多数の問題点のなかで、とても気になったのが、 「山の森・製材された材木・家・住まい手、がつながっていないし、そもそも家と木がつながっていない」 「国産材が、市場の価格原理で買い叩かれて、山元が再び山に木を植える気にならない」 という2点だ。 まずは、1点目について。 「森と私たちの生活、木と家がつながっていない」 という問題は、まあそのとおりかな、と思う。 家だって木目チックな印刷の柱が実はプラスチックでできているのに、気にもとめなかったりする。 鉄筋コンクリートのほうが、よっぽど丈夫な家も建つ。木の家というと「白アリがねえ」などと逆に敬遠されたりもする。 里山でマキをとったり、肥料を得たりしていた時代と違い、蛇口をひねれば水が出て、スイッチを押せば火が起こり、24時間開いているコンビニがあって、インターネットで世界中からほしいものが手に入るという時代では、森への価値感というものは、相対的に下がってしまう。 私たちは、空気を吸うし、水を飲むし、野菜を食べるし、森や木の恩恵を昔と変わらず受けているのに、私たちの生活が、どんな土台の上に成り立っているのかが、特に都会では見えにくい。 スーパーでしか魚を見たことない子供が、図工の時間に魚の絵を描いた際、さしみの絵を描くという話を聞いたことがあるが笑ってもいられない。 いつも読んでいるメルマガで、 問題・魚や肉が入っているトレー、再利用するとしたらどっち? A・プラスチックのトレー B・木でできたトレー という質問があったので、私の周りで聞いてみた。 畑のマダムたちをはじめ、聞いた方のほとんどが 「木のほうがなんか高級感あるしねえ」 とB・木のトレーを選んだ。 確かにコストは木製トレーのほうが高いのかもしれない。木の香りもよい。 しかし原材料で見れば、プラスチックトレーは100万年以上かけてできる石油が原料であり、木材は40〜50年に過ぎない。 原料の貴重さだけ見れば、はるかにプラスチックトレーのほうが価値が高いのに、木のトレーは大切にされ、プラスチックトレーは粗末に扱われる。 この社会が持続不可能であるといわれている所以でもある。 日本の森についても、似たようなことが起こっているのだ。 地元の木をきちんと管理しつつ、成長の範囲内で家や家具に使わせてもらえば、ずうっとやりくりすることができる。私たちの先祖はそれをしてきたし、それは持続性ある社会であった。 ところが今の社会は、複雑に絡んだ糸のようにぐちゃぐちゃになってしまい、海外の原生林を切ってダメにし、国内の人工林を切らないでダメにしたりしている。 ぐちゃぐちゃに絡まった糸の一端が国産材で、もう一端に環境に配慮した住まいがあるのだ。ぐちゃぐちゃを、もう一度ほどかないとつなげない。 うーん、でもどうすれば「つなぐ」ことができるのだろう? 部屋に入った瞬間、 「おっ、○○の森から来たんだね」 と思えるようになれば理想的だが、住まい手が、森を想像できるような、木に触れる家、木のぬくもりを感じるアパートなんてできるのだろうか? |








エコアパPT平田よりお知らせです。



