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今日の人155.三谷朋子さん [2015年12月24日(Thu)]
今日の人は、和楽グループ ブライダル事業部着付技術担当チーフ三谷朋子さんです。
三谷さんは全国から着付資格者が日頃の腕を磨いて集まり着付の技術を競う、武市昌子杯 振袖・留袖・花嫁 着付技術選手権白無垢花嫁部門(2015年11月24日開催)にて見事準優勝された まさに時の方です。
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三谷さんは1963年富山市で2人姉妹の妹として生まれました。小さい時は、2歳違いのお姉さんや友達と一緒に、外でドッジボールやゴム跳びをしたり、家の中でリカちゃん人形の着せ替えをして遊んだりしていました。また、家が自転車屋で自転車を入れる大きな段ボールがあったので、それで段ボールハウスを作って遊んでいたりもしました。
商売をしている親を見て育ったので、小学生の頃は将来はサービス業がいいなぁと漠然と考えていました。

中学に入るとバレーボール部に所属。もっとも、そこまでまじめな部員ではなかったので、時々さぼってもいました。巨人がとっても好きな女の子で、ジャイアンツの試合が来ると球場まで足を運んだり、泊まっている旅館まで選手を見に行ったりしていました。時に好きだったのは河埜や土井といった渋めの選手でした。

反抗期も少しはありましたが、特別将来こうなりたいというものもなかったので、高校は事務科に進みます。友だちの家や喫茶店でおしゃべりをするのが楽しい高校時代でした。英文タイプ部に入ったのですが、みんなやっているからやろうかなぁという程度でした。漫画は好きで、当時流行っていた「はいからさんが通る」や「エースを狙え!」を真剣に読んでいたものです。

高校を出ると短大の情報処理学科に進みました。その頃はコンピューターが出始めたばかりの時代で、今では考えられないくらいの大きなコンピューターを使っていました。短大の時はテニス部に入ってテニスに打ち込み、バイトもしていたので、とても充実していた学生時代だったのです。

短大卒業後は事務職のOLとして働き始めました。OL時代に友だちと茶道を習い始め、着物を着る機会が増えました。それで着付けも習い始めたところ、着付けの方が好きになり、着付けをずっと習い続けました。そしてとうとう着付けの師範の免状も取り着付けを教えるまでになりました。

短大卒業後もテニスは好きでずっと続けていたのですが、テニスで出会った人と結婚。結婚後も一年はOLを続けていたのですが、その後はOLを辞めて着付けの先生だけでのんびりと過ごすことにしました。

しかし、着付けだけで食べていくのは難しいな、なんかやれることないかな、と思っていた時にたまたま和楽の求人広告が目に入ったのです。なにか惹かれるものを感じた三谷さんは、31歳で和楽に入社。接客の仕事をやっていたのですが、1年後「着付けの人が足りないからやらない?着付けできるのよね」と声をかけられ、卒業式の着付けを手伝うことになったのです。着付けを教えていたとはいえ、ハレの日のとびきりの着付けです。最初のうちはあまりうまいとは言えませんでしたが、だんだん上手になりました。そして、やはり着付けの仕事はとても楽しかったのです。お客さんの特別な日のお仕度を手伝えるのがすごく楽しくてやりがいも感じました。そうして数年過ぎた頃には、息子さんも誕生しました。旦那さんは育児も家事も手伝ってくれるイクメン、カジダンでした。幼い頃から積極的に育児にかかわってこられたこともあってか高1になった今も息子さんはお父さんと大の仲良しです。

三谷さんは息子さんが生まれてますます仕事にも真剣に取り組むようになりました。三谷さんがいらっしゃる店舗は『貸衣裳の和楽』なのですが、お客さんに「ネイルはしてもらえないのですか?」と言われた時に、これからはネイルも絶対に必要と、いちはやく店舗にネイルコーナーを作ったりもしました。なんとなく入った美容の世界だけど、この仕事は自分に向いている。この世界に来て本当によかった!そう感じていた矢先、三谷さんを大きな衝撃が襲います。

それは甲状腺がんという病でした。本当にショックでした。自分はどうなってしまうのだろう…。けれど、幸いなことに、手術でがんは残らず取れて、三谷さんはすぐに仕事にも復帰できたのです。
この時、三谷さんは思いました。ああ、人っていつこんな病気になるかわからない。自分がいなくなっても、子どもがいつでも一人で生きていけるようにちゃんと自立できる生き方を教えていかないといけない。そして、いつ死ぬかわからないのだから、自分のできることを悔いの残らないようにやりたい、と。

