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今日の人184.与島秀則さん [2019年01月27日(Sun)]
 今日の人は、富山市に3箇所、高岡市2箇所、射水市1箇所、滑川市1箇所の合計7箇所で障害者(児)のデイサービスを行っている「つくしグループ」を率いる株式会社つくし工房代表取締役与島秀則さんです。
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デンマークにて

 与島さんは1956年10月に奄美大島で生まれました。小さい時はとてもシャイな子でした。お父さんはアル中気味で、酔った時はお母さんに暴力を振るうようなこともあったので、お母さんはお兄さんだけ連れて逃げたりもしていました。なぜお兄さんだけなのかというと、お兄さんは前の旦那さんとの間に生まれた子だったので、残しておくのが不安だったのでしょう。与島さんはお父さんの実子だったので、お母さんは残しても問題ないとの判断だったと思うのですが、それが子ども心に傷をつけることにもなったのでした。

 お父さんはお菓子職人で、お母さんは食堂を経営していました。奄美大島は沖縄より一足早く本土復帰していましたが、それはつまり沖縄に行くにはいちいちパスポートが必要になるということでもありました。お父さんは沖縄から小麦粉を仕入れていましたが、通常のルートで手に入れるのは厳しく、闇のものを仕入れていましたが、それが見つかって追徴課税されてしまい、破産してしまいます。お母さんの食堂も差し押さえられました。

 その後、お父さんは学校給食のパンを焼く仕事に就いたり、精肉店で働いたりしていました。しかし、戦時中にかかったマラリアがぶり返すなどし、あまり働けないことも多かったのです。

 実は与島さんが4歳の時に、弟さんが生まれているのですが、その子は障害を持って生まれてきて、しゃべることも遊ぶことも出来ず、3歳になる前に亡くなりました。この弟さんの存在が、後に与島さんを福祉の世界に入らせるきっかけになりました。

 与島さんは小さい時から、物作りがとても好きでした。竹藪がたくさんありましたから、竹を取ってきて、肥後守というナイフでいろいろなおもちゃを自分で作っていました。お父さんもお菓子職人の時に、落雁の木型を自分で作っていた方でした。そんな手先の器用さはお父さんに似たのかもしれませんね。絵を描くのも好きで、よく乗り物の絵を描いていました。もっとも、奄美大島には電車がないので、自動車か船の絵でした。船長さんの姿がとてもかっこよく見えて将来は船乗りになりたいなぁと漠然と思っていました。でも、お母さんが占い師から息子さんには水難の相と女難の相が出ていると言われて、水辺には近づかないように言われていたのでした。

 奄美大島では、おやつはサトウキビ、スモモ、バンジロウというトロピカルフルーツ。富山に住んでいると、なんて羨ましいと感じるおやつですね。

島では、男の人の仕事が少なく、さとうきび畑で働けない冬場になると、特にそうなります。それは与島さんのお父さんも例外ではありませんでした。その頃、大阪万博開催に向けて大阪に出稼ぎに行く人が多くいました。お父さんも大阪に働きに出ることにし、一家で大阪へ行くことになりました。しかし、その時、お兄さんは鹿児島国体の水泳の強化選手に選ばれていました。それを与島さんが説得する形で一家で大阪へ引っ越したのです。ところが、引っ越し先の中学には、水泳部がなく、お兄さんの水泳の道はそこで潰えることになってしまいます。とても申し訳ないことをしたとずっとその時のことが引っかかっていた与島さんでしたが、後にお兄さんは、気にしていないよと言ってくれて、胸のつかえが取れたのでした。

与島さんは大阪の中学校で柔道部に入り、そこでキャプテンも務めます。優勝も飾り活躍しました。新聞配達のバイトもしていました。お兄さんはお父さんへの反発もあって、中学卒業後に東京に出ます。東宝ニューフェースに受かって俳優を目指しましたが、しばらくして定時制の高校に入学しました。そこで熱血のすばらしい先生に出会ってから、しっかり勉強し、卒業してからは杉並区役所で公務員になり、今は区のオリンピック委員の常務をされているのでした。子どもの頃はケンカもよくしましたが、今は本当に仲良しです。

