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今日の人167.米村美樹子さん [2017年06月19日(Mon)]
 今日の人は、中国人の研修プログラムのデザインや翻訳、手帳術コーチとして願いが叶う手帳術講座等を開催されていらっしゃる米村美樹子さんです。19243765_1376214452465199_264156772_o.jpg
2012年の反日デモの直後の国慶節に天安門広場にて
見知らぬ中国人のおじさんがシャッター切ってくれた一枚


 米村さんは高岡市で生まれ育ちました。小さい頃はショートヘアで、よく男の子に間違われていたそうです。本当はロングヘアに憧れていたのですが、お母さんがショートが好きで、ずっとショートにされていたのでした。でも、その反動からか小学校中学年になってからはロングにして、いつもツインテールにしていました。

 近所の子と外遊びもしましたが、お絵かきが大好きでした。変わったところでは納戸に入るのも好きでした。昔の箪笥やおもちゃ箱がしまってある納戸に入ると妙に落ち着いたのです。

 小学生の頃はキャンディキャンディやベルサイユのばらが好きでした。キャンディキャンディではアンソニー、ベルサイユのばらではオスカルが好き、という王道路線でした。作品の歴史的背景を調べるのも大好きでした。この場所と場所、国と国はどうつながるんだろう、そんなことを考えるとワクワクして家にあった地理の本をいつまでも読んでいるような少女でした。
 
 低学年の頃はバレーボールの選手になりたいと思っていました。その頃アタックNo.1が流行っていたこともあって、ドッジボールが怖かったくせにバレーボールの選手になりたいと思っていたのでした。みんながキャーキャー言っていたアイドルには全く興味がなく、小学生の頃からラジオで中島みゆきやユーミン、オフコースを聴いていました。

 中学校では剣道部に入部。女らしくないことをしたいと思って剣道部を選んだのですが、その年はなぜか女子部員がすごく多い年でした。そして小学校の時から地理や歴史の本を夢中で読んでいた米村さんは、中学校でも歴史が飛び抜けて好きでした。米村さんの歴史のノートの取り方があまりに素晴らしくて、高校の時など歴史の先生に「お前のノートの取り方を見せてくれ」と言われていたほどです。歴史全般が得意だったのですが、中でも中国史は異常に頭に入りました。三国志や史記が好きで、大学時代は文献を翻訳していたため漢和辞典をひくのが速いという変わった特技の持ち主になりました。
 高校時代はバスケ部のマネージャーをしていたのですが、高校野球が好きで甲子園まで見に行ったりもしていました。

 大学は中国史を学びたくて、京都女子大へ。古美術研究会に入ってお寺や庭をたくさん見てまわりました。高台寺で特別拝観のガイドをさせてもらったときには、CMのロケで訪れた女優の黒木瞳さんを間近で見たのが思い出です。

 大学時代は羽目を外すこともなく、大学とデザイン事務所のバイトに行き、アパートに戻ってニュースステーションを見て寝る、というなんともまじめな生活でした。

 大学を卒業後しばらくして、NHK富山の契約アナウンサーとして採用されます。当時ローカルの契約では2年で辞めなければならないという暗黙の了解がありました。2年で辞めた後は東京でフリーのアナウンサーになりました。フリーのアナウンサーにとってオーディションは日常茶飯事です。それは大学入試のようにボーダーラインが決まっているわけではなく、誰が採用されるかは神のみぞ知るといった感じです。この時期の経験が、米村さんに努力しても報われないことがあるということを教えてくれたのでした。そんな時に大切になってくるのは、どうやって自分の心と折り合いをつけるか、ということです。みんなプロですから、プライドがある分、余計に嫉妬が芽生えやすい世界でした。そんな中で鍛えられたので、きっとずいぶんとタフになったはずです。

 その後、NHKの国際放送局に採用になった米村さん。ナレーションもいろいろ担当したので、「あなたの番組聞いていたよ!あれ、あなただったんですね」と後に言われたこともありました。国際放送局は人間関係はとてもいい所でしたが、9.11テロ直後、特別編成で番組が突如休みになり、お給料がもらえなくなるということもありました。なにしろ番組が放送されて初めてお給料がもらえるので、番組が放送休止になると、その分のお給料ありません。このままだと生活できないと訴えたことがありました。おかげですぐにその状況は改善されました。
国際放送局の仕事を始めてから6年後、米村さんの担当していた番組が終わることになりました。米村さんは仕事を辞めて前々から興味があった中国に留学しようと決断。しかし、その年はSARSが大流行した年でもあり、ご両親は米村さんが留学することに大反対でした。中国に移ってからも反日デモや悪い報道がたくさんあったので、お母さんはワイドショーで悪いニュースを見るたびに電話をかけてきました。母が娘を心配する気持ちはもっともですが、その後たびたび日本人のメディアリテラシーについて考えさせられました。日本人は概してメディアの情報を取捨選択する力が高くなく、報道されたことがすべてと思い込んでしまいがちです。報道は本当だったとしても、それは全体のうちの一部にすぎないことが往々にしてあります。作り手のバイアスがかかる場合もある。鵜呑みにするのは決してよいことではない。中国にいると、それを身を持って感じるのでした。
 
  中国に留学した当初、中国語検定3級は持っていてもちっとも話せない現実に愕然としました。留学先の大学での中国語の授業は、教師の技量がまちまちな上、教え方が確立されていないために必要に感じられない授業もありました。むしろ大学教授の奥さんと相互学習がどんどん中国語の会話を上達させました。しかし、最初のうちはなかなか北京に馴染めませんでした。その頃は大学の周辺にはほとんど洗練された所がなかったのも理由の一つです。留学して3か月経過した頃「3日でいいから東京に帰って青山のカフェでお洒落な友だちとお茶したい!」と思ったこともありました。

 2005年は反日デモを間近で目撃して、少なからずショックを受けます。デモ隊が大学の正門前を通過していくときに、学内からどんどん学生が合流していく様子がマンションの窓から見えました。日本はそれまで中国に対して支援してきていたけれど、デモに参加している人たちはそれも理解していないこともショックでした。

 上海と比べて北京は日本人が圧倒的に少ない一方、日本人が手を付けていないビジネスの領域がたくさんありました。米村さんはそれまでのアナウンサー時代の経験を活かして、プレゼンのスキルを上げるセミナーを管理職向けに開催しました。そこから次の仕事につながって、中国人にビジネスマナーをや日本式の仕事の進め方を教える仕事が少しずつ増えていきました。

中国に住む時間が長くなるにつれ、次第に中国人への理解も深くなってきます。中国人ってこんな考え方をするんだ!という発見も面白かった。馴染めなかった北京での暮らしから少しずつ「苦」の部分がなくなっていきました。特に2007年の年末から3か月帰国した際は考えに変化が生まれました。北京にいる間「何で私はここにいるんだろう?」と嘆きたくなることがままあったけれど、北京という町はこれはこれでいいのだ。この時期そう考えられるようになっていました。そしてやはり日本にいて痛切に感じたのは、日本人は中国人のことを理解していない、いや理解しようとしていないということでした。メディアを介した中国人の情報は信じるけれど、自分の目で中国や中国人を見ていない。メディアの情報は全体から見た一部でしかないことが理解できなければ、結局発想が堂々巡りになるだけではないだろうか。自分で見て、感じて、考える必要性を痛感しました。

それをより強く感じる出来事が起こりました。2012年の反日デモでした。デモの数日前は、親しい中国人から日本人だとばれると危ないから一人でタクシーに乗るなと心配されるほど緊張感があった、それは確かです。そして北京の日本大使館前でデモが発生した際、周囲が厳戒態勢だったのも事実でした。しかし、自宅周辺も仕事場周辺も、北京のほとんどはいつも通りの穏やかさでした。デモの喧噪は一切聞こえませんでした。この事実が伝えられないのは理由があります。日本のメディアは大手と言えと、中国を担当する記者の数は各社せいぜい3,4人。多くて5,6人。限られた数で日本の25倍の面積の中国全土をカバーするので、目立つ大きな現場ばかり取材することになります。結果、私たちが日本で目にするのは必然的に刺激的な部分ばかりにならざるを得ないというわけです。米村さんはこのとき日本のテレビ局の電話取材を受けました。デモ隊がいるのは日本大使館周辺だけで北京は概ね平穏であること、事態を悲しんだり、米村さんに対し謝罪してくれた中国人がいたことを紹介しました。しかし、中には無神経な日本の新聞社もありました。メールやメッセンジャーでの情況確認も取らずいきなり日本語で携帯電話にかけてきたのです。中国語にも英語にも反応できない人物が、です。仮に偶然過激な考えの人がそばにいる恐れがある場所で日本語を話したとしたら、自らの安全は保障できません。電話をかけてきた新聞記者は相手がどんな状況にいるかを考える視点がすっぽりと抜け落ちていたのでしょう。取材をするときに大切なのは、取材相手の生命に少しでも危険が及ぶ可能性は排除しなければならないということです。良くも悪くも、日本人は平和だなと感じた出来事でした。

2013年、北京の生活環境は厳しくなっていました。急速なインフレで、家賃も生活費もどんどん上がっていきました。空がいつも真っ白で防塵マスクは必需品になり、朝窓の外を見るたびに気持ちが落ち込みました。その環境にいることのリスクを考えて、日本に戻ることに決めたのです。

そうして、2013年の5月、富山に帰ってきました。これからは中国と日本を近付ける、そんな役割を担おう!そう思いました。

ある時、自分の手帳の付け方が実用的なことに気が付きます。そこで手帳術のセミナーを高岡、続けて東京で開催したところ、すごく評判がよかった。きっちりせずに怠けながらできるのですが自己肯定感がすごく上がっていくのです。興味がある方はぜひ、米村さんの手帳術セミナーを受講してみてくださいね。目からウロコなこと間違いなしです。
手帳術セミナーは今後中国語バージョンも作って、中国でも展開していこうと考えています。あまり手帳を取る習慣のない中国の人にはきっと画期的でしょう。

米村さんは安定した場所にずっといると何もしなくなるので、自分に不安になるそうです。自然に他人がやっていない所を探して手を出したくなる習性があると素敵な笑顔で教えてくださいました。敢えて苦労する道を選んでいくフロンティアスピリッツに溢れていて、今どきの軟弱な草食男子にちょっとお説教をお願いしたくなりました。

そんな米村さんが今楽しいことは、飛行機でも列車でも乗り物に乗ってどこかに行くことです。移動そのものが好き!と嬉しそう。はじめての場所に行って、歩いて、その土地の地形を把握するのも好きです。街歩きの達人・タモリさんが、“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラタモリ」がお好きなわけですね。

他の場所から遊びに来てくれた友だちといろいろな話をすることもとても楽しい。そして、愛猫といる時は、いちばんほっとできる時間です。

夢は大きく、東アジアの平和です。お互いにいがみ合っていても何の解決にもなりません。米村さんのような方が中国と日本を近付ける活動を続けてくださることが、メディアの一方通行の知識しか持たない人の意識を変化させてくれるのだと思います。

「人は食べ物がおいしいところにいたらそこそこ幸せ」と ここでもかっこいい姉貴っぷりの米村さん!海外生活が長かった米村さんの言葉だからとても説得力があります。この後どんなふうに道を切り拓いていかれるのか、とっても楽しみにしています。
今日の人166.毛利勝彦さん [2017年06月10日(Sat)]
 今日の人は、設計事務所を経営され、また建築士としていろいろな設計に携わりつつ、今はアパートの大家さんとしてそこに住んでいるベトナム人留学生たちに日本の親父さんのような存在で接している毛利勝彦さんです。
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アパートで学生と歓談?している毛利さんビール


毛利さんは昭和27年に3月25日に富山市で生まれました。
小さい頃は泣き虫で、お母さんが仕事で家にいないと泣きべそをかいていたものです。
でも、その頃の日本は子どもがたくさんいた時代で、近所の子どもたちとメンコをしたり、お宮さんの周りを走り回ったり、かくれんぼしたり、いろんなことをして外で遊んでいました。
 小学校に入ってから、中学校までは滑川で過ごします。将来やりたいと思うことは特になかったので、勉強は全くしませんでした。中学2年からは町内の子に引きずられるように、不良グループに。昼から学校をサボって富山の街中へ繰り出し、映画を見たり、大和デパートの屋上で動物を見たり(当時大和の屋上は子どもの遊園地と小さな動物園があったのです)遊んでばかりいました。学校の先生にはこっぴどく叱られましたが、親が呼びつけられるといったことはなく、また毛利さんも親、特にお母さんには心配をかけたくなかったので、警察沙汰になるようなことはしませんでした。お父さんは塗装屋さんだったのですが、道楽者でしたからお母さんはいつも苦労をしていました。だからお母さんを悲しませることだけは絶対にしたくないと思っていたのです。その一心から、不良になりすぎることはなかったのでした。

 高校は富山工業高校の工芸科に進みます。高校に入ると、それまでの不良仲間は散り散りになり、特に遊ぶこともなくなった毛利さんは勉強一筋に転じます。そうして1年生の2学期からはずっとトップの成績だったので、卒業時には優良賞を受賞したほどでした。もっとも、自分からそういうことをアピールするタイプではなく、またずっと硬派で通していたので、好きな女の子の家で一緒に勉強していても、結局何も言えないままでした。話し方が滑川弁でそれがコンプレックスになって告白できなかったのかもしれません。

 ロマンスは生まれなかったけれど成績優秀だった毛利さんは、高校卒業後に東京の大手百貨店大丸の室笑内装工部にすんなり就職が決まります。そうして、皇居の内装だったり、船や飛行機の内装だったり、大きな仕事をいくつも任されるまでに腕を上げたのです。女優の今陽子さんのマンションの内装を頼まれたりもしました。東京での仕事はとても楽しかったのですが,毛利さんは長男でご両親が心配なこともあって、4,5年してから富山に帰ってきました。

 富山に帰ってきた毛利さんは、高校で同じ美術部だった後輩と結婚。毛利さんは昔から油絵で抽象画を描くのが好きだったので、市展や県展にもよく作品を出していたのです。60代になって少し時間が出来たのでえ、そろそろ描き始めようかとも思っていましたが、最近はベトナム人学生たちと一緒に釣りに出かけたり、飲んだりしていて、逆に忙しくなってしまったと毛利さん。でも、若い彼らと一緒に過ごせるのはとても楽しいとチャーミングな笑顔でおっしゃいます。こうした小さな、でもとても濃い交流の積み重ねこそ、多文化共生にとって一番大事なことだと毛利さんと留学生を見ていて感じます。留学生にとっても、毛利さんのような素敵な大家さんに出会えたことで、富山が大好きになったにちがいないはずだから。

さて、話を戻します。富山に帰ってきてすぐに入った会社で、毛利さんは大きな洋風建築の設計を頼まれます。当時珍しい素晴らしい洋風建築の建物で、あまりに贅沢な造りだったので、新聞で叩かれるほどでした。
 ヨーロッパ風の建築が好きだった毛利さんはヨーロッパに何度も行きました。そうして、ヨーロッパに行った時に頭に残ったものを描くのが得意でした。

 当時はまだ図面をコンピューターで書ける時代ではなかったので、手書きで図面を書いていました。1分の1の設計図を手書きで書ける人は富山には毛利さんしかいなかったので、本当に貴重な存在でした。まだ会社員の一般的な初任給が6万ほどの時代に、設計料だけで2日で10万もらう程の稼ぎぶりでした。飲みにいくことも多かったし、スキーやゴルフもたっぷりやりました。夜遅くまで仕事をし、その後飲みに行って朝の3,4時まで飲んで、また朝から仕事をするという毎日を送っても元気でした。仕事も遊びも全力投球、それが毛利さんのやり方なのでした。
 実は毛利さんは、お父さんが道楽者でお母さんが苦労したこともあって、お父さんと一緒に飲みに行ったことがありませんでした。しかし、歳を重ねた今は、あんなに反発しないで、親父と飲みに行けばよかったなぁと思うのでした。

 40代で独立して、夢家工房(ゆめやこうぼう)建築設計事務所を設立した毛利さん。独立する前は、主に店舗の設計が多かったのですが、独立してからは住宅の設計も数多く手がけました。経営も順調だったのですが、独立後10年程経ったある日、屋根の上から落下し、頭を強く打ち付けるという事故が起こります。あたりは血の海になりました。脳挫傷でクモ膜下出血を起こし、そのまま逝ってしまってもおかしくない状況でしたが、奇跡的に一命を取りとめました。1か月入院し、体にしびれもあまり残らなかったのは幸いでしたが、仕事に戻ってから愕然とします。今まではどんなにたくさんの仕事が重なっていても、同時並行でたくさんの仕事をこなせていました。10くらい仕事があっても平気だったのに、2つくらい仕事が重なっただけで、もう頭が働かなくなるのです。自分が情けなくて、どん底に落ちた気分でした。大好きだったお酒も飲まなくなりました。そんな状態が3、4年続いたでしょうか。少しずつ仕事もできるようになってきて、またお酒も飲めるようになってきました。

 そんな頃に、毛利さんが大家をしているアパートにベトナム人の留学生たちが入居してきたのです。不慣れな異国の地でさぞかし不自由な思いをしているだろうと彼らの世話をあれこれ焼いているうちに、一緒にお酒も飲むようになりました。なにしろベトナムの留学生たちはみんなで集まってワイワイ飲むのが大好きです。元来、そういう楽しい場所が大好きな毛利さんはベトナムの学生たちと飲むのがすっかり日課になりました。居酒屋で仕事の愚痴を言い合いながら飲む酒と違って、彼らと飲む酒はすごく楽しいのです。今の彼らの姿は、エネルギーにあふれた高度成長期の頃の日本人の姿に重なる部分があるのかもしれませんね。
そして、毛利さんのアパートでの外国人学生たちと近所の方々との付き合い方もとっても自然なのです。いつも学生たちのことを気にかけていろいろ相談にも乗ってあげている近所のおじさんは、学生たちからおじさんおじさんと慕われていますし、いつも畑で採れた野菜を持ってきてくれるおばさんもいます。国際交流とか多文化共生って声高に言わなくても、こんな風にごく自然に日本人と外国人がご近所付き合いできる関係ってとてもステキです。

 60代後半になった毛利さん、昔のように仕事も遊びにも全力投球というわけにはいきませんが、マイペースでやっていけたらいいと思っています。時間のある時は、映画を見たり、留学生を連れて釣りに行ったり飲みにいったり、とても有意義に時間を使っていらっしゃいます。
まとまった時間が出来たら、またヨーロッパもゆっくり旅行したいし、学生たちに案内してもらってベトナムを旅行するのも楽しみにしていることのひとつです。  

工業高校の美術部の仲間との美術展にも今年は久しぶりに出展しようと思っています。時代を重ねた今、毛利さんはキャンバスにどんな世界を描くのでしょうか。
留学生たちと一緒に毛利さんの美術展を見に行くのを楽しみにしていますね。