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今日の人174.横田宗親さん [2018年02月12日(Mon)]
 今日の人は、自治体国際化協会多文化共生部部長の横田宗親さんです。
IMG_5709.JPG
多文化共生に関わる仲間たちと 
向かって右端が横田さん

横田さんは1987年に群馬県庁に入庁後、1989年に自治省(現総務省)に入省。国際室係長、財政課係長、兵庫県宝塚市行財政改革担当部長、埼玉県さいたま市財政部長、自治税務局固定資産税課交納付金管理官などを歴任。2017年4月より一般財団法人自治体国際化協会多文化共生部長として自治体や国際交流協会における災害時外国人支援や多文化共生施策の支援に取り組んでいらっしゃいます。
経歴だけ見ると、「うわ~」って思っちゃいますが、横田さん、実はグレてたことがある!

 横田さんは昭和42年に前橋で生まれ前橋で育ちました。家はサッカーで有名な前橋育英高校のすぐそばです。
今はとっても陽気で誰とでもすぐに友だちになれる横田さんですが、小さい時はとてもおとなしかったそうです。あまりにもしゃべらないので、お母さんが心配して児童センターに相談したくらいでした。

 しかし、小学校に入ってからはすっかりおしゃべりになり、クラスの人気者に。仲良し5人組でいつも外で遊んでいました。昔ながらの缶蹴りをしたり、秘密基地を作ったり、川で釣りをしたり、みんなで将来の夢を書いたカプセルを埋めたり。ちなみにそのカプセルはまだ掘り出しておらず、またどんな夢を書いたのかも覚えていないそうです。カプセル、いつか見つかるといいですね。

 ピンクレディが好きでよくみんなの前で踊っていました。今の横田さんの風貌からは到底想像できないのですが…。今度機会があったら見てみたい♪
野球も好きで家中みんな巨人ファンでした。2歳年上のお兄ちゃんだけ、なぜか中日ファンでした。お兄ちゃんとはよくケンカもしましたが、今ではとても仲の良い兄弟です。

 5年生の時、塾の先生に恋をします。石野真子似のとってもキュートな先生でした。そこで俄然勉強も頑張り出した宗親少年。一気に成績が伸びました。

中学ではバスケ部に。同学年の部員が20人もいる大所帯でしたが、とても楽しく、夏休みには自主練もこなすくらい熱も入っていました。中三ではレギュラーを勝ち取ります。
クラスでは学級委員で、生徒会長選挙にも立候補。残念ながら当選はしなかったのですが、生徒会では書記を務めていました。バレー部の同級生の子と当時流行っていた交換日記も回したりして、楽しい中学生時代を過ごしたのでした。

 高校受験は、模擬試験で合格圏内に数回しか入らなかったにもかかわらず、お父さんに県内一の進学校の前橋高校を受けろと薦められ、そこを受験することに。横田さんご自身は本当は別の高校に行きたかったのですが、そこを受けることはできませんでした。しかし、前橋高校には落ちてしまい、東京農業大学附属高校に行くことに。これが横田さんの一つ目のターニングポイントになりました。行きたい高校に行けず、高校に落ちたショックからか、ぐれ始めたのです。内緒でバイクに乗ったり、ロカビリーにハマったり、とにかく家には帰らず、友だちの家にたむろったりと遊び呆けていました。 そんな中、お母さんは「あの子は本当は別の高校を受験したかったのよ」とお父さんにちらっと言った時に、お父さんが怒って、お母さんにてをあげたことがありました。それに腹を立てた横田さんはその後ずっとお父さんとは口をききませんでした。  
けれど、お母さんのことを悲しませては絶対にいけないと思っていたので、グレても人に迷惑をかけるようなことは決してしませんでした。  

 高校3年生になった時、就職しようと横田さんは考えていたのですが、ここでまたお父さんから群馬県立農業大学校に行くことを薦められ、薦めのままに全寮制の2年制の農業大学校に入りました。しかし、ここでもちっとも勉強はせず、ひたすら遊びまくりました。派手な車に乗り、ナンパ街道と言われているところで、友だちと可愛いい子を追っかけまくってました。そんな中、20歳になる手前、就職のことを考えなくてはいけなくなった時、横田さんははたと思ったのです。今までさんざん親に迷惑や心配もかけたし、ここで何とか男気を見せよう!そうして、2か月猛勉強して、県庁職の公務員試験に合格したのでした。    