 公立工業高校の機械工学科に進んだ与島さん。でも、金属でモノを作るより、木でものを作るのがずっと好きでした。高校でも柔道部でしたが、優勝には届かず、いつも3位でした。それでも大阪150校の中での3位だなんて大したものです。ちなみにあの野茂英雄は高校の後輩なのですが、与島さんの柔道部の熱血先生が後に野球部の顧問になり、野茂を指導されて野茂は高校の時にノーヒットノーランを達成しているそうです。

 ちなみに与島さんはその先生に「ボクサーにでもなるんじゃないか」と言われましたが、お母さんに「ボクサーと相撲取りにだけはならないで」と言われていたので、そちらに進むことはありませんでした。

 高校卒業後に進んだのは海上自衛隊でした。船乗りになりたいという小さい頃の思いが心にずっとあったのかもしれません。舞鶴の教育隊に4か月半いて、8月に呉に配属になりました。先輩に誘われて自転車で走ることも始めました。当時で7万もした自転車を大枚をはたいて買い、週末になると先輩と2人で自転車であちこちの島めぐりをしました。
 そんな時に、広島の原爆ドームと原爆資料館に行って大きな衝撃を受けた与島さん。自分はこのままではいけない、そう思って1年で海上自衛隊を辞めます。けれど、明確に何かしようと決めていたわけではありませんでした。
 自衛隊を辞めた与島さんが、荷物だけ大阪の実家に送り、身一つで自転車旅行に出かけました。そんな時に岡山で備前焼に出会い、ものづくりが好きだった子どもの頃の思いがむくむくとよみがえってきました。自分は伝統産業をまなびたい、そんな思いで大阪の実家に戻ってからは奈良や京都に彫刻を見に行き、彫刻教室にも通いましたが、何か物足りません。奈良の一刀彫の所に弟子入り出来ないかと尋ねましたが、一子相伝で教えられないと言われました。でも、そこで、富山の井波では彫刻で弟子を取っているから行ってみたらどうか、と薦められます。井波は欄間などの井波彫刻で全国的に有名な場所です。そうして、与島さんは、自転車で一路富山に来ました。大阪から自転車で来たのに、なぜか富山市まで行ってしまった与島さん。そこからまた更に自転車を走らせて井波に着いた時は、もうすっかり日が暮れていました。駅前の電話ボックスで電話をかけると、石岡旅館という旅館が一軒だけ泊まれるということでした。遅い時間だから素泊まりしか無理だと言われましたが、行くとおにぎりを作ってくれていて、とってもあったかい気持ちになったのを覚えています。
 事情を話すと、明日瑞泉寺(北陸最大の大伽藍で随所の見事な彫刻が施されている寺院。井波彫刻が発展した中心の寺でもあります)までの道中を上がっていって、その間にどこも見つからなかったら、紹介するからまたこっちに来て、と言われました。

 次の日、瑞泉寺への街道を歩くとすぐにある工房で足が止まりました。そこに飾られていた宮崎辰児さんの彫刻がとてもよかったのです。工房を見学させてもらって、表に戻ると、「彫刻生募集」と貼ってありました。それで、「弟子入りさせてもらえませんか?」とお願いすると、突然笑いだされました。なんと、その日だけで3人も弟子入り希望がいて、与島さんはその3人目だったのです。宮崎さんの所には既に4人のお弟子さんがおられました。宮崎さんはいいと言われたのですが、奥さんに7人もどうやってまかないできるの?と怒られていたそうです。その時、与島さんはまだ19歳だったので、親に確認を取りたいと言われ、それで2日後にお父さんに来てもらったのでした。親方からOKをもらい、晴れて弟子入りすることになりました。年季は5年。井波には職業訓練学校もあって、週に1,2回はそちらにも行きました。そこは3年で卒業になり、その後の2年は修士課程のような感じでたまに学校に行くという感じでした。同級生は20人いましたが、いろいろな年代の人がいて、とても楽しかったのです。お給料は鑿代に消えましたが、職人の世界は道具・弁当・ケガは自分持ちなのでした。お金はあまりありませんでしたが、みんなで一升瓶を囲んでワイワイガヤガヤと芸術論を戦わせる時間がとても好きでした。こうして年季の5年が明けて、与島さんは福光の家具工房で働くようになりました。

