再生のとき:/1 イラクで人質…「自己責任」の呪縛(毎日新聞)
[2009年12月31日(Thu)]
2009(平成21)年12月31日(木)
毎日新聞
トップ>ニュースセレクト>話題
再生のとき:/1 イラクで人質…「自己責任」の呪縛
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091231ddm001040005000c.html
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091231ddm041040116000c.html
◇もがき続けた5年
突然のスコールが雨期の始まりを告げた。
アフリカ・ザンビアの小都市サンフィアに
大粒の雨が降ったのは、10月31日。
小学校の小さな校舎の完成を祝う式典が終わった直後だった。
テントに逃げ込む地元の人に逆らって数人の日本人が飛び出し、
「お疲れ」と抱き合った。
校舎の建設資金を集め、現地の職人と一緒にレンガを積んだ
ボランティアの若者だ。
その中に立命館アジア太平洋大4年の今井紀明さん(24)も
いた。
イラク人質事件から5年。もがき続けてたどり着いたアフリカ。
子供の笑顔を見て
「人は誰かとつながらなければ生きていけないんだ」
と思った。
■ ■
「昼メシ代ちょうだい」。
高校時代、毎日のように母親から500円をもらった。
内緒でためて、本を買ったり海外支援のボランティア活動に
使ったりした。
授業より世の中の動きに関心が向く、ちょっと早熟な少年だった。
卒業したばかりの18歳の春も、
「劣化ウラン弾の惨状を伝えたい」
と、バグダッドを目指した。
04年4月、イラク・ファルージャ近郊。乗っていたタクシー
がガソリンスタンドに入ろうとした時だった。
小銃を持った男たちに囲まれ、同行の2人と共に拉致された。
遠巻きにうかがう群衆の中の1人が、ノドをかき切る仕草をした。
「ここで死ぬのか」
と震えた。
■ ■
だが、本当の修羅場は、解放後に日本で待っていた。
外務省の退避勧告に従わなかったことが批判され、
拘束中に家族が自衛隊のイラク撤退を要望したため、
一部のメディアは「自作自演」「税金泥棒」と書き立てた。
帰国の数日後、札幌市の自宅近くで見知らぬ男に
「クソガキが」とののしられ、肩を突かれた。
インターネットには中傷があふれ、自宅の住所まで公開された。
「おめおめとよく帰国したな」
「死ね」。
そんな手紙が100通以上届いた。
なぜ、と自問し
「イラクで死んでいれば」
とすら思った。葛藤(かっとう)の日々が始まった。
小泉内閣が新自由主義的な政策を推し進めていた。
構造改革、規制緩和、勝ち組・負け組。
そんなフレーズと並び、「自己責任」という言葉が
時代を彩っていた。 【前谷 宏】
◇
生きるよりどころを見つけにくい時代に、失われた何かを
懸命に再生させようとする人たちがいる。その軌跡を追う。
<1面からつづく>
◇悩み、でも一歩
◇「あの今井君」逃げ場なく 「自分で越えろ」友の言葉
夜の底から、白い湯煙がぼんやりと立ち上っている。
大学進学と同時に移り住んだ大分県別府市。
06年春、今井紀明さん(24)は、アルバイトを終えた
深夜、温泉街の近くの道路に座り込んだ。
「車が来たら、このまま死ねる」。
イラクで武装勢力に拘束された事件から2年がたっていた。
高校受験前、途上国支援のNGO(非政府組織)のイベントを
訪れ、海外に興味を持った。
入学後の研修旅行ではベトナムを訪れ、
枯れ葉剤の被害に苦しむ子供たちを目の当たりにした。
人とうまく距離を置き、傷つけ合いを避けて生きる方法もある。
むしろ、そういう器用な生き方が今風なのかもしれない。
だが、今井さんにはできなかった。