こうして、三谷さんは病気になる前に漠然と考えていた花嫁衣裳の着付けをやりたいという思いを叶えるため、10年程前に通信教育で美容師免許も取得したのです。仕事をしながら免許を取得できたのは和楽の林先生の強い勧めがあったことと、社長はじめお店のみなさんがバックアップしてくれたからでした。

こうして、花嫁衣裳の着付けも本格的にやり始めます。もちろんはじめは失敗もたくさんありました。帯が落ちてきて、謝りに行ったこともあります。もっともっと練習しなければ!花嫁さんにとっては一生に一度の晴れ舞台。衣裳の失敗は許されない。完璧にうまくならないとダメだ!花嫁さんの着付けに関して、三谷さんに一切妥協はありませんでした。周りの誰もが感心するくらいひたすら練習に練習を重ねました。

そして、花嫁さんの一生に一度のステージを最高の舞台にしたいという思いはどんどん高じていきました。そんな三谷さんをさらに前に押し出してくれたのは、それまでもずっと着付を教えてくださっていた林先生でした。先生にもっと外に出て勉強したらいいと勧められ、2〜3か月に一度は上京して、国際文化理容美容専門学校で更に研鑽を積みました。外に出て学ぶことで、三谷さんの技術はよりレベルアップしていきました。
 でも、ただ練習するだけよりもコンクールに出るという目標を持つことで、さらに自分もまたお店もレベルアップできるにちがいない!そう思って、全国から着付資格者が日頃の腕を磨いて集まり着付の技術を競う、武市昌子杯 振袖・留袖・花嫁 着付技術選手権の白無垢花嫁部門に出場することに決めたのです。
 花嫁部門は着付け、メイク、かつらを全て1人でこなさないといけません。三谷さんは自分の腕をさらに磨き、2015年11月24日に開催された大会に臨み、「白無垢打掛花嫁にふさわしい、格調高く気品のある装いであること・モデルに似合っていてトータルでバランスがとれていること・技術者としてのマナーが優れていること」等の審査項目で高い評価を得、見事全国準優勝の栄冠を勝ち取ったのです。

しかし、準優勝した後も三谷さんはあくまでも謙虚です。優勝された方は本当にきれいだった。他の方と全然ちがっていた。自分もそこまでのレベルを目指さなければ、とまだまだ日々修行だとおっしゃいます。

でも、こうやってコンクールに出るためにたくさん練習の時間が取れたのも、家族の協力があったからこそ。ご主人は土日も働いてもいいよ、と言ってくれる本当に優しい方です。いつもご家族への感謝を忘れない三谷さん。いつか息子さんが結婚するときに、お嫁さんの支度を自分がしてあげたいという夢があります。こんなとびっきり素敵なお義母さんに花嫁衣裳の着付けをしてもらえる花嫁さんは本当にお幸せですね。

 三谷さんが今楽しいことは、家族と一緒に家で何気なく話ができる時間。病気を克服された三谷さんだからこそ、何気なく過ごせる時間が何より素敵な時間なのだと実感できるのでしょう。そしてやっぱり、着付けをした花嫁さんが一日最高の笑顔で過ごしてくださることも三谷さんにとっての何よりの喜びなのです。

三谷さんがお勤めの和楽グループでは、今 富山県内の神社挙式や料亭ウエディングなど“和婚”に力を入れていらっしゃいます。白無垢を積極的に推進したり、家族や親戚同士の絆を深めることが出来る神社挙式、料亭ウエディングでたくさんのカップルが誕生しました。
そして今回の三谷さんの受賞を機に、和装の技術をより磨き、“和婚”の良さを発信して推進していかれるそうです。

今、結婚前でこのブログをお読みになった皆さんは本当にラッキーです。三谷さんにお願いすれば きっととびきり素敵な和装で 一生に一度の素敵な日を過ごせるにちがいありません。
今日の人154.川口宗治さん [2015年12月20日(Sun)]
今日の人は、全国で初めて相続診断士事務所を立ち上げられ各地で講演や研修に引っ張りだこの相続診断士事務所ライブリッジ代表
川口宗治さんです。
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川口さんは1973年に旧小杉町で生まれました。幼稚園の頃は、ピアノの音を聴くだけでその音を言い当てたので、絶対音感があるねと言われていたものでした。小学校の時の「くもん教室」では、よく富山県で1番に。小学校の時にもう高校数学をやっていたというから驚きです。

小さい頃からスポーツも得意で、特に野球が大好きな野球少年でした。小学校4年生からはスポーツ少年団に入って活躍していました。最初はセンターで、その後はピッチャーをやりました。とにかく自分の選んだことはとことん大事にする、小さい時からそれは変わっていません。連合運動会の時には団長も務めました。