 家具工房でしばらく働いた後は、福野の酪農家で働きながら、彫刻に打ち込んでいました。朝4時〜8時までと夕方4時から7時までは搾乳をして、それ以外の時間に彫刻に打ち込んでいたのです。
 そんな時、高岡で銅器のデザインをしている友だちから障害者の椅子作りを薦められました。「デザインの現場」という雑誌に、東京の「でく工房」の障害者の椅子づくりの特集記事があり、「これ、与島くん、いいんじゃない?」と薦められたのです。そこには「いすに座れない子のいすを作る」と書かれていました。障害を持って生まれ、椅子に座ることなく亡くなった弟の姿が浮かびました。吸い寄せられるように、東京のでく工房まで行き、木工でこんな風に作れるのか、と目からウロコの気分になりました。ちょうど、でく工房の荒井さんが金沢美大の先生になっていて、教えにきてくれると言ってくれ、与島さんは、「よし自分で障害者の座れる椅子を作る工房を立ち上げよう!」と決意したのです。そして、高岡でつくし工房を立ち上げました。27歳の時でした。最初は欄間も作りながら福祉用具の椅子を作っていました。障害の子を持つ親とも知り合い、こまどり学園や高志学園などの施設も回ると、一人一人に合ったオーダーメードの椅子の需要が高いことがわかりました。けれど、障害者手帳の枠で木の椅子を作ることに、高岡市の職員はけんもほろろな対応でした。木で作った椅子を車椅子と同じような扱いにはできないというのです。しかし、県職員の高倉さんという方が一緒に真剣に考えてくれて、高岡市にも掛け合ってくれました。車椅子が金属とは限らない。木でもいいと県から言ってもらったことで、市もようやくOKを出してくれたのです。この後、椅子だけではなく、食堂のテーブルとイスをセットで使いやすいものを作ってくれと注文が入りました。テレビ局からも取材が入り、全国放送のズームイン朝でも取り上げられました。こうして少しずつ、木製の福祉用具が広がっていきました。

 実はこの頃つくし工房に、富山医科薬科大学を卒業してすぐの若い女医さんが訪ねてこられたのですが、これが運命の出会いになりました。しばらくしてからおつき合いが始まり、与島さんが28歳の終わりに、二人は結婚。奥様が富山市の協立病院に勤められたこともあって、30歳の時に、つくし工房を富山市に移し、生産を本格化しました。

 18年前には介護保険制度が始まり、福祉用具をレンタルしたりすることも始めましたが、それは高齢者向けになってしまうので、何か後ろめたい気持ちがありました。そんな時に、福祉生協の立ち上げに参加。県内で最初の障害者のデイサービスで責任者になるなどしました。

 50歳になった時、障害児用のデイサービスとしてウエルカムハウスつくしを立ち上げました。重度障害の子を中心に考えていたのですが、富大附属やしらとりの子ですぐに埋まってしまい、そこは知的障害や自閉症の子が中心になりました。そこで、身体的に重度の子のデイサービスとしてつくしの家を立ち上げます。2つにチャンネルを分けて取り組み、今は与島さんのつくしの家グループは県内7か所にまで増えました。
50歳で立ち上げたときに、最低10年はがんばろうとどっぷりハマって突っ走ってきたのです。

 しかし、60歳を過ぎた頃に帯状疱疹になり、なんだか燃え尽き症候群のような症状も出始めました。そろそろリタイヤかなと思っていた時に出会ったのがデンマークのスタディツアーでした。実は私が与島さんと出会ったのもそのスタディツアーがきっかけです。
 デンマークで実際にスヌーズレンハウスを見学し、与島さんは、富山にもスヌーズレンハウスを作ろうと思っていらっしゃいます。スヌーズレンハウスというのは、心も体も解放できる場所で、スヌーズレン(Snoezelen)とは,オランダ語で「鼻でクンクンにおいをかぐ」という意味のスヌッフレン(Snuffelen)と「ウトウト居眠りをする」という 意味のドースレン(Doezelen)からなる二つの単語 から構成される造語に由来しています。障害のある人にとってのスヌーズレンについては,視覚,聴覚, 触覚,嗅覚等の感覚を活用し,心地よい環境の中で 自由に探索活動を行える環境作りを進めることが基本的な理念です。
 そこでは、疲れた親御さんたちもゆっくり休んでほしい、それが与島さんの思いです。
スヌーズレンハウスができたら、私も癒されに通っちゃうかもしれません。
 