濃密な人間関係を求め、いくつものNGOを訪ねては、
スタッフと語り合った。
その過程で劣化ウラン弾の惨状を知り、
じっとしていられなくなった。
しかし、この世界には個人の理想が通じない別次元の場所がある。
イラクの事件で思い知らされたのは、その現実だった。
人が怖くなり、半年後、逃げるように英国に語学留学。
そこでも日本人学生に「あの今井君だ」と陰口をたたかれた。
深夜の別府。街灯の下、ぼうぜんと見つめたアスファルトの上で
何かが動いているのに気付いた。数匹のアリだった。
「生きてる」と思った瞬間、我に返った。
よろよろと立ち上がった。
■ ■
07年秋。不思議な出会いがあった。
たまたま通学バスの隣に座った学生が話しかけてきた。
朴 基浩と名乗り、「自分は在日だ」と言った。
1つ年下なのに、ずけずけとものを言ったが、
実直さがかえって気に入った。
お互いに孤独を抱えていた。
「おれ、駅で『おい、朝鮮人』と怒鳴られたことがある」。
彼は朝鮮学校に通っていたころ受けた嫌がらせについて話し、
拳を握った。
それを見て、今井さんはふと自分をさらけ出したいと思った。
事件後、自分に向けられたのは中傷か哀れみの言葉、
そうでなければヒーロー視する目。
「どれもつらい」と打ち明けた。
じっと話を聞いていた彼は
「結局はおまえが自分で乗り越えないと」
と言った。
「あの事件の今井君」として自分を見ない初めての友。
「一歩を踏み出せ」
と今井さんには聞こえた。
■ ■
ザンビアのサンフィアに着いたのは、まだ乾期の9月だった。
日中の気温は40度を超える。
最初の3日間は、ほとんど寝ずに一輪車でレンガを運んだ。
2,000人近い生徒がいるのに、教室が19しかない小学校。
日本で寄付を募り、新校舎を建てるNGOのプロジェクトだ。
学生生活最後の夏休みを利用し、
ずっと避けてきた国際貢献の現場に飛び込もうと思った。
米国のNGOで経験を積んだリーダーの
佐藤 慧(けい)さん(27)は、小学生のころ、
弟を小児がんで失い、高校生の時には姉を自殺で亡くした。
インドを旅行したとき、ガンジス川に肉親の亡きがらを流す
人々の姿を見て
「少しずつ、弟と姉の死を受け入れられるようになった」
と話した。
日本でサポートしてくれた25歳の男性スタッフは、
アイドルが所属する有名芸能事務所に所属したものの
「好きな音楽ができない」
と飛び出した。
みな「自分とは何か」の答えを探していた。
屋根は水色。熱帯高地のザンビアの空の色だ。
完成したばかりの小さな校舎を見つめながら、
今井さんは思った。
「悩みながらでも、何かをやってみなければ未来は変わらない」
あの時、自分をさいなんだ「自己責任」という言葉。
5年後の今は少し違って聞こえる。
「好きな言葉ではないけれど、今はそれを使う人も受け止めよう
と思います。そう肯定的になれる自分がいるから」
来春、東南アジアと取引する小さな商社に就職する。【前谷 宏】
==============
◇そのとき世界は(肩書は当時)
■03年
3月20日 イラク戦争開戦
12月26日 イラク派遣に備え航空自衛隊の先遣隊が出発
■04年
4月 7日 武装勢力が3邦人を拉致、自衛隊撤退を要求。
一部メディアが「自己責任」論を展開
15日 3人がバグダッドで解放される。
直後、与党内から「自己責任」を強調する声が
上がる
16日 現地での活動継続を望む被害者について、
小泉純一郎首相が
「なお、そういうことを言うんですかね」
と不快感。
一方、パウエル米国務長官は
「誰もリスクを引き受けなければ、
世界は前に進まない」
と3人を擁護
■05年
9月11日 小泉首相が「郵政民営化」を訴え、
自民党が衆院選で圧勝
■09年
2月14日 イラク派遣の自衛隊が撤収完了