読書も好きで、小学生の時によく読んでいたのは、ズッコケ三人組や江戸川乱歩シリーズ、伝記も好きでした。家にはドラえもんも全巻そろっていて、ドラえもんも好きでした。

 野球は中学校に入っても続けました。そして運動会では応援団長として活躍し、女の子にもモテていました。川口さんは今も女性にモテるので、それはこの頃から変わっていませんね。当時ご両親の期待もとても大きく、それを少し負担に感じることもありました。
そんな川口さんはこの頃、早稲田大学のラグビー部の活躍を見てかっこいいなぁと思い、自分も将来早稲田大学に行ってラグビーがやりたいと中学校の卒業文集に書いていたのでした。

 そして高岡南高校に進学します。当時小杉町の中学生は丸刈りが決まりだったので川口さんも入学当時は坊主頭でした。高岡市の中学生は丸刈りの規則はなかったので、周りはみんなシャレた髪型をしていると感じ、アウェイ感を感じました。田舎者コンプレックスを抱き、必要以上に自分を過小評価していました。野球部を見に行きましたが、入るきっかけが見つかりません。ラグビー部はなんだか怖い人がそろっている気がして、自分を過小評価していた少年にはとても入れる雰囲気には思えませんでした。

そんな中、誘われたのが生徒会執行部でした。そうして誘われるまま、生徒会に入って活動していたのですが、あまり友だちもできませんでした。そんな高校一年の夏に、同じ生徒会執行部の先輩とのお付き合いが始まりました。何しろ高校生くらいだと一歳違うだけですごい差を感じるものですが、川口さんもまた然りでした。朝も他の生徒たちが乗るより早い6時台の電車に待ち合わせて乗っていました。(都会の人にはちょっと想像できないと思いますが、田舎のローカル線では電車が一時間に一本というのもザラにあります。そして、その頃はなぜか電車通学のことをまだ汽車通学と言っていたものです。)
そうして2人で早く学校に行って生徒会室で一緒に過ごしたり、時にはやっぱり今日はサボろうと2人してサボって別の場所で過ごしていたこともありました。

 川口さんのお父さんは息子に大きな期待を寄せていました。川口さんは中学校まで運動でも活躍していましたから、高校で運動部に入らなかったことにとてもショックを受けていました。そういうこともあってか、この頃よく父と息子はぶつかりました。時には殴り合いのけんかになることもあって、お母さんが間に入って止めていたのを覚えています。
今はお父さんと川口さんはとても仲良しで、2人でお酒を酌み交わしながら話すのはとても楽しい時間です。そして一番の理解者もまた親父だと言い切る川口さんはとても嬉しそうなのでした。

 川口さんは高2の時に生徒会長になりました。彼女が卒業して京都の予備校に行くと、一気に友達も増えました。何しろそれまでは、彼女とばかり一緒にいたので、友だちがなかなかできなかったのです。運動会では応援団長(小・中・高とずっと応援団長だったわけです)にもなり、その後の打ち上げで家にたくさんの友だちを呼びました。それまで友だちも作らず彼女とばかりいた息子が、応援団長を務め、たくさんの友だちを連れてきたのでお父さんは大喜びでした。
川口さんたちは打ち上げでお酒も飲みました。しかし、その時の写真を学校で見ていたのを先生に見つかり、停学処分になります。「生徒会長在任中に停学になったのはお前が初めてだ」と先生にあきれられてしまった川口さん。そして、大学に推薦で入るのも絶望的になったのでした。

 さて、大学をどうしようかと思った時に、本も好きだし英語も好きだから人文学部にしようと単純に考えました。家庭教師をしてくれていた人が富大の人文学部の学生でその人がとてもいい人だったというのも人文学部を選んだ理由でした。しかし前期で人文学部を受け、ダメだったので、後期は教育学部小学校教員養成課程を受験。しかし後期も落ちてしまいました。
予備校の入学金を払いに行った日、川口さんは友だちの家に集まって過ごしていました。「まぁ、仕方がないよ。来年、もっといい所に行けばいいさ」友だちも口々にそう言ってくれていましたが、そこに一本の電話がかかってきました。すると、友だちの態度が急に変わり、「お前こんなところにいないでさっさと家に帰れ」とか「今年大学に行って親孝行しろ」とか言うのです。なんで突然こんなことを言うんだろうと思ったら、なんと家の方に教育学部の補欠合格の電話がかかってきていたのを知らせる電話だったのです。

 こうして富山大学教育学部に進学しました。大学ではアメフト部に入ります。そしてこの選択が川口さんの小さい頃の『選んだらとことん』魂を呼び起こしたのです。
 アメフト部は当然体育会ですから、とてもハードです。ミーティングに始まり、練習そしてまたミーティングで振り返り、その後ジムでウエイトトレーニング。毎日5〜6時間はアメフトに費やす毎日でした。しかし、川口さんはこれにはまりました。女の子と遊ぶより100倍楽しい!そう感じました。こうしてどんどんアメフトにのめりこんでいったのです。キャプテンにもなりました。