 与島さんは、建築関係や病院関係の仲間と一緒に「障壁を考える会」を作って、そのメンバーと月に1回集まって、福祉用具のことをいろいろ話しています。最初は40代だったメンバーが60代、70代になり、ずっと一緒にいろいろな研究をしているので、もう会わないとなんだかその月は落ち着かないそんな感じになっています。コミュニケーションを取るために障壁をどうやって取り除くのか、それぞれの得意を持ち寄って仲間と議論を繰り広げる時間はなくてはならない時間です。与島さんは、常に勉強していたいと思っていて、社会人になってから大学生にもなり、福祉系のさまざまな資格も取りました。年を重ねているからといって、知った顔をするのはおかしいし、若い人から学ぶことはとても大事だと思っています。その謙虚に学ばれる姿勢は本当に素晴らしいですね。

 楽しい時間は本を読んだり、最近始めたギターの練習をする時間です。社長室にもギターが置いてありました。家で晩酌するのもホッとできる時間です。与島さんにはお嬢様がいらっしゃるのですが、娘さんは与島さんのDNAが強いのか、二科展の彫刻で特選を取るなど、彫刻家としてすばらしい実績を上げています。今は一緒に暮らしていますが、この春親元を離れてしまうので、ちょっと寂しげなお父様の顔を見せられました。

 福祉の世界は、善意だけでは続かない、と与島さん。福祉業界に勤める人は優しい人が多い。でも、その人たちの善意に頼っていてはいけない。経営者として、ちゃんと働く人の収入や地位を安定させること、与島さんはそれをとても大切にしています。だから、つくしの家グループでは日曜日は必ず休みにしています。

 今までは、いろいろな人に助けられて歩いてきた。だからこれからは、自分がサポートする側になって若い人たちを支えていきたい、そう笑顔でおっしゃいました。富山の福祉の現場は富山型デイのパワフルで素敵な女性陣で注目されることが多いのですが、こんなにも愛がいっぱい溢れるオヤジギャグのお好きなおじさまもいらっしゃるのです。与島さんは、ギターで涙そうそうを弾かれるそうなので、私の三線とセッションしていただける日を楽しみにしています。

 
今日の人183.八木信一さん [2019年01月08日(Tue)]
 今日の人は、地域総合小児科認定医、日本小児救急医学会SIメンバー等、多方面でご活躍の医師、八木信一さんです。八木先生は富山県自閉症協会の会長でもいらっしゃるので、世界自閉症啓発デーライトイットアップブルー五箇山菅沼でお世話になっています。
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 八木先生は1958年4月1日に金沢で生まれました。おじいさまもお父様もたくさんのご親戚もお医者様というお医者様一家の長男です。お父様はあの「坂の上の雲」でも有名な秋山真之や広瀬武夫ら当時の超エリートが学んだ海軍兵学校に最後に入学した学年の方なのでした。そのお父様は今も矍鑠とした現役のお医者さまとしてご活躍中です。
 
 八木先生、金沢にいたのは数か月だけで、その後お父様が能登の皆月という無医村に派遣されたのに伴い、そちらに引っ越します。当時は移動手段もなく、ご両親はまだ赤子だった先生を一昼夜おんぶして歩いてようやく皆月に着いたのでした。しかし、そんな皆月にいる時に重症の消化不良になって、一ヶ月近くも意識が戻らず、大変危険な状態になってしまったのです。きっともう助からないだろうと、小さな棺桶まで用意されました。しかし、よほど生命力の強い子だったのでしょう。一ヶ月経った頃に目を開けたのです!こうして死の淵から生還し、その後はこの子は本当に運のある子だと言われて育ったのでした。

 次の年にお父様は今度は札幌の自衛隊病院に。そこにいたのは1年くらいでしたが、八木先生にはその頃の記憶が残っています。当時、よくセスナ機が空からビラを撒いていたのですが、幼い八木先生は病院の屋上でそのビラを拾うのが好きでした。空から紙が降ってきて、それが楽しくてたまらなかったんですね。
その後、お母様が出産でご実家のある東京に。そこに八木先生も一緒についていったのですが、その時乗ったセスナ機が乱高下して大変怖い思いをします。よほど怖い思いをしたせいか今でも八木先生は飛行機が苦手で、移動はもっぱら新幹線なのでした。