毎日新聞 東京朝刊 2009年12月31日(木)
毎日新聞
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再生のとき:/1 イラクで人質…「自己責任」の呪縛
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091231ddm001040005000c.html
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20091231ddm041040116000c.html
◇もがき続けた5年
突然のスコールが雨期の始まりを告げた。
アフリカ・ザンビアの小都市サンフィアに
大粒の雨が降ったのは、10月31日。
小学校の小さな校舎の完成を祝う式典が終わった直後だった。
テントに逃げ込む地元の人に逆らって数人の日本人が飛び出し、
「お疲れ」と抱き合った。
校舎の建設資金を集め、現地の職人と一緒にレンガを積んだ
ボランティアの若者だ。
その中に立命館アジア太平洋大4年の今井紀明さん(24)も
いた。
イラク人質事件から5年。もがき続けてたどり着いたアフリカ。
子供の笑顔を見て
「人は誰かとつながらなければ生きていけないんだ」
と思った。
■ ■
「昼メシ代ちょうだい」。
高校時代、毎日のように母親から500円をもらった。
内緒でためて、本を買ったり海外支援のボランティア活動に
使ったりした。
授業より世の中の動きに関心が向く、ちょっと早熟な少年だった。
卒業したばかりの18歳の春も、
「劣化ウラン弾の惨状を伝えたい」
と、バグダッドを目指した。
04年4月、イラク・ファルージャ近郊。乗っていたタクシー
がガソリンスタンドに入ろうとした時だった。
小銃を持った男たちに囲まれ、同行の2人と共に拉致された。
遠巻きにうかがう群衆の中の1人が、ノドをかき切る仕草をした。
「ここで死ぬのか」
と震えた。
■ ■
だが、本当の修羅場は、解放後に日本で待っていた。
外務省の退避勧告に従わなかったことが批判され、
拘束中に家族が自衛隊のイラク撤退を要望したため、
一部のメディアは「自作自演」「税金泥棒」と書き立てた。
帰国の数日後、札幌市の自宅近くで見知らぬ男に
「クソガキが」とののしられ、肩を突かれた。
インターネットには中傷があふれ、自宅の住所まで公開された。
「おめおめとよく帰国したな」
「死ね」。
そんな手紙が100通以上届いた。
なぜ、と自問し
「イラクで死んでいれば」
とすら思った。葛藤(かっとう)の日々が始まった。
小泉内閣が新自由主義的な政策を推し進めていた。
構造改革、規制緩和、勝ち組・負け組。
そんなフレーズと並び、「自己責任」という言葉が
時代を彩っていた。 【前谷 宏】
◇
生きるよりどころを見つけにくい時代に、失われた何かを
懸命に再生させようとする人たちがいる。その軌跡を追う。
<1面からつづく>
◇悩み、でも一歩
◇「あの今井君」逃げ場なく 「自分で越えろ」友の言葉
夜の底から、白い湯煙がぼんやりと立ち上っている。
大学進学と同時に移り住んだ大分県別府市。
06年春、今井紀明さん(24)は、アルバイトを終えた
深夜、温泉街の近くの道路に座り込んだ。
「車が来たら、このまま死ねる」。
イラクで武装勢力に拘束された事件から2年がたっていた。
高校受験前、途上国支援のNGO(非政府組織)のイベントを
訪れ、海外に興味を持った。
入学後の研修旅行ではベトナムを訪れ、
枯れ葉剤の被害に苦しむ子供たちを目の当たりにした。
人とうまく距離を置き、傷つけ合いを避けて生きる方法もある。
むしろ、そういう器用な生き方が今風なのかもしれない。
だが、今井さんにはできなかった。
濃密な人間関係を求め、いくつものNGOを訪ねては、