 教育学部ですから、当然教育実習にも行かなければなりません。しかし、これがアメフトのリーグ戦とかぶっている時期でした。「アメフトのリーグ戦があるから教育実習に行けません」と教官に言った川口さん。すっかり呆れられました。なんと川口さん、教員養成課程は教育実習に行かなければ大学を卒業できないことを知らなかったのです。

 こうして教育実習に行くことになったのですが、行くなら中途半端にやりたくない、100%できることをやろうと思いました。そんな川口先生の授業は子どもたちにもとても人気でしたし、現場はすごく楽しかった。担当の先生からも「川口くん、ぜひ先生になりなさい」と言われましたが、川口さんはあえて先生にならない選択をしました。先生は本当にそれを目指して必死にやっている人がなるべきで、自分はなるべきではない、そんな風に思ったのです。今となってはそんな風には考えないのですが、若くて真っすぐな青年にはそう思えたのでしょう。

 そして就職超氷河期に人材採用育成サポート関連企業に就職。営業企画・研修講師に携わりました。就職してから毎年、川口さんはその会社の新人営業マンのトップ記録を作ります。それはいまだに破られていません。

 大学時代に打ち込んだアメフトは卒業後も続け、半年間は毎週末に大阪にも通いました。関西は伝統的にアメフトが盛んな地域で強いチームも多い。けれど、川口さんは思ったのです。富山よりぬるい!と。もちろん一流の人たちは大変厳しい中でやっていますが、そうじゃない人たちのモチベーションはむしろ富山よりも低いくらいだったのです。高校に入る時、田舎者のコンプレックスがあって自分を過小評価していた。けれど、大阪での体験は川口さんに大きな自信をくれました。鶏口牛後、田舎で志を持ってやっている方がむしろいいのだと。

 こうして川口さんは仕事の傍ら、富山ベアーズの選手としても活躍し、キャプテンを3シーズンやり、富山大学のアメフト部の監督も5年務めました。選んだらとことんやるポリシーはここでも貫かれ、川口さんは今も富山ベアーズでアメフトを続けています。アメフトをずっとやっていたから、人生においてとても大切なことを学べた。だからアメフトの神様に恩返ししたい、そんな気持ちもあります。後輩に大切なことを伝えたい、次の世代に伝えたいという思いは、今やっている相続の仕事の根幹の部分でもあるのです。
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 川口さんは25歳の時に転職を決意しました。仕事がイヤになっての転職ではありません。それまでの仕事もとてもやりがいがありました。けれど、プルデンシャル生命から声をかけてもらい、最初は保険なんて…という思いがありましたが、1人の職業人として尊敬できる人がたくさんおられたし、自分がより成長できると思って転職を決意したのです。

 プルデンシャル生命には新卒の社員はいません。他の企業で実績を上げた人しか転職してこないのです。そして、その年齢は32〜33歳が平均ですから、25歳で声がかかった川口さんは当然一番若い社員でした。しかし、真摯にお客さんと向き合う川口さんの営業成績が上がらないはずがありませんでした。こうして31歳の若さで営業所長に抜擢。チームのメンバーが全員年上ということもあり、苦い思いもたくさんしてきました。でも、その時の経験が、今は大きな財産になっています。

 この期間に川口さんは相続診断士の資格を取得しています。相続において保険金の支払いというのは相続全体の108分の1と言われています。それほど相続というのは多岐に渡って複雑なのです。川口さんは保険金の支払いの時にお客さんに「相続のことは何でも相談してください」と言っていましたが、実際に相談してくるお客さんはほとんどいませんでした。でも、本当は相談したいと思っている人はたくさんいるはずだ。そして、これからの世の中、相続のことをなんでも相談できる人は絶対に必要だ。保険のことなら専門家がたくさんいるけれど、相続に特化した専門家はまだいない…。
 こうして、川口さんは40歳で独立することを決意します。この時も会社の仕事が嫌いで辞めたわけではなく、むしろ好きだったのですが、もっとやりたいことが見つかった以上、もうその道に行くしかありませんでした。川口さんは男の人生は40歳からだと思っていました。40からは自分の思う道を進みたい。だから35歳からの5年間は準備期間と考えて過ごしました。