そうして3歳違いの妹が生まれた後、八木先生のご一家はおじいさまが産婦人科をしていらっしゃる高岡へ。おじいさまの家の離れで暮らし、八木先生は高岡のカトリック幼稚園に通いました。この頃の八木先生はとにかくじっとしていられない子どもでした。富山弁でいう「しょわしない」子だったのです。古城公園のお堀の白鳥に石を投げては怒られ、家の前に飛び出してミゼット(三輪自動車)にはねられ、幼稚園ではお祈りのミサの時に鼻クソをほじっていてシスターに怒られ、おじいさまの病院の診察室を覗いて看護婦さんのスカートめくりをしておじいさまにお目玉をくらい、それでも凝りもせずに動き回っている、そんな子でした。途中、東京の幼稚園にも数か月通っていたのですが、最初は富山弁を馬鹿にされるのがイヤであまり話せませんでした。けれど、海の絵を描くお絵かきの時間に、東京の子たちはうまく海を描けなかったのですが、高岡の海をよく見ていた八木先生は海と船を見事に描きました。それでみんなにほめられてすっかり東京の友だちとも仲良くなり、小学校に入ってからも東京に行った時には一緒に遊んでいました。八木先生は今も全国にたくさんのお友達がいらっしゃるんですが、誰とでもすぐに友だちになれる特技はその頃から変わっていらっしゃらないんですね。

高岡の小学校に入る予定だったのですが、富山へ引っ越すことになり、八木先生は星井町小学校に入学します。2年生の2学期からは愛宕小学校に転校しました。その頃お父様はたびたび入院されることがあり、入院しながらも日赤病院で働いていらっしゃいました。そんな時は八木先生はこれまたお医者さまの親戚のおじさんの家に預けられました。この家のいとこも大変優秀で、その家のおばさんが大変な教育ママだったのでテストは100点じゃないと怒られるのです。その頃の八木先生はあまり勉強が得意ではなかったので、100点はたまにしか取れません。それで100点の時だけテストをおばさんに渡し、それ以外のテストはドブに捨てていました。しかし、ドブに捨ててあったテストをご丁寧に拾って届けてくれた友だちがいたからさあ大変。当然のごとく、おばさんから大目玉をくらうことになるのでした。けれど、お母さんから勉強のことで怒られることはあまりありませんでした。情操教育にと絵やピアノも習わされましたが、どれも長続きしませんでした。そんな時、君は声がいいからと合唱団を薦められて入団テストを受け合格しましたが、勉強もせずに合唱もないもんだとお父さんに反対されてあえなく退団。
八木家では子どもの通知表をおじいさんに見せるのが年中行事のようになっていましたが、いとこ達がことごとくオール5なのに対して、八木先生はオール3でした。でもおじいさんは「お前はえらい、オール5よりオール3を取る方が難しい」と言って褒めてくれるのでした。いとこ達も「信ちゃんすごいね」と言ってくれて、それで八木先生は腐ることなくのびのびと子ども時代を過ごせたのかもしれません。八木先生はこのおじいさんのことが大好きでした。

子どもの頃から運動は大好きでした。体育の跳び箱、お昼休みや休み時間はポートボールやゴム飛び、運動会でもいつもアンカーでした。鼓笛隊にも選ばれて学校代表でチンドンコンクールに出たりもしていました。そんな八木先生の小学校時代の夢は宇宙飛行士でした。ちょうど6年生の時にアポロが初めて月面に着陸したのです。それで、卒業式の呼びかけで八木先生は「宇宙飛行士になりたい」と言うことになったのですが、これを先生に何度も何度も練習させられました。あまりに練習したので、その夢は卒業式の呼びかけをもってあきらめました。

八木先生が中学に入学したのは1970年でした。ちょうど大阪万博が開催された年です。
入った部活は柔道部。もっとも、ちゃんとした練習はあまりせず、その頃流行っていた「柔道一直線」の技を真似するなどしていました。そこで空手に興味を持ち始めるようにもなりました。
その頃はあさま山荘事件が起こるなど学生運動真っ最中の、激動の時代でした。でも、実は大学紛争が間接的に八木先生に影響を与えることになったのです。今の若い人は学生運動といっても全くピンとこないと思いますが、過去を振り返る映像で東大の安田講堂に放水されている場面は見たことがあるかもしれません。そんな東大紛争の期間、大学では講義が行われていませんでした。八木先生には東大理Vに行っている従兄がいたのですが、彼はどうせ講義がないしとヨーロッパをバックパッカーで旅していました。しかし、その時ドイツで大事故に遭い、奇跡的に命はとりとめたものの、療養を与儀なくされます。富山で療養していたのですが、どうせベッドの上で動けないから、リハビリがてら信一の勉強を見てやるよと八木先生の家庭教師を買って出てくれたのです。その頃、八木先生は中学2年生でしたが、成績は学年の中の下といった感じでした。しかし、従兄に教えてもらってからはあれよあれよという間に成績があがり、あっという間にトップクラスに躍り出ます。県立高校は行けるところがないかもとまで言われていたのが、富山中部(富山で最難関の進学校)でもどこでも大丈夫です、と言われるまでになったのです。