スタッフと語り合った。
その過程で劣化ウラン弾の惨状を知り、
じっとしていられなくなった。
しかし、この世界には個人の理想が通じない別次元の場所がある。
イラクの事件で思い知らされたのは、その現実だった。
人が怖くなり、半年後、逃げるように英国に語学留学。
そこでも日本人学生に「あの今井君だ」と陰口をたたかれた。
深夜の別府。街灯の下、ぼうぜんと見つめたアスファルトの上で
何かが動いているのに気付いた。数匹のアリだった。
「生きてる」と思った瞬間、我に返った。
よろよろと立ち上がった。
■ ■
07年秋。不思議な出会いがあった。
たまたま通学バスの隣に座った学生が話しかけてきた。
朴 基浩と名乗り、「自分は在日だ」と言った。
1つ年下なのに、ずけずけとものを言ったが、
実直さがかえって気に入った。
お互いに孤独を抱えていた。
「おれ、駅で『おい、朝鮮人』と怒鳴られたことがある」。
彼は朝鮮学校に通っていたころ受けた嫌がらせについて話し、
拳を握った。
それを見て、今井さんはふと自分をさらけ出したいと思った。
事件後、自分に向けられたのは中傷か哀れみの言葉、
そうでなければヒーロー視する目。
「どれもつらい」と打ち明けた。
じっと話を聞いていた彼は
「結局はおまえが自分で乗り越えないと」
と言った。
「あの事件の今井君」として自分を見ない初めての友。
「一歩を踏み出せ」
と今井さんには聞こえた。
■ ■
ザンビアのサンフィアに着いたのは、まだ乾期の9月だった。
日中の気温は40度を超える。
最初の3日間は、ほとんど寝ずに一輪車でレンガを運んだ。
2,000人近い生徒がいるのに、教室が19しかない小学校。
日本で寄付を募り、新校舎を建てるNGOのプロジェクトだ。
学生生活最後の夏休みを利用し、
ずっと避けてきた国際貢献の現場に飛び込もうと思った。
米国のNGOで経験を積んだリーダーの
佐藤 慧(けい)さん(27)は、小学生のころ、
弟を小児がんで失い、高校生の時には姉を自殺で亡くした。
インドを旅行したとき、ガンジス川に肉親の亡きがらを流す
人々の姿を見て
「少しずつ、弟と姉の死を受け入れられるようになった」
と話した。
日本でサポートしてくれた25歳の男性スタッフは、
アイドルが所属する有名芸能事務所に所属したものの
「好きな音楽ができない」
と飛び出した。
みな「自分とは何か」の答えを探していた。
屋根は水色。熱帯高地のザンビアの空の色だ。
完成したばかりの小さな校舎を見つめながら、
今井さんは思った。
「悩みながらでも、何かをやってみなければ未来は変わらない」
あの時、自分をさいなんだ「自己責任」という言葉。
5年後の今は少し違って聞こえる。
「好きな言葉ではないけれど、今はそれを使う人も受け止めよう
と思います。そう肯定的になれる自分がいるから」
来春、東南アジアと取引する小さな商社に就職する。【前谷 宏】
==============
◇そのとき世界は(肩書は当時)
■03年
3月20日 イラク戦争開戦
12月26日 イラク派遣に備え航空自衛隊の先遣隊が出発
■04年
4月 7日 武装勢力が3邦人を拉致、自衛隊撤退を要求。
一部メディアが「自己責任」論を展開
15日 3人がバグダッドで解放される。
直後、与党内から「自己責任」を強調する声が
上がる
16日 現地での活動継続を望む被害者について、
小泉純一郎首相が
「なお、そういうことを言うんですかね」
と不快感。
一方、パウエル米国務長官は
「誰もリスクを引き受けなければ、
世界は前に進まない」
と3人を擁護
■05年
9月11日 小泉首相が「郵政民営化」を訴え、
自民党が衆院選で圧勝
■09年
2月14日 イラク派遣の自衛隊が撤収完了
毎日新聞 東京朝刊 2009年12月31日(木)