 そして2013年11月10日に相続診断士事務所を設立。その日は川口さんの40歳の誕生日でもありました。まさに有言実行の男なのです。

 相続診断士事務所を設立してからは、毎日息つく間もないくらいに突っ走ってきました。けれど、自分の思う世の中に向かっていて、どこに行っても求めてもらえると思うと、疲れもどこかに吹っ飛んでしまうのでした。もちろん、全てが順調だったわけではありません。どこの世界でもその道を切り拓くパイオニアには大きな試練があるでしょう。でも、川口さんはその試練も全て今の自分にとって必要不可欠なものと考えました。富山の相続現場から争族(争う家族)をなくしたい。その熱い思いが、今日も川口さんを走らせています。

 実は相続診断士は全国に2万人います。けれど、ほとんどは生保の社員や不動産会社の社員が肩書きのひとつとして持っているという感じなのです。ですから、相続診断士として独立すると言った時に一番驚いたのは相続診断協会の人でした。それだけでやっていけるのか?けれども川口さんは肩書きの一つではなく、その道のプロとしてやりたいと思いを貫きました。
 そうやって独立して2年余り、今では独立第一号のパイオニアとして全国区で有名な相続診断士になったのです。

 川口さんには息子さんが2人いますが、2人とも人としてリスペクトできるとおっしゃいます。同じく息子が2人いて、いつもため息ばかりついている私には、息子を人としてリスペクトするというその姿勢は本当に素晴らしい!と感嘆のため息が出ます。
2人の息子さんは陸上で素晴らしい記録を持っています。2人とも有言実行で決めたことはとことんやり抜きます。川口さんご自身も『選んだらとことん』の方ですから、思いはしっかり息子さんに受け継がれているのですね。
そこには息子さんと話す時はとにかく否定はせずに彼らの自己肯定感を高めるような接し方をしてきたことも影響しているにちがいありません。
そして息子さんたちが成人した時に、男三人で飲める日がとても楽しみな川口さんなのでした。川口さんはとてもお酒が強いので、そこも受け継がれているとしたら、超パワフルな飲み会になりそうですね。

 そんな川口さん、とにかく毎日忙しいのですが、ストレスはありません。強いて言えば運動できる時間が取れないことがちょっとストレスです。アメフトもまだまだ続けていきたいし、やはりなんといっても体が資本なので、もうちょっと体を鍛える時間を作りたいと今思っています。

 川口さんの夢は、富山県から争う相続をなくすこと。自分はその一助になりたいと思っています。今まで盆や正月に会っていた家族が、相続争いをきっかけに会わなくなってしまう、そんな争族を避けたい。今は資金力をカサに大手の会社もいろいろやっているけれど、地元の人にとっては富山弁で話が聴ける人がやっぱり頼りになります。土地勘があって、富山弁のニュアンスを感じられるのは、富山の自分。だから、これからも富山を大切に、富山の仲間たちと一緒に取り組んでいきます。

 今、相続のことで何か困っている方は、ぜひ川口さんに相談してみてください。どんな些細なことでもきっと親身に相談に乗ってくださいますよ。いろいろなセミナーも開かれています。詳しくはこちらで。
ライブリッジホームページ⇒http://www.libridge-souzoku.jp/

 川口さんはこれからもきっと爽やかに、富山の相続現場でタッチダウンを決めていくことでしょう。インタビューしたのは冬だけど、とっても熱いエネルギーを感じた時間になりました。
今日の人153.新石友美さん [2015年12月05日(Sat)]
 今日の人は富山市婦中町の自宅サロンで「やすらぎサロン ここち鳥」を開いていらっしゃる新石友美さんです。友美さんは、さとう式リンパケアや筋ゆる体操で体のコリをほぐしてくれるだけでなく、スキルリーディングやメンタルセラピーで心のコリもほぐしてくれています。(1月からフォーカシングセラピーも始められる予定だそうです。)
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 友美さんは昭和53年に富山市で2人姉妹の長女として生まれました。おとなしい性格で家の中でぬいぐるみを使っておままごと遊びをしているのが好きな子でした。でも、ただおとなしかったわけではなく、幼なじみの3人グループでケンカをしても、自分が悪くないと思ったら、向こうが謝ってくるまで絶対に謝らないという頑固さがありました。

 幼稚園から小学校にかけて運動が苦手でした。体も強くなかったので朝礼で倒れることもよくありました。それでも、帰り道で柿やグミを取って食べたり、栗を拾ったり、ゴム飛びやかくれんぼをしたり、一通りの外遊びもやっていました。特に将来の夢はなかったのですが、書かなきゃいけないので仕方なく書いていたのが「幼稚園の先生」でした。幼稚園バスに乗りたいというのがその理由でした。