しかし、八木先生、単なる優等生ではありませんでした、中3の時にこっそりと夜に家を抜け出し(1階から出るとばれるので、2階の窓から飛び降りていました)、友だちと一緒にカミナリ族を見に行こうと夜遊びを始めました。カミナリ族というのは暴走族のことで、実は暴走族の発祥の地は富山なのです。暴走族に入ったわけではありませんが、自転車で友だちと夜中に遊んでいました。それで成績も落ちなかったのだから、大したものです。しかし、これにはさすがにお父さんも怒り、坊主にして来いと言われました。しかし八木先生、その時流行っていた高倉健みたいな髪型にしてきたものだから、さらに怒られ、とうとう丸坊主にさせられてしまったのでした。
そんな感じだったので、おじいさんからの「信一は親元においておかない方がいい」との助言もあり、県外の高校に行くことになったのです。富山でも屈指の進学校富山高校にも合格していましたが辞退することにしました。その時、富山高校にトップクラスで合格していたので、高校から「ぜひうちに入ってほしい」と慰留に来られたほどでした。しかし、八木先生は岡山県倉敷市の川崎医科大学付属高等学校に進学します。この頃には自分は将来医者になろうとの思いを強くしていました。

この高校は全寮制の高校で、入った生徒はほぼ全員医学部を目指します。平日は外出は出来ず、7時の起床後は毎朝寮毎に朝礼もあり、そこで点呼されるのでした。1年生の時はサッカー部に入っていましたが2年生からは中学の時からやっていた空手部に。もっとも、高校には空手部はなかったので、川崎医科大学の空手部に入ってそこで練習していました。また週に一回あったクラブは軽音楽クラブに入って、バンドを組んでいました。キャロルのコピーをして、ボーカルとサイドギターを担当。あちこちで演奏する機会もあり、八木先生はいろいろな所でとってもモテました。けれど、その頃特定の女の子と付き合うことはしませんでした。お父さんから「(何をしてもいいけど)女の子を泣かせるようなことだけはするな」と言われていたのです。
八木先生、けっこうヤンチャでタバコを吸ったりお酒を飲んだりして謹慎処分になったこともありました。そんな時は親が呼び出されるのですが、お父様は「俺たちの旧制中学の時はよかったんだけどな」と言って、決して息子を責めるようなことは言いませんでした。「学校では吸うなよ」とだけ言って、長期休暇で家に帰ると、部屋に灰皿が用意されているような、そんなお家でした。それは麻雀で謹慎になった時も同じでした。お父様は怒るどころか「なんで麻雀がダメなんだ?」とおっしゃったのです。お父様にもきつく叱られていたらきっと反発したくもなったでしょう。しかし、そういうお父様でしたから逆に救われていました。だからこそ「女の子を泣かせるようなことだけはするな」の言葉をしっかり守っていたのだと思います。
その後もバンド活動をしたり、先輩に借りたバイクで走ったり、サッカーの試合をしたり、体育館でひたすら体作りをしたりと充実した高校生活を送りました。寮は縦割りの5人部屋だったのですが、寮の中でも八木先生は年齢を問わずたくさんの仲間ができ、今も仲良く付き合っています。

そして川崎医科大学にストレートに進学した八木先生は、バンド活動も続けていましたし、空手ももちろんやっていました。しかし、2年生になった時、お酒の飲みすぎで膵臓を壊し、夏休みの間、富山で入院します。これがきっかけでお酒を飲まなくなった八木先生はウインドサーフィンに熱中するようになりました。「Hi Wind」というサーフィンの雑誌の創刊号に写真が載ったくらいです。
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八木先生のサーフィン姿

