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今日の人164.木村太郎さん [2017年01月29日(Sun)]
 今日の人は、ネイチャーガイド・エコツアーディレクターとして世界各地での感動的なエコツアーを開催したり、さつきやま森の学び舎・ようちえんの運営、講演会や研修、企業顧問等々、好きなことをしていたらいつの間にかいろんなことをやっていたという木村太郎さんです。
エコツアーディレクター木村太郎の旅 https://eco-tour.amebaownd.com/
太郎さんのFacebook  https://www.facebook.com/taro.kimura.ecoguide
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 太郎さんは1975年、東京で生まれ千葉で育ちました。
子どもの頃は超マジメ。優等生で学級委員長などもしていましたが、たくさんの人の前ではとても話せないようなあがり症でした。小学生の頃にファミコンが登場したのですが、ファミコンには全くはまらず、遊びと言えば外でひたすら野球でした。木村家は小学生の間は就寝8時、土日でも9時という家だったので、流行りのドラマの話題には全くついていけませんでした。平日はドラゴンボールやキン肉マン、土曜はドリフ、日曜は大河ドラマ、せいぜいそれくらいしかテレビは見ていませんでした。かといって、読書好きだったわけでもなく、読書感想文を書くのはすごくイヤでした。

 小学6年生の時に出会った体験塾が、その後の太郎さんの人生において大きな意味を持つようになります。そこでは月に一度、山登りに行っていました。最初は友だちと遊びに行けるという気持ちも大きかったのですが、山に登っていくうちにどんどん山が好きになっていった太郎さん。普段は日帰り登山なのですが、夏休みは泊りがけで八ヶ岳にも登りました。

 中学に入ると、お父さんの仕事が忙しくなったこともあって、太郎さんはすごく自由になりました。夜8時に寝るなんてとんでもないとばかりに、男友達の家に泊まりに行ってバカ騒ぎをするのも恒例行事になっていたし、お母さんとケンカした時はプチ家出して、体験塾でお世話になっている方の所へ2~3日泊まりに行くのでした。でも、そんなふうにいろいろ話せる大人がいるというのはとても幸せなことでした。
 中学で入ったのは吹奏楽部。肺活量がかなり必要なユーフォニウムを吹いていました。じゃんけんで負けて放送委員会にも入らされたのですが、これがすごくおもしろかった。ビデオカメラを持っていろいろ取材したものを編集して校内放送で流したり、新任の先生のインタビューを生放送で流したり、とても楽しくて結局3年間ずっと続けたのです。
 もちろん体験塾での登山も続けていたし、地域のサークルでバトミントンとホッケーもやっていました。

 高校は家から自転車で10分で行ける所へ行きました。高校では生徒会に入らされて、3年間生徒会活動をやりました。生徒会の仲間と毎晩10時くらいまで遊んでいたので、家に帰るとよく怒られました。それでまたプチ家出して体験塾の方の家に泊まりに行くのでした。この体験塾は、高校生の時は参加する方ではなく、もう企画する側になっていました。

 進路を決める時、太郎さんは大学受験はせず、体験塾の先輩が行っていた北海道の酪農家でインターンシップをする道を選びました。お父さんは烈火のごとく怒りましたが、それを押し切って北海道へ。そこで4か月インターンシップをやり、せっかくなので北海道を一周しました。それからすぐに東京のじいちゃんが亡くなりました。ばあちゃんが1人暮らしになってしまうので、フリーな太郎さんがばあちゃんと一緒に住むことになりました。

 その時、お母さんがC.Wニコルさんが校長をしている自然を守るレンジャーを育てる専門学校の新聞の切り抜きを持って来て、「ここ受けてみたらどう?」と薦めてくれました。太郎さんも自分のやりたいことができそうだと、その専門学校に入ることにします。山登りにも行けるし、おばあちゃんと住んでいたので3食作ってくれるし、さらにおばあちゃんは太郎さんの話をゆっくり聞いてくれるしで、東京での暮らしはとても快適でした。バイトもしましたが、山登りの用品を買っていると財布はいつもすっからかんでした。でも、そうやって少しずついい山登りグッズをそろえていくのは、とても楽しかったのです。