 そんな友美さんを突然の不幸が襲います。小学校3年生で大好きだったお父さんが亡くなったのです。友美さんのお父さんは白血病の寛解期でした。数値上では白血病細胞はほぼ消滅した状態でした。もうこれで大丈夫、そう思っていた矢先のことでした。お父さんは整体院に行って、整体師の施術によって下半身不随になってしまったのです。施術中に強烈な痛みを覚えたお父さんは「救急車を呼んでくれ!」と絶叫したそうです。それなのに、そのまま放っておかれ、次の日病院に行くと、「なぜこんなになるまで来なかったんだ!」と言われたそうです。そうして下半身不随で病院に入院中、これまた突然、脳卒中にて手術になったのですが、手術が終わって戻ってきたら、意識も戻らずその日のうちに亡くなってしまったのです。

 本当に突然のことでした。そして当時友美さんには一切お父さんの死因のことは知らされませんでした。後日、家族はその整体師を訴える裁判を起こすのですが、その裁判資料をこっそり見て、なんとなく子どもながらに事の次第を知ったのです。でもそこに書いてあることだけでは、分からないこともたくさんありました。

 大好きなお父さんが突然亡くなった。けれど、友美さんは自分の悲しみを外に出すことができませんでした。妹の前ではお姉ちゃんの私が泣いてはいけない、母や祖母が大変な中で迷惑をかけちゃいけないと、お葬式の時でさえ涙を流すことができなかったのです。

 お父さんは一人っ子でした。ですから同居の祖父母からすれば、一人息子が亡くなったことは大きなショックでした。祖父はもともと祖母に手を上げる人でしたが、それがますます顕著になりました。 しかし祖母は「子どもたちを頼む。子どもたちが結婚、子どもを産むくらいまで生きていてほしい。」と入院中の父から頼まれていたので、死にたいくらいの思いも我慢しました。ただ、祖父が手を上げた時に、決まって祖母は「そんなことしとるから友美が泣いとるよ!」と言っていました。 ただ怖くて泣いていましたし、祖母から言われ泣いている自分を見ると祖父が暴力をやめるため、自分が泣くことで暴力を止めたいという気持ちもありました。
ですから、友美さんは今でも男の人の怒声を聞くと反射的に涙が出てきてしまうのです。

 転んだらすぐ泣いてしまう位だった友美さんが、お父さんのお葬式の時には泣けなくて、すごく冷静に周りを見ていました。家族から言われ、小3で遺影を持って1人で霊柩車の助手席に乗った友美さんは、そこからどこかに自分の感情を置いてきてしまった、そんな感覚がありました。

 そうして、人見知りだったのに班長になったり、変にしっかりしなくっちゃと思っていました。しっかりしなくちゃと思いながら、体が弱いので集会の時には倒れるのです。

 中学に進学すると、もっと健康になりたいとの思いでバスケ部に入りました。練習はきつくずっと補欠でしたが、この3年間で倒れなくなりました。2つ上の女子の先輩が超かっこよくってキュンキュンしながら応援していました。

 14歳の挑戦の時は、保育園の先生をやりました。昔から夢の欄には仕方なく書いていた「幼稚園の先生」でしたが、やってみると、「あ、私この仕事嫌いじゃないな」と思ったのです。

 中学生くらいから、友美さんは天然パーマがひどくなりました。年子の妹は肌の色も白くて髪もサラサラだったので、ますます自分に自信が持てなくなり、とてもおとなしかったのです。

 そして自信のなさに拍車をかけたのがお母さんやおばあさんの言葉でした。お母さんは決して友美さんのことをほめてくれず、逆に友美さんがコンプレックスに思っていることを指差して笑ったりすることがありました。おばあさんもものをはっきり言う人でしたが、友美さんと通じてお母さんに言うようなところがありましたから、友美さんはますます周りに気を遣って言いたいことも言えずに過ごした少女時代だったのです。

 友美さんが美術の時間に書いた絵に「私は心配性」という印象的な絵がありました。美術の先生にも心配性の様子がとてもよく描けているね、と褒められるくらいでしたが、実際友美さんはとても心配性でした。お母さんが旅行に行っても帰ってくるまではずっと心配でした。きっと根底にはお父さんのようにお母さんまで突然いなくなったらどうしようという思いがあったのだと思います。

 高校に進学すると、そこは中学校の仲良しの友達が一人もいない高校でした。誰一人知らず落ち着かない、そんな中で友美さんを救ってくれたのは新しく入った吹奏楽部で出来た友だちでした。友美さんはクラリネット部門に入り、1人では出せないハーモニーを奏でられることに感動を覚えたのでした。

 しかし、高校生活は思った以上に友美さんにとっては過酷なものでした。もともと体が丈夫でないのに、通学がハードだった上に、ここに来て、父の死のことをなぜちゃんと教えてくれないのだろうというモヤモヤが積み重なり、かつ家の中もバラバラでだんだん不安定になっていきました。