大学3年生の時にはスピード違反でまたまた謹慎処分になった八木先生。この時は夏休みが没収になって、夏休みの2か月間、毎日教授の所に通って英訳をさせられました。そうして毎日教授の前で発表させられたのでした。それまで医学用語の英語に関しては問題なかったのですが、このおかげで、話す方も問題なくなります。もっとも、ずっと自分で全部英訳していたわけではなく、宿題になった分は八木先生のことが好きだった後輩に手伝ってもらったりもしていました。特定の彼女は作らなかった八木先生ですが、女友達は本当にたくさんいて、八木先生のことが好きな子もたくさんいたのです。その子たちをうまく使うのはお得意だったようです。今もダンディな八木先生ですが、その当時のお写真を見ると、絶対モテますよね!って感じです。

川崎医科大学は高校大学を通して、かなりの率で留年する学生がいました。9年間ストレートで卒業していくのは5割くらいでした。これだけ遊んでいて、謹慎もくらった八木先生でしたが、留年はせずストレートで卒業したのです。3年生までは成績もギリギリで留年を免れていたのですが、4年生になった年に妹さんが大学に入学してきます。超優秀で学費免除で入学してきた妹さん。大学の先生たちは「あの子はお前の妹か」ではなく、「お前があの子の兄か?」という言い方をしました。さらには「妹さんは優秀だなぁ」と。
それが癪に触り、そこからはちゃんと勉強し始めた八木先生。勉強したら成績が伸びるのは昔も同じで、4,5,6年の時はトップクラスでした。
 渡辺淳一の作品や白い巨塔が好きだったこともあって、第一志望は外科でした。しかし、小児科の教授の所へも挨拶に行ったときに、教授が「君の妹さんは小児科医になるかね?」と妹のことを聞いてきたのです。その言葉に「僕が小児科医になります」と言ってしまった八木先生。しかし、外科系も1年くらいまわりました。その後、3か所くらいに派遣されて、派遣されるたびにたくさんの女性を泣かせてきた八木先生。ご自身は硬派だとおっしゃいますが、そんなにたくさん女性を泣かせてきたとなると、硬派なのかプレイボーイなのかわかりませんね。(あれあれ、お父様に女の子は泣かせるなって言われていたのに、と言うと、自分が泣かせたわけじゃなくて、向こうが勝手に熱をあげちゃうんだ、とのことでした!)そんな時に、教授から、君はちょっと外の空気を吸ってきなさいと、愛媛県の今治市の病院に派遣されることになります。しかし、行く先々でそんな風にたくさんの女性が泣くことになるので、君は身を固めてから行きなさいということになりました。その頃、八木先生がバイトに行っていた施設に養護学校がありました。その養護学校の校長先生は大学の理事長の知人でもありました。八木先生は大学の理事長にも可愛がられていたのですが、その校長先生の姪御さんがいい子だからと言って紹介されたのが、奥様です。12月に会って、次の3月30日が結婚式に決まりました。そして4月から今治に赴任です。八木先生のお誕生日は4月1日なのですが、29歳の1年間が四国の今治での新婚生活を送りながらの赴任期間になりました。その後、岡山大学の研究施設で脳代謝の研究を1年。母校の教授に大学院に入れと言われ、英語、ドイツ語、一般教養の大学院入試をちゃんとパスして大学院に入ります。4年間、大学院で研究生活を送ったわけですが、その間に長女と次女も生まれました。世の中はちょうどバブルの真っ只中。八木先生も後輩たちと一緒に岡山のディスコに繰り出しては踊っていました。その時、奥様は乳飲み子を抱えていらしたのに、ご主人が夜な夜な踊りに行っていても何も言われなかったなんて、なんて心が広いんでしょう。この頃、夜中の1時くらいに帰っては、長女を起こして長女ともダンスをしていたという八木先生。実はその娘さん、今はお医者様をやりながらベリーダンサーもされているそうです。きっと、その時のダンスの楽しい記憶があってベリーダンスも始められたのではないかとのことでしたが、寝かしつけた子どもを真夜中に起こされる奥様はたまったものじゃなかったんじゃないかなぁと思ってしまうのでした。