 こうして20歳の時に群馬県庁に入ります。最初に配属されたのは精神病院の医事課でした。辞令交付後の初仕事は、なんと亡くなった患者さんの立ち合い。家族が来るまでの1時間半。霊安室で過ごしたのです。
 精神病院には実にさまざまな人がやってきます。それは自分がそれまでに経験したことのない世界でした。全身に入れ墨を入れた人、アルコール中毒や薬中毒の人、外来患者で仲良くなって、なんとか来なくてもよくなった人たちが、何か月かしてまた再びやってくる。そして、いい時と悪くなった時はまるでちがう人になっています。
「こんな病気で苦しむ人たちが世の中にいるんだ、自分はなんて幸せ者、もっと頑張らなきゃあかん!」最初に精神病院に配属されたことは横田さんにとって自分の人生を真剣に考えるとても大きなきっかけになりました。そうして、自分にはもっと本気を出してやれることがあるんじゃないか、そう思うようになりました。
 
 ちょうどそんな時、自治省に行く試験があるから受けてみないかと上司に言われます。横田さんはその試験に見事パスし、自治省(現総務省)に入省したのでした。そして、入省後に夜間大学にも通わせてもらいました。

 自治省には東大を卒業したバリバリのエリートがたくさん入ってきます。そんな中で横田さんの経歴は異例かもしれないけれど、東大卒のエリートでは決して体験していないようなことを体験してきたことは紛れもなく横田さんにとっての宝物です。今まで挫折を味わったことがない人たちはポキッとすぐに折れてしまうけれど、横田さんには柳のようなしなやかさがあります。何があっても対処できる多様性があります。もし、横田さんが前橋高校に受かって、ずっと優等生の道を歩いてきたら、今のようにいろんな視点を持つことができなかったかもしれません。

 そんな横田さんの経験が発揮されたエピソードをひとつご紹介します。横田さんが兵庫県宝塚市行財政改革担当部長をされていた時のこと。督促状に怒った恐い人が部長室にまで怒鳴りこんできたことがありました。普通ならビビりそうなところですが、そこは昔やんちゃしていた横田さん。そんな怖い人に絡まれることもあったので、熱くなっている相手にとっても冷静に事態を収拾したのでした。きっと部下の皆さんもそんな部長を「なんて頼もしいんだ!」と思ったことでしょう。

 平成7年から9年にかけては国際室でJETや、ODA予算で途上国の政府機関幹部との交流事業をアレンジをする仕事をしていたのですが、これがとても楽しかった。ただ途上国の人たちと直接話したいと思っても通訳を介してのコミュニケーション、英語をもっと勉強してればと後悔したそうですが、昨年からクレアの多文化共生部勤務になったので、奮起して英語を習い始めました。宿題がとても多くて大変なのですが、五十の手習いもまた楽し、とレッスンに励んでいます。

 スポーツも得意な横田さん。若い頃のサーフィン、今はたまにのゴルフ、息子さんの野球の審判とこちらも多彩です。サーフィンをやっていて真っ黒だった若い時のニックネームはボブ。「あ~、なるほど」と横田さんに会ったことのある人はきっと思うにちがいないですね。
 五十歳になって、退職後のことも視野に入れて考えるようになってきました。子どもが大好きなので、子どもたちに何か教えたい、そんな場を作りたいとも思っていますし、日本語教師にも興味があります。居酒屋もやりたいと思っています。いっそ、夜は居酒屋をやって、その場所を昼は日本語教室や子どもたちの居場所にするというのはいかがでしょうか?そんな場所ができたら、きっと私もしょっちゅう顔を出します。

 そんな横田さんの座右の銘は「笑門来福」そして、座右の銘と一緒に心がけている言葉が「人生お一人様一回限り、楽しみま笑」
 だから、今日も横田さんは笑顔です。
 多文化共生に取り組む全国各地の多文化共生マネージャーの皆さんにはぜひとも一度会っていただきたいなぁと思う豪快で素敵な部長さんなのでした。