 友だちに心のモヤモヤを打ち明けたいと思いましたが、中学生の時に「あなたよりつらい人はいるよ」と言われたことがトラウマになっていて、言いたいけれど言えない、電話をかけても言葉が出ない、ということが続き「キモイ」と言われたりもしました。そんなモヤモヤした思いが積み重なって、友美さんの心は耐えられなくなり、どうしようもなくなって、気が付くと包丁を握っていたのです。死ぬつもりはなかったのですが、とにかくこの苦しさに気付いてほしかった。けれど、包丁を握りしめた友美さんを見てびっくり仰天した母と祖母に、精神科に連れていかれてしまったのです。地べたで泣きわめいて言葉にならなかった友美さん。視野がモノクロになってふわふわしながら歩いていました。学校に行けない時もありましたが、それはちょうど補習期間の間でした。新学期からは学校に行かなければなりません。行きたくなかったけれど、行かなかったらずっと行かなくなるのはわかっていました。それで、無理をしながらも学校にはちゃんと通っていました。

 病院に通いながら通学していた友美さん。病院に通い始めてからずいぶん経ってから、精神科の先生に「何か悩みはあるの?」と聞かれた時に、家族のことで悩んでいることは言えなかったので「学力のことが心配なんです」と本心を隠して言っていました。 すると先生は「何を言ってるんだ。だったら看護師にでもなってみろ。そうしたら、うちで雇ってやるよ。」と強い口調で言いました。友美さんは思いました。そんな風に言われるのは腹が立つ。でも看護師になれば、父の死のこともちゃんとわかるかもしれない。看護学校ならお金もあまりかからないし、家族に負担をかけずに済む。そう思って、看護学校を受けることにしたのです。

 こうして看護学校に進学した友美さん。勉強は思った以上に大変でしたし、あんたには向いていないからやめられと言われたこともありました。けれども友美さんには強い思いがありました。お父さんの最期には寄り添えなかったけれど、亡くなる前の人たちに寄り添っていきたい!時には自信を失いつつも、それが頑張るモチベーションになりました。

 しかし、友美さんはこの間、交通事故に2度遭い、むち打ちで手のしびれや首のしびれがひどすぎて、卒業してすぐに看護師にはならず、1年間フリーターをして過ごしました
 そして1年後、総合病院で看護師として働き始めました。亡くなる前の人々に寄り添った看護がしたい、そう思っていた友美さんでしたが、配属されたのは急性期の病棟でした。あまりに死が多い現場、しかもゆっくり寄り添えるそんな余裕がない現場で友美さんは次第に追い詰められていきました。そんな時、肝炎で入院。これで糸が切れた状態になり、うつっぽくなって、高校の時とは別の精神病院に通うようになりました。

 そんな中、フリーター時代に知り合った人と、結婚。寿退社で最初の病院は2年半でやめました。一人暮らしの経験がなく、いきなりの結婚生活。しかも家を建てたこともあって、次の病院ではハードな勤務を続けました。16時間ぶっ続けで働くこともあったのです。そんな勤務が1年続きました。ここは患者に寄り添った病院じゃない。そんな思いが強くなり、食べられない、寝られない、人に会えない、でも1人でいられない、そんな状態になり、その病院も辞めざるを得なくなりました。

 そうして、再び自らが通院することに。しゃべれない状態だったので、自分の思いをメモに書いて病院に行きました。そこの先生は友美さんの話をちゃんと聞いてくれる人でした。この先生の言うことを信じてみよう。人と会えるようになって、また働けるようになるかもしれない。しかし、それでも突然不安が襲ってきます。そんな不安発作の時に、休みで友人と出かけていた旦那さんに電話をすると、それ以来口をきいてくれなくなりました。そしてお義母さんから、息子を1人にさせてほしいと言われ、別居することになりました。
大事な人に拒絶されるような人間なんだ…。大切な人は私から離れていく …。

 そんな思いを抱えたまま離婚。でも、そこで引っ張り上げてくれたのは、友人のお母さんから紹介してもらった方たちでした。
ちゃんと相手にありがとうを言ってから別れないといけないよと、恨みが残らない形で別れることができたのです。

  離婚して少し経ったくらいの頃に精神科の先生から、「もう病院にこなくていいよ。卒業です。」と言われ、減らしていっていた薬も完全に飲まなくてよくなりました。 友美さんは身体のことも考え、介護施設の日勤の仕事を探し、勤め始め、その仕事にやりがいを感じるようになっていました。その頃、スキルリーディングにも出会いました。自分のことを知りたい。そしてスキルリーディングを学んだら少し楽になったのです。