 卒業後太郎さんはネパールで植林をしているNGOの活動に参加しました。1か月半くらいルクラで過ごし、森林調査をしました。毎日山ほどチャイを飲まされましたが、とても楽しかった。この経験もあって、やはり自分は森で過ごしたいという思いがとても強くなった太郎さん。ちょうど上高地で山小屋の管理人を探していると知り、上高地に住むことになりました。まるでドラマ「北の国から」のような環境での生活。山小屋の維持管理が主な仕事なのですが、空いた時間はたっぷりありました。そこで太郎さんは一週間に一度は図書館に行き、一度に10冊借りては読んでいました。それまで読書をしたことはほとんどなかったのですが、この山小屋での時間にたくさんのことを本から吸収した太郎さんなのでした。山小屋の管理人として、またネイチャーガイドとして、とても穏やかで充実した日々を過ごしていたのです。
 そのうち山小屋でイベントもするようになり、全国のいろいろなガイドとも繋がりました。こうして22歳から32歳まで、上高地で過ごしたのです。

 ネイチャーガイドとして、様々なことをやっていきたいと思っていた太郎さんは、子どもキャンプのスタッフとしても活動していたのですが、立科の子どもキャンプにスタッフで来ていた女性と恋に落ちます。
 そうして、山を下りて奥さんのいる大阪に住むことになりました。1年間は仕事をしないで、日本各地で夏にどんなネイチャープログラムをやっているか見てまわりたいと、実行した太郎さん。そして彼女は反対することなくそれを応援してくれたのでした。
 そんな中、小豆島を見に行きたいとガイド仲間を訪ねた所、小豆島のホテルで支配人と夕食をすることになりました。そこで、支配人からアドバイザー契約を結びたいと言われ、月に一回小豆島に行って、アドバイザーをやることになりました。そのうち系列の那須高原にあるホテルにも頼まれて、月に一回ガイド養成講座をするようにもなりました。こうやって好きなことをやっているうちに自然に仕事を引き寄せてしまう太郎さんなのでした。

 一年経って、ちゃんとしたガイドをやろうと屋久島など日本国内をいろいろガイドしましたが、国内だけだとあんまりおもしろくないなと感じていました。そんな時に石川に住む友達から「オーロラが見たい」と言われます。「ツアーをやってる友達がいるよ」というと、「お前がツアーを組んでくれないか?」と頼まれました。これがきっかけで海外のツアーも始めるようになりました。これがとてもおもしろくて、それからは海外ツアーのガイドだけするようになったのです。太郎さんのツアーはとことんこだわりのあるツアーなので、来る人は人生が変わるような感動を味わえます。例えばオーロラを見に行くにしても、単にオーロラが見えればいいというツアーではありません。カヌーに乗って川面にも真上に広がるオーロラが映る中を進んでいく、そんな神秘的な体験ができるのです。その感動はなかなか言葉では言い表すことができません。
 
 子どもが生まれた太郎さんは、入園する前のプレ幼稚園で子どもたちに11時におやつを与えるのを見て愕然としました。お昼ご飯を食べる前のこんな時間に、市販のおやつを食べさせるなんて…。もっと、子どもが自分の体を使って、自分らしく過ごせる幼稚園に通わせたい、そう思った太郎さんでしたが、そんな幼稚園はありませんでした。唯一、徳島に行かせたいフリースクールの幼稚園はあったのですが、そこに行かせるために引っ越すか、はたまた思い切って自分たちで幼稚園を作ってしまうか、悩みました。結果、太郎さんは奥さんと一緒に認可外の幼稚園を作ってしまったのです。2012年の4月当初は月2回だけでしたが、徐々に希望者が増え、2013年春にはようちえんクラスが、2014年春には小学部もオープンしました。さつきやま森のようちえん、さつきやま森の学び舎(小学部)のホームページもぜひご覧ください。また、コーチングのコーチの奥さんが中心となって人材育成も進めていらっしゃいます。まさに夫婦二人三脚の木村家なのでした。

 そして太郎さんが外国でガイドをすることはどんどん増えて、ペルーでトレッキングをしてマチュピチュに行ったり、南アフリカの花園を見たり、ボリヴィアのウユニ塩湖に行ったりもしています。昨年はなんと50日間もペルーにいたとか。そして、太郎さんのスペシャルなガイドを経験した人は、もう普通の旅行ではとても満足できなくなるというのです。お客さんの行きたいところを聞いた時から、徹底的に作り上げ、予想のはるか上を行く太郎さんのガイド。なんと、作りこむのに2~3年かかることもあるそうです。でも、お客さんの感極まった表情、その瞬間を見るためなら努力を惜しまないのです。例えばオーロラを見に行くときはインディアン、イヌイット、現地の15人くらいの人にも関わってもらって、ただのオーロラではなく、先に書いたようなスペシャルなオーロラを見てもらう。太郎さんのツアー料金は一般的なツアーよりは高めなのですが、お客さんは「この内容なら安すぎる!」と口々におっしゃるそうです。いったいどんなガイドなのか、自分自身で一度ぜひ体験してみたいものですね。