 しかし、もちろん遊んでばかりいたわけではありません。博士論文では、ミルクをいかに母乳に近付けるかという研究をしていました。実際に初乳から順を追って母乳の成分を分析していくのです。実は某有名メーカーの粉ミルクはこの時のデータが基になった成分で作られています。私はほぼ母乳で粉ミルクは使いませんでしたが、八木先生が携わられたって知っていたら粉ミルクも、もっと安心して使えていたかもしれませんね。
ただ、博士論文の提出期限の1か月前にぎっくり腰になって動けなくなってしまった八木先生。しかし、この時も仲良くしていた後輩が毎日自宅と研究室を往復して、八木先生のフロッピーディスクを届けてくれたおかげで、ちゃんと論文を出すことができたのでした。いつでも人に恵まれているのは取りも直さず、先生が人を大切にしているからにちがいないのでした。

 お父様が大病をなさっていたこともあって、大学院で一区切りついたら富山に戻る決意をしていた八木先生は平成5年に富山に戻ります。最初は富山大学に籍を置きながら済生会高岡病院に勤めました。半年くらいのつもりで行ったのですが、先生が済生会に行ってからどんどん患者が増えて、結局1年半済生会にいました。その後、大学に戻りましたが、大学でも大変忙しくなり、働きづめに働いていました。昼夜なくそして休日なく働きすぎたせいでしょうか、42歳の厄年の時に、突然何をするのもイヤになって無気力になり、夜は寝られなくなりました。そして、車の事故を起こしてしまいます。このままだとダメだ、そう思った八木先生は、大学病院を辞めて、実家のクリニックで働くことに決めました。平成15年のことでした。

 しかし八木先生が実家の病院に入る頃から、お父様は体力を回復され、そのまま院長はお父様がおやりになって、八木先生は副院長に。それで家の病院でも働きながら、大学病院の勤務医も続けられていて、それは今もずっと変わりません。それ以外にも医師会の理事や他の役職も数えきれず、救急の当直もしょっちゅう引き受けられ、週末ごとに出張で全国を飛び回っていらっしゃいます。そんな風に片時もじっとしているのが苦手な八木先生なのでした。
 そして還暦を迎えた今も、銀座や六本木で遊ぶのも好きですし、隙間時間にスキー場へ行って一滑りしてこられる等、とにかくパワフルです。

 そんな先生とダイバーシティとやま、いったいどこで接点が…?という疑問もごもっとも。実はとても大事なことをまだ書いていません。
 八木先生のご長男は自閉症で生まれ、今はめひの野園のグループホームに入所されています。先生は富山県自閉症協会の会長もされていて、ダイバーシティとやまで毎年開催している4月2日の世界自閉症啓発デーライトイットアップブルーでご縁があったのです。八木先生はちょうどめひの野園に自立支援センターありそが出来た時に東真盛さんと知り合い、自閉症協会の活動にも関わるようになられたのでした。医者としての目線だけでなく、親の目線で共感してもらえるのは、自閉症の子を持つ親御さんにとって、どれほど心強いことでしょう。
 
 本当に数多くの仕事をこなしている八木先生が、もっとも力を注いでいらっしゃるのは障害児医療と子どもの救急です。お忙しい合間を縫って、重い障害を抱えた子の家に往診にもいらしてます。お得意のスキーではスペシャルオリンピックスで障害者スキーのコーチもされているので、趣味と実益を兼ねられてとても楽しいのだと。

 30年来の付き合いのある患者さんもいらして、今も先生先生と慕ってくれるのも嬉しいし、生まれた時から診ている子がいろいろな成長を見せてくれるのも何より嬉しいことです。

 今は人と人をつなぐことが多くなったけれど、それは今までつないでもらったお返しもしたいからです。1人で1000のことは出来ないけれど、100人育てて1人ずつが10のことをすれば、1000になる。そんな風に人を育てていきたい。そうしていつか、聴診器を持ったまま事切れることができたら、それは医者として本望だとおっしゃいました。
その時は、娘さん(娘さんもお2人ともお医者さま)に臨終を伝えてもらって、孫に看取られたい。子どもや孫に自分の志を継いでもらえたらこんなに嬉しいことはない。そして、その志は背中で伝えていきたい。そう八木先生は思っています。

 スキーにサーフィンに空手にロックンロール、そして白衣と聴診器、誰にも負けない障害児医療への情熱、還暦過ぎてもまるで漫画の主人公みたいにスピード感あふれる八木先生。これからも、その誰からも愛されるキャラで、たくさんの悩める親子の道標になってくださいね。