 実は友美さんが別居している頃に出会った同じくらいの年の女性が、うつがひどい時にクスリを飲んで亡くなってしまったということがありました。その子と自分を分けたものはいったいなんだったんだろう。自分もうつがひどい時は、 どっちの窓から飛び降りようかと思ったりと、衝動的に思うこともありました。でも、私は生きている。

 自分にはまわりに友人がいた。新しい場所へと誘ってくれる人がいた。でも、彼女にはそんな人や場所がなかったのかもしれない。自分の心が許せる場さえあったなら…。

 そこから友美さんは、悩んでいる人が少しでも心のうちを話せる場所を作りたいと思うようになりました。自分自身がうつを何度も繰り返した後にたどり着いた思いでした。

 そこからは看護師の仕事をどんどん減らしていって、心の勉強を始めました。産業カウンセラーの勉強も始めました。そうして離婚して5年後、今の旦那さまに出会います。

 初めて会った人なのに、離婚やうつだったことを話せた人は初めてでした。彼もまたバツイチで、うつの奥さんをずっと支えていた人でした。でも支えきれずに別れたことで、どこか自分を責めている所がありました。まだ友美さんの中には、大事な人から拒絶されるのではないかという思いも残ってはいましたが、それよりも彼のことが気になる気持ちの方が強くなって、自分からお茶に誘いました。彼もまた友美さんと一緒にいる時間に安らぎを感じていました。しかし、2人ともそれ以上先には進めずにいました。

 そんな時、友美さんは友人の薦めもあって「てんつくマン」の合宿に参加します。実はこの合宿、私も参加していたのですが、自分の過去に対峙し、それを許して未来に向かう、ものすごく濃い時間でした。みんなボロボロ号泣だったのですが、友美さんも昔泣けなかった分、余計に大泣きでした。そして、「お父さんの分も幸せになってね」ではなく、「お父さんよりも幸せになってね」と言われたことで、自分の中でつっかえていた何かが流れていく気がしました。

 そうして、その合宿からの帰り道に、今この時じゃないと絶対に後悔する、と、彼に電話をかけたのです。泣きながら思いのたけを話しました。お互いに自分は幸せになってはいけないという思いがあり、身を引こうとそれぞれが思っていたことが分かりました。でも、お互いの心の奥の気持ちに従ってみようと話し合ったのです。そうして、2人は再婚することに決めたのです。

 その後、幸せに暮らしていた友美さんでしたが、体がだるくて仕方がなくて病院を受診したときに、バセドウ病が見つかります。不妊治療をしようとしていた矢先でしたので、本当にショックでした。バセドウ病は甲状腺ホルモンの働きが活発になりすぎて、じっとしていても走っている時のような状態が続き、非常に疲れやすくなったり、不安定になったりします。なんでこんな思いをしなくちゃいけないのかなぁ…。絶望的な気分になったりもしました。けれど、諸富義彦さんの本に出会い、今の症状は今の自分へのメッセージなのだと思うようになりました。脈が速いのは焦らなくてもいいんだよ、と言われている気がしました。

 一生に一度きりの人生。 いつか、と言っていたら、限りある人生どうなるかわからない。今やれることを自分のペースでやっていこう。そう思いました。嵐が好きで時にコンサートに行き、旅行が好きで、自然の中でぼんやりすることが好きで、そんな自分の「好き」を愛おしく感じていきたい。そんな時に、さとう式リンパケアにも出会います。事故等の後遺症もありずっとあちこち痛くて、いろいろ通っていたのですが、近所でリンパマッサージをやっている方の所でさとう式リンパケアのことを知りました。今まで いろいろやってきて、一時的に緩和されてもまた出てくる痛みが、筋ゆるケアをするとすっと楽になりました。ああ、私の探していたのはこれだ!と思って、自分もすぐにさとう式リンパケアのインストラクターの資格を取ります。思い立ったときの友美さんの行動力には本当に脱帽です。自分自身が筋ゆるケアで楽になったので、同じように苦しんでいる方を少しでも楽にしてあげたい!友美さんからはそんな一途な思いを感じます。

 ケアをしていてお客さんの力の抜けた顔を見ているとこちらが幸せな気分になると友美さん。「父が生きていたら私の人生はどうなっていただろう」とずっと思っていたけれど、今はこれはこれでいいや、そんな風に思えるようになったのでした。自然に逆らわずに無理せずに生きていこう。そして自分自身も周りの人も「ここちよい」と思えるそんな時間を過ごしていこう。

 今日も「やすらぎサロン ここち鳥」では、友美さんの優しくほんわり包み込んでくれる笑顔に出会うことができます。皆さんもホッとしたい時、ぜひ友美さんの笑顔に出会ってみてください。