 そんな太郎さんが今まで旅をしてきていちばん好きな場所は、ペルーのアンデスです。地球にこんなところがあったんだ!そんな感動の連続で、4700mで食べるランチの美味しいことといったら!しかも現地のガイドやコックが一緒に登ってくれて、4700mで作ったランチを食べられるのです。なんて贅沢なんでしょう。
 だから、太郎さんが楽しいことは、やっぱり山登りです。ペルーでも250q、ずっと歩いていました。ロングトレイルが好きなので、本当は月に1~2回は山に行きたいなぁというのが本音です。

 そんな太郎さんが今後取り組みたいと思っていることは、自然エネルギーの循環を自分たちで作り出すことです。原発などに地球の負になるエネルギーに頼ることなく、自然エネルギーの循環を作り出したい。太陽光発電に取り組んでいるNPOとの勉強会も始めました。ゆくゆくは、ようちえんもスタッフの住む家も全部太陽光発電にしたいのです。農業している場所も太陽光発電システムにして、農家が安定した収入を得られるような仕組みにしたい。地域全体で自然エネルギーを循環できるTaro Villageを作りたい、そんな夢の一歩を踏み出したところです。
 そしていつか自然エネルギーの循環とともにお金の循環もできるようになった時に、悠々自適に世界中うろうろして過ごしたいと思っています。そんな日が来るのも、そんなに遠くないかもしれませんね。

太郎さんの素敵な旅の数々は、どうぞこちらをご覧ください。
〜エコツアーディレクター木村太郎の旅〜https://eco-tour.amebaownd.com/
ステキな写真にぞくぞくすること間違いなし。そして次は、あなたも旅に出たくなるにちがいありません。
今日の人163.武内孝憲さん [2017年01月15日(Sun)]
 今日の人は、1848年創業の呉服専門店牛島屋の専務取締役であり、ハレの日を演出している株式会社ハミングバード代表取締役社長であり、中央通りのまちなか活用プロジェクト「マチノス」の運営を手掛ける武内孝憲さんです。
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 武内さんは由緒ある牛島屋の家に生まれ、物心ついた時から牛島屋のある中央通り商店街はいつもそこにある場所でした。

 家は商売で忙しかったので、母方の実家に預けられることも多く、よく絵本を読んでもらっていたし、朗読劇のカセットテープを流しながら寝かしつけられてもいました。そのおかげか、小さい頃から本を読むのは大好きだったし、勝手にストーリーを考えて空想したり、朗読を聞いたりすることが今も好きです。

幼稚園の頃はまだモジモジしている男の子でした。小学校に入ってサッカーを始めると、目立ちたがり屋の面がムクムクと顔を出し、積極的に声を出し自分の意見を言う子に変わっていきました。富山大学附属小学校に通っていたのですが、先生にも恵まれ人間性を尊重し向き合ってもらえたことや、ずっと学級委員や指揮者の任に当たらせてもらえたことで、責任感も培われたとのこと。

街中が通学路だったので、乗り継ぎの時間は中央通り商店街でお店に寄るのが日常でした。その頃、おじいさまは近所の骨董品屋や家具屋に井戸端会議をしに出入りしていらしたので、そこに寄っておやつをいただくのが日課でした。その時代の中央通りといえば、総曲輪と並んで富山でいちばん華やかな商店街でしたから、私たちにとって総曲輪や中央通りに遊びに行くのは、特別な日で前の日からワクワクしたものです。みんなにとって特別なそんな場所が武内さんにとっては日常の場所なのでした。

中学校も富山大学附属中学へ。サッカー部に入って活躍します。部活帰りに寄るのも、やっぱり中央通り商店街。本屋のバックヤードも武内さんの居場所になっていて、そこで本を読むのも大好きな時間でした。焼き鳥屋で焼き鳥を2、3本買って部活後のお腹を満たしていたものです。(部活帰りにお肉屋さんのコロッケを食べるというのはよく聞きますが、中学生で焼き鳥は初めて聞きました!)
この頃は、学校の先生になりたいと考えていました。生徒に囲まれて、ひとつのコミュニティを作り上げていくそんな仕事がとても魅力的だと思ったのです。附属中学校には教育実習生もたくさん来ていたので、彼らの姿も刺激になりました。もっとも、実習生をからかっていたのも事実ですが・・・。

高校は富山県内屈指の進学校、富山中部高校へ。ここでも迷うことなくサッカー部でした。高校時代も遊びの場は中央通りでした。この頃はDCブランド全盛期だったのですが、DCブランドのお店やレコード店がいつも行く場所でした。街中で映画を見て、喫茶店でお茶をして、そんなデートも日常の中にありました。でも、その頃友だちから「進路決めるの、悩まなくてもいいからいいよね」と言われるのがイヤでした。他のチャンスを最初から消去されている気がして、釈然としなかったのです。

中学校でも高校でも応援団長や団長だった武内さん。応援団長や団長と言えば、運動会の花形です。さぞかし、充実した時間だったにちがいありません。けれど、サッカー部の最後の大会では、序盤に骨折して不完全燃焼に終わります。そのまま終わるのがイヤで、他の3年生は夏には引退するにも関わらず、卒業ギリギリまでサッカーをやっていた武内さん。その年は志望校に合格は叶わず一浪することにして、予備校に進みました。横浜にある予備校の寮に住み、志を同じくする友人たちと合宿状態だった1年間。この1年の経験はとても貴重でした。

大学は法学部を目指します。人と関わる仕事がしたかったし、先生と呼ばれる仕事がしたいという思いは昔から変わっていませんでした。しかし、一浪後に進んだ大学は、武内さんの志望校ではありませんでした。本当に行きたいところに行けない、そんな挫折感でいっぱいでした。ですから斜に構えて大学に通っていました。ただ、単位は大学3年までに全部取ってしまうことを自分に課していたので、大学をサボったりするようなことはありませんでした。そうして3年までに全ての単位を取り終えたのでした。
サッカーサークルの友だちに薦められて、自由が丘にあったスポーツバーでバイトもしていました。そこは、Jリーグの前身になる社会人チームの人たちがたくさん来ていて、そんな人たちと会話できることがとても楽しかった。

そんな武内さん、実は大学3年の2月に学生結婚をします。その頃の武内さんは、もう家業を継ごうという決意が固まっていました。いろいろな仕事があるけれど、家業を継げるということを「これは自分にとってのチャンスに変えるべきだ」、そんな思いが固まっていたのです。それで何で結婚かというと、創業1848年の牛島屋は歴史ある商家らしく、年回りの相性をとても大切にしていたのです。そこで、ふたりにとってこの年がふさわしいということになって、当時付き合っていた彼女(実は幼なじみで、昔は姉弟みたいな感じでした。しかし、浪人時代に距離を取ったことで、お互いの居心地のよさを感じていました。そうして、付き合って1年半たっていました)と式を挙げたのです。

大学を卒業したら、大阪に修行に行くことが決まっていた武内さんは、大学4年の1年間は広告代理店の営業として働きました。単位は全部取っていたので、正社員として1年働いたのです。奥さんは、着物の勉強をしなければならなかったので、着物の専門学校に通いながらの2人の生活のスタートでした。そして1年後、武内さんの卒業を待って、2人そろって大阪へ引っ越しました。大阪では、営業を通していろいろな人と関わる楽しさも知ることができました。

こうして大阪で何年か修業を積み、牛島屋が創業150年を迎える1年前に、富山へ戻ったのです。そして富山に帰る年に長男も生まれました。
大阪で経験も実績も積んできた武内さんは、張り切って仕事に取組み始めました。けれど、これまでとは全然勝手がちがいました。確かに、大阪と富山では仕事の環境も全然ちがうのですが、こんなにまで勝手がちがうとは…。しかし、もちろんちがうからと言って、手をこまねいているわけにはいきません。

牛島屋は創業150年を迎えた後、大泉に大きなビルを建てました。しかし、起工式の前日、幼い頃から一番の理解者であった祖父が亡くなります。おじいさんが商店街の世話をずっとしていたのを見てきた武内さんは、そうすることを当たり前と感じていました。ですから、早速商店街の活動をスタートさせました。中央通りでパリ祭なるイベントを開催しました。屋台、大道芸、様々なパフォーマンスが繰り広げられ、街も活気にあふれました。その頃、バブルはもう終わっていたのですが、まだ商店街にも活気がある時代だったのです。しかし、徐々に商店街から人の波が消え、シャッターを閉めるお店も多くなってしまいました。駐車場のある郊外の大型ショッピングセンターに買い物にいく流れが商店街にも否応なく影を落としました。けれど、なんとかまた街の中心の商店街に活気を取り戻したい。そのためには、まず商店街が力を合わせなければ。そう思った武内さんは、笑店街ネットワークなるものも立ち上げて、それまでほとんど交流のなかった商店街の横のつながりを生み出しました。そこで情報交換も生まれ仲間作りの起点になりました。笑店街ネットワークは6年間続けてその役割を果たしたと考え、今は休止しています。

牛島屋の仕事に加え、まちづくりの活動を中心的に担ってきた武内さんは、こうして商店街にとってなくてはならない存在になっていきました。

そして、昨年2016年9月からは新たな取り組みとしてまちなか活用プロジェクト「マチノス」をオープンさせました。マチノスは中央通り商店街の牛島屋の2~4階をシェアスペースとして貸し出し、すでに様々なプロジェクトが動き始めています。一例をあげると、Liveとお茶会やワインの会、いろんな講座に、単発のワークショップ等々、素敵なイベントが満載。もちろんそれだけではなく、まちの成り立ちや歴史、伝統を見直し、まちなか本来の賑わいを取り戻しながら、市民の交流や学びの場を提供するプロジェクトというのが「マチノス」のコンセプト。

武内さんはおっしゃいます。これまで通りの商店街をやっていては、商店街に未来はない。商店街の価値観を変えていく時が来ている。人のコミュニティの在り方として、もっとできることがあるはずだ。そして、少しずつだけど、化学反応が起き始めていると。

そして、自分なりのコミュニティを生み出していくことは、商売以前に自分のライフワークとしてとらえるようになったのです。ハミングバードという会社をやり始めて、武内さんはたくさんの作り手、可能性を持った人たちとつながりを持つことができました。そういう人たちとのプロモーションを通じて広がりを生み出せることを実感したのです。一人一人で個別に何かをやっているより、うんと可能性が生まれる。コミュニティが生まれる。そして、可能性を導き出して、知らない人同士をつなげることができるコネクターとしての自分を武内さんはとても嬉しく感じるのでした。

そんな風にいつも忙しくしている武内さんのリラックスできる場は、やっぱり大好きな本屋なのでした。でも、それだけではなく、人に会っている時間も実はとてもリラックスできる時間です。武内さんは人に興味があって、誰かの話を聴いている時間もとても好きなのです。人に会うことが趣味と言ってもいいかもしれません。それが仕事に生かされる部分もあります。もちろん、最初から仕事に生かそうと思いながら話しているわけではありません。ひたすらその人に興味があるからです。だからこそみんな胸襟を開いて武内さんと話してくれるのでしょうね。一人でいるのはちっとも苦じゃないけれど、一人でいると結果的に動いてしまう武内さんなのでした。

これからの世の中はAIにとって代わられる部分もたくさんあるでしょう。でも、そんな世の中だからこそ、人の力が必要なことは何なのか、そしてこれからどんな世の中になっていくのか、変わっていくことにすごく興味があります。とにかく知的好奇心が旺盛で、いくつになっても少年のようにやりたい!知りたい!がたくさんあるのでした。

そんな武内さん、実は今もサッカーチームにも3つ入っていて、富山市サッカー協会の理事もやっています。こんなに忙しいのにどこにそんな暇があるんだろうと思うのですが、とにかく体を動かすのが好き、いろいろ運営するのが好きでいらっしゃるのです。

最後に武内さんの夢を聞きました。それは、着物や伝統産業をどうやって今のライフスタイルに織り込んでいくかという道を作っていくことです。どんなに生活が変わろうと、やはり着物は日本人にとってなくてはならないもの。今まで培ってきた文化的な深さを伝えていきたい。自分が動くことでこれまでも、そしてこれからも新しい形が見えてくると武内さんは確信しています。着物文化、日本の伝統文化が根付く場作りを新しい形でやっていきたい。そして場作りは、武内さんのやっている、ハミングバードにも、マチノスにもすべてに通じることなのです。

人懐っこくてとても素敵な笑顔の武内さん、きっとこれからもたくさんの人をつなげて新たな商店街を創りだしていかれることでしょう。

みなさんも次の休日は、商店街に足を運んでみませんか?きっとそこでは懐かしい、けれど新しい、そんな発見がいくつもできると